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2005.09.29

期待が過ぎて

誉めるより、けなすほうが簡単。
などとつい言ってしまうのは
映画「SHINOBI」を見に行ったから。

たまたま、山田風太郎の原作のファンだったのが
“運のつき”なのかもしれない。
活字から入ったので映像についてはかなり点が辛いから。

そもそも「甲賀忍法帖」は
最初の章と最後の章が、きちんと釣合っていて、
(老人の世代のあきらめ、若い二人の無惨さ)
どちらの恋もかなわない。
恋を縦糸に忍法を横糸に
織り上げられた不思議な世界が、
風太郎の特色のはずだ。

だが、残念。
主役のふたり、甲賀弦之介にオダギリジョー、
伊賀の朧に仲間由紀恵、当代の美男美女同士で
どちらも気に入った役者さんだから、
期待感はあった。

それが、諦めに変わったのは、
前売券のおまけの“メーキングDVD”を見てからである。

監督も脚本家も熱っぽく語る。
この話に何か「意味」を発見したのだそう。
セット作りの苦労や、きれいな風景を撮るのに
あちこち探した話などは、
充分面白かったが、
若い人の熱意はもうひとつはっきりわからない。

そんな難しいことを言ってどうなるのだろうと危ぶんだ。
不満は、
弦之介の髪型、朧の衣装、などデザインがゲーム風で、無国籍なこと。
(奇妙なのは忍法のはず)
さてその忍法も、まともに戦ったのは一組だけ。
「髪の毛を縒った綱」を使う夜叉丸と、
力任せの体術を使う小四郎の術比べだ。

特撮を使ってのスピード感溢れる…と言いたいが、
驚くほどでもなかった。
あとは、だらだらと人が死んでいくのみで、
妖しい雰囲気も何もない。

弦之介は叫びまくるだけだし、
朧ははじめから「宿命」と諦めているし、
(これは原作と微妙に違う設定)
椎名桔平の典膳は見せ場無しだし、
最後に自ら命を絶つのは、原作では朧だったのに。

印象的なシーンは予告編に尽きているというのが、
とても哀しい。
またあのゲーム風の衣装はどうだ。
ゲーム路線で行くならもっとメリハリある戦闘場面が
あってもよさそうなものなのに。

救いは、無口だけど(映像はおとなしい)
きれいな風景と、
全く久しぶりに出会った北村和夫と、
テレビの脇役で目をつけた松重豊が、
それなりの役で出ていたことくらいかな。

最後にひとこと、「駿府城」に場所が移ると、
「どーん」とお城がお約束のように最初に映る。
なにか意味があるのかしら。

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2005.09.23

母の顔「隅田川」

今までに三回観た「隅田川」
すべて六郎さんがシテだった。

初めてのときはすっかり寝入ってしまい、
最後に子供が塚から出てくるときになってやっと目が覚めた。

二度目はこの春。
あまりの後姿の美しさ、切なさにもらい泣きしてしまった。

そしてこの日、「追善別会」ということで
先代五十五世の梅若六郎師の写真が、
祭壇に祀られている。
ロビーに居た子供が背伸びしてお香をくべている。
煙がたちのぼる中で、
三度目の「隅田川」鑑賞になった。

取れた席は正面の右端。
揚げ幕はよく見えるが、舞台を斜めから観るので、
目付け柱よりの席とは随分ちがった感じになる。

地謡は背中を、ワキもほぼ柱に隠れるこの位置からみると、
舞台はシテと作り物の「塚」だけに見える。
問答は遠くから響いてくる潮騒のように
現ならざるものと聞こえ、
母の悲痛さが目の当たりに見える。

乗り込むときの船頭との問答のとき、
ゆるやかに対岸をめざす船の中でも
シテのまわりに光が集まっているようだ。

塚に葬られているのが我が子と知った母は驚きかなしむ。
だが、里人や船頭が読経する中で気を取り直し、
静かに合掌し念仏を唱える。

そのとき子供の声がひとすじ響く。「南無阿弥陀仏」
ここではっとして、母の視線と同じに塚を見守り、
子方が登場したときには息を忘れてしまう。

手を広げて抱きしめようとしても、
するりと空を掴む。そのとき見せる茫然とした母の顔。
もう、“面”とはとてもいえない。

何度か見え隠れする子供を追ううち、
「朝の光がさしてきて、子供かと見えたのは、
青々とした塚の上の草であり」と地謡がうたう。
六郎さんは塚のまえに額ずいて、幻の面影をかみしめる。

ややうつむいた愁い顔がほんとうに美しい。

それにしても六郎さん、
どなたがワキをなさっても、どんな笛でも鼓でも。
話の筋道もこめられた気持もすうっと伝わってきて、
疲れるほどの無理もせず舞台が終わると、
いつも快い暖かなものに包まれるのはなぜだろう。


シテが橋掛りを渡って帰る間、
やはりといっていいのだろうか、拍手は無かった。

しみじみとした無音の時間が流れ、
ゆっくりと夢から覚めていく、
この透き通った時間が
好きである。

今年中に六郎さんの舞台をもう一度みられるかしら。
なにごとも体と相談の年齢になってしまって、
お能も行きたいものにいけるとは限らないのがほんとうに辛い。

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2005.09.17

TTR能「船弁慶」

九月九日の重陽の節句に「能」
大阪能楽会館まで、出かける(腰痛だけど、そんなことを言っては
いられない)

解説の高桑いづみさんが、
「お能は動く彫刻と言われます…」とおっしゃったのが
印象的だった。

美しい彫刻なら、清司さんにぴったりではないか。

ところが今日の清司さんの「静」は
ただ美しいのではなく、
置き捨ててしまわれるのか、という疑いに
面を暗くし、ついには
自ら確かめようと、義経に会いに行く。
その意志的な姿が美しい。

どうしても一緒に行けないのなら…と
門出の舞を舞う姿が、
「大人」だった。
哀しいのだがそれを見せまいとして、
きりりと謡いかつ舞う。

ホールで見たときは、席が遠すぎて、
静の表情が分からなかったので、
ただ装束の華やかさと、白拍子の舞の切れに
目をみはったものだったが、

最前列だと、古風な面の細かな動きもよく分かる。
装束の質感も感じられる。
視力のよい人を羨ましく思うのはこういう時だが、

ぼんやりとした像で記憶しているので
鮮やかだとついシテばかり観てしまった。

前回と大きく違ったのは後場。
知盛の霊が登場するところを、
綺麗だけれど、武者らしさが少ないか、と思ったのだが。

「飛出」という名ある面だったそうで、
まるで、波の中から姿を現したかのように
しんしんと薄闇が知盛の周りに降りた。

呪いの声もおどろおどろしく、義経に斬ってかかる姿は、
生前よりももの凄まじかろうと思えた。
(義経は“少しも騒がず”スラリと刀を抜き…赤松裕一くんが
すばらしい落ち着きとタイミング)

弁慶に祈り伏せられるまでの知盛の舞、
大波の揺れに合わせて、寄せて返す激しさがあった。

終わったときはほっと息をついてしまった。
あまりに力のこもったお能だったから。
「すごかったね」「よかったね」と口々に皆言い合っていて、
他に言葉が出ないのだ。

TTRのお囃子は、いつも以上によく、(小鼓 成田達志
大鼓 山本哲也)
(笛は藤田六郎兵衛、太皷 前川光長)
時には地謡を圧倒する勢いだった。
すっかりお囃子の音に慣れて、体がうきうきする。

よいお囃子、地謡、演者で「船弁慶」というドラマを
しっかり見ることができ、
充実した時間だった。

来年までTTRの能公演はないが、お囃子ライブはある。
時間が許せばまた飛んで来よう。

今までのアイは茂山家のメンバーだったので、
和泉流の船頭で観るのは初めてだったが、
小笠原さんの、抑え目の所作と、しずかだが良く透る声、
宿の亭主から船頭に早変わりするときの素早さ、など
すっかり感心してしまった。

※ 弁慶 福王茂十郎  地頭 大槻文藏 アイ 小笠原匡

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2005.09.09

名残惜しの面影「融」

春の大濠公園のほとりでみた「融」と
秋の難波の宮跡近くの能楽堂でみる「融」が
どう違うかというのも、興味のひとつだった。

しかし、電車でたった1時間半。
行きなれた能楽堂で観る友枝さんの能。
この日まで十ヶ月待った。

客席はほぼ満員。
平日の自主公演では、そう度々はない。

<旅の僧は、六条にある、河原の院跡にやってくる。庭はあれはてて
見るかげもないが、しばらく休んでいるところへ、
汐汲みの姿をした老爺があらわれる。
(旅の僧はものやわらかで慎ましい風情である。あくまでも
辞を低くして彼に問いかける。)

「ここは海辺ではないのに何故そんななりを?」との
問いかけに、
彼はユーモラスに答える。
「ここは融の大臣が陸奥の名所を真似て、毎日塩を
焼いておられた所です。どうして汐汲みが居ては
おかしいのでしょう」
笑みを含んで言葉を返し、さらさらと物語るのは、
いにしえの融の大臣のことだ。

それにつけても、とこの庭の荒れようを見渡して、
ほろほろと涙を流す。「あら、昔 恋しや」と。

恋しや、と胸に手を当てた時から老爺は
昔人の面影をあらわしはじめる。
それからのしっとりした「名所教え」は、

聴く耳と心を持つ僧に語る昔の眺めだ。
古えの河原の院からぐるりと見える、名所
(音羽山、今熊野、歌の中山清閑寺、稲荷の山に
深草の里に藤ノ森、鳥羽伏見淀、洛西大原小塩山
最後に嵐山、松尾まで)
ちょうど京都の北を除いた四分の三が次々と
絵巻のように語られる。

彼はその景色をいつも観ていたのだから、
つい詳しく細やかに語るのである。

そこではっと気づいて、はた、と
「まず、汐を汲もう」と、
楽しげにするすると汐を汲んだ。
あやまたずに田子を取り上げ、あっという間に
舞台ぎりぎりまで走り出て、満ち来る汐を
一荷汲み、そのまま夜に紛れてしまう。

僧は里人の勧めるままに、そこに居つづけていたが、
ほどなく、在りし日の装いそのままに、
融の大臣があらわれる。
白の上着に紫地の指貫(なのだろうか)。

彼が舞うにつれて、庭は昔の姿を取り戻し始め、
秋のはじめの花々はあちこちに、
泉水のかげも涼しく、月の面をときおり雲が横切る。

そのたびに大臣の姿は木陰に隠れてしまうのだが、
雲が過ぎると、扇の返しも鮮やかに、
楽しげにさえみえる軽やかな舞が続く。

僧は息を潜めて、昔の遊びや舞をみている。
すい、と杯に汲み上げたのは、宴の酒だったのだろうか、

咲き初めた萩の花が紅と白の彩りを添え、
まだ青もみじもあでやかに、仲秋の宴が再現される。

とどまっていた時が流れ始め
楽に合わせての舞が終わり、月はかたむいて
さぁっと明け方の時雨が、葉末を濡らすかと見る間に、
大臣の姿は、ちらちらと薄れてゆき、

葎の繁る庭のまなかに、
僧は行方をみやりつつ、ただいま見たものを
忘れまいと静かに立ち尽くしているのだった。

一夜舞を尽くしたのち、大臣は“月の都”へ帰ったという。
あのしろい狩衣は、月の光で
織られたものであったのだろうか>

曲が終わっても、ワキの僧が、揚げ幕にはいろうとするまで
拍手は起こらなかった。
余韻を感じることができて嬉しかった。

これで「融」は三度観たが、
ひとつづつ違っていた。
同じ友枝さんのものでも、春にみたときは

季節がもっと深まっていて、
秋の哀しみが舞台を包んでいた。

翻って今日は、秋のはじめの月の宴で
尋ねてくれた僧を前に、懇ろに舞う大臣が居た。
そのしっとりと高貴な姿。
(もう少し目がよければ、面の表情がみえるのだけれど)

「一期一会」
このように、観るたびに感じるものが違う。
できるならもっとしばしば彼の舞台を観たいと願う。
かなわぬ夢ではあるけれど。


お囃子は、力が有り余っているかのような大鼓、
かっきりと秋の月の色合いの笛、
渋くも華麗も変幻の小鼓。
気合いが入ってもなお、軽やかな音色の太皷。

※笛 杉 市和 小鼓 成田 逹志
大鼓 河村 大 太皷 前川 光長

地頭 粟谷 菊生

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2005.09.04

「妖怪大戦争」

神木くんは十二歳だそうだ。
少年期が完成する年齢。

小柄でくっきりした瞳が愛らしく、
「いじめにあう都会の子供」役がぴたりだ。

弱々しかった子供が危機に出あって、
強く変わっていく、これは成長物語の常道だ。

タダシ(神木)は祭で「麒麟送子」に選ばれ、
“人間が使い捨てた機械”を「機械妖怪」につくり変え、
人類滅亡をたくらむ魔人「加藤」と対決し、
おとなに なる。

「麒麟」と「妖怪」(天狗や猩々や河童‥など)
舞台は鳥取県の境港市、
水木しげる記念館のある場所だ。
「妖怪」は水木と京極夏彦の合作。
主題歌は忌野清志郎(ぬらりひょんでも出演)
加藤は「帝都物語」出身で
作者の荒俣宏(妖怪役で出演)、宮部みゆき(教師役)
などゲストが多彩で、
ワンシーンづつの出演。
パンフレット(七百円)を事前に買っておいて、
とてもよかった。(パンフの出来もよい。
なにしろ遊び心満点で、
妖怪一覧までついてる)

ちょっと残念だったのは、
神木くんのせりふが少なかったことだ。
驚いたり、怖がったり、喜んだり、を全部
「おおーーー!」で片付けてしまわれていて、
彼のせりふが聞けなかった。
(上手さは「ハウルの動く城」で知っている)

中盤から、桃太郎みたいに鉢巻を締め
「麒麟送子と刺繍されたマントを着、
幅広のつるぎを手に縛り付け、と
眼福な格好をしてくれて楽しかった。

この映画のメッセージは
ひとつは神木くんの言葉
「ぼくは真っ白は嘘をついた」
(自分の利益のためにつくのが、“真っ赤”な嘘で、
ひとを思いやってつくのが“真っ白”な嘘。
それができてひとはおとなになっていく…のだそう)

ふたつめは、わたしが選んだ言葉
「戦争は腹が減るだけだ」
(これは水木さんの言葉。戦争で片手を失い、
南方の島でしばらくを過ごした人。
私が彼のマンガを、はじめて
読んだのは「ガロ」でだった。
水木さんの戦争ものは、悲惨を突き抜けて、明るい。
その作者ににぼそぼそとこう言われたら、
「はい、そうですか」と納得するしかないな。)

妖怪は競うことも戦うこともしないのだそうで、
題名こそ「戦争」だが、
実際は“ええじゃないか”のように
妖怪の大群衆が踊るなかで、
偶然の出来事で「魔人」が自滅するのだ。

ウエーブしている妖怪たちの楽しそうな顔、顔、顔。
「いやいや、ええお祭やった」と言いつつ、
危なかったことに気づいてないのはほんとに幸せなことだ。

出演者がみんな楽しそうだから、見ているほうも楽しい。
小動物妖怪「すねこすり」が、作り物ってはっきりわかっていても
少しも減らない楽しさ。
これは水木ワールドなのだ。
慣れ親しんだ世界だから、少々の瑕も気にならない。
猫娘を探してみたり、ネズミ男はいなくてがっかり、と思ったり。

(子泣きジジイもいなくて残念だ。一反もめんは飛んでたが)

しっかりした世界の上に、
おとなになっていく少年の凛々しさと、
子供のころを忘れない大人の郷愁(宮迫好演)が
交叉する。

妖怪も魔人も、目にみえないだけで、いまも
わたしたちの傍に居るんだ、というラストは
人間が、捨てたもの(古びたものたち)に復讐される危険は
いつもある、ということを教える。

きっと
未来はこどもの視線の延長にあるのだろう。
おとなになったタダシには、
もう「すねこすり」は見えない。

こどもならきっと
「腹が減るだけの戦争をするなよ」という
妖怪からの呼びかけを聞くことができるのだろう。
そうあってほしい。

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