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2005.11.29

「船弁慶」…照の会

尼崎の大物浦。
頼朝と不和になった義経主従は、西国に落ち延びようと
していた。
ここまで一緒に来た静御前を都に返すことになり
弁慶が宿に行きそれを伝える。
納得しかねる静だったが義経に説得され、
旅立ちを寿ぐ舞を舞って一人淋しく別れてゆく。

船を出した義経たちはほどなく嵐に巻き込まれる。
船頭は必死になって船を操るが、波はますます高く、
風雨の中に、壇ノ浦で滅亡した平家の人々が
怨霊となってあらわれる。
そのなかで知盛は、薙刀をひっさげて、義経を討とうと
襲いかかるが、弁慶の法力に妨げられ、
「あと白波と」消えうせていく。


この後の義経の運命は…お能では「安宅」ということになる。

今年は大河ドラマ「義経」があったため
「船弁慶」を何度も観る機会があった。
お能だけでなく素謡も舞囃子も、観た。
回数を重ねると、謡や舞の順序もわかって、
より楽しく観られるようになった。

「照の会」はお能を知ったはじめのころに
「道成寺」を観たという縁がある。
上田拓司さんの主催する会で毎年一回行われ、
今年十一回目を迎える。

十月に拓司さんの「井筒」をみた。
同じころに、「望月」で三男の顕崇くんを観た。
以前には、仕舞も舞囃子もただなんとなく
みていただけだったが、
少し仕舞をかじってから観るととても面白い。

この日は舞囃子は二番。
「菊慈童」と「田村」
静と動

「菊慈童」は次男の彰敏くん。
曲は菊の枕のおかげで不老長寿を得た、
「慈童」(少年)の話である。

優しく縹渺とした中に寂しさを含んだお能。
彼の若く、清々しい舞がよく似合っている。
ひとつひとつの型がきっちり決まっているのが
わかりやすくて嬉しかった。

長兄宜照くんの「田村」
こちらはもう、生き生きとした激しさだ。
飛びかえり、というのだったか、
飛び上がって一回転して着座、の型など
目を見張るものがあった。

爽やかな気分になったところで
狂言は「千鳥」
千五郎、七五三兄弟の
かけあいの「間」が絶妙だった。
しばらく狂言から遠ざかっていたので、
とても新鮮に感じた。
「千鳥」は謡も舞もあって良く出来た曲だ、とわかる。
主人役の正邦さん、美声が、この日はコントロールされていて、
柔らかく聞こえた。

いよいよの「船弁慶」
小書が「重キ前後之替」
「語入名所教」と二つも。

実は、小書のことはあまりよく知らない。
弁慶の語りや船頭の名所教えがあって
時間も一時間四十分かかった。
これまでに見た中で一番長い。

静御前はこれまでに、情熱的な静、や
耐える静、やひたむきな静、などを見た。

上田さんの静はまたすこし違っていた。
穏やかななかにも芯がある。
面は地味なのに、輝くようなものが内からにじみ出ていて、
彼女が秘めているおもいのつよさを感じた。
立てた襟の内側が抑えた緋色なのが目に鮮やかだ。

別れの哀しみをおしかくして舞うとき、
面は一瞬に誇りたかい白拍子の顔に変わった。
こういうとき、すうっと気持が舞台に
吸い込まれていくような気がする。

舞うときの静は、ハレの姿なのだ。
すると舞台の中の舞台でシテは舞っていることになる。
この入れ子細工の仕上げを手伝うのが後見のお二人。

大槻文藏さんと赤松禎英さん。
文藏さんは、すっと静の後に座って、
烏帽子を支えたりしておられたのだが、
赤松さんが、襟を折り返して、浅緋の部分を隠し、
長絹を着せたとたんに、シテの雰囲気が変わるのだ。
その赤松さんの針を持つ姿の美しさ、糸を切る音が
しんとした場内に響く。

「物着」もまた曲の一部なのか。
舞台の中央でなされたときは特にそうなのだろう。


静の舞は綺麗だった。
ただの綺麗、ではなくて、そこに居たのは静だった。
丁寧でゆったりしているのに、眠くならないのは、
ひとつづつの型が、しっかりきっちりしているからで、
型に支えられた美とは、こういうものか、と思う。
例えるならば「古代雛」、
格調高い優雅さがある。

後シテの知盛は、
面があまり恐ろしいふうでなかったこともあって、
怨霊の激情より、海に沈んだ公達の無念を思った。
幕の中で名乗りをあげて、橋掛りを歩んでくる姿が
儚かった。

そして、
迎え撃つ義経は、しっかりと幕を観ていた。
脇正面から観ていて、シテの登場がわかったのは
彼の視線によってだった。

顕崇くんはほとんど大人に近い子方だから、
互角に知盛と相対することができる。
太刀を抜く姿勢も、何合かの打ち合いも、
子方の域を越えている。

私個人の好みだが、
これからが楽しみでならない。
声変わりの初期のようで、しばらく舞台は観られないだろうが、
面かけのときはぜひ、観てみたいと思う。

楽しいことは他にもあった。
舞囃子の大鼓が、大倉慶之助さん。
顔は知っていたが、名前は初めて知った。
若いだけに力強い音だ。
また、お能の小鼓が成田さん、底響きのある声は変わらない。
大鼓が山本孝さん、どんどん音が強く、澄んでいく。
枯れ具合がなんともいえず素敵だった。

【船弁慶】シテ 静御前・平知盛の亡霊 上田 拓司
    ワキ 武蔵坊弁慶 福王 茂十郎
    ワキツレ 従者 福王 知登 
            永留 浩史
            喜多 雅人
    アイ 船頭 茂山 千三郎

笛:野口 亮 小鼓: 成田 逹志 大鼓:山本 孝
太皷:三島 元太郎

【舞囃子】笛:野口亮 小鼓:古田 知英 
大鼓:大倉 慶之助 太皷:三島 元太郎
 平成十七年 十一月 十八日(金)於 大槻能楽堂

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2005.11.17

「信長が宿敵 本願寺顕如」

今回の作品には“笑い”がやや少ない。
それが少しだけ残念である。
テンポのよいかけあいから生まれる可笑しみが
よんでいていつも楽しいからだ。

鈴木さんの時代小説は、どれも切り口が面白い。
顕如という人物を彫り上げるために、
信長、秀吉、光秀、と豪華な三人が、
登場して「華」を添えている。
さらには足利義昭もだ。

なかでも、信長は、
誰もが「果断」で新しい時代を開くひととして
小説に描き、ドラマにしている。

その信長を、『細心で、強情で、戦下手』という
性格に描いてある。
また秀吉には、存分に名古屋弁を喋らせている。
鈴木さんの地言葉だから、
苦労人な秀吉像がいきいきと息づいている。
秀吉はあとで本願寺の運命に大きな影響をあたえるのだ。

この本に出て来る息子の教如は
かつて「忍者武芸帳」(影丸伝)白土三平作、に
苛烈な信長に対する若い門跡として
ほんのちょっとだけの登場した、のを覚えている。
※まだ歴史に興味がなかったので、
「石山本願寺」は滋賀県の石山にあると思っていたときだ。


教如が革新派で、顕如が守旧派、という分け方でいいのかしら。

なるべく戦を避けようとした顕如だが、
信長包囲陣を計画して実らず、
戦に明け暮れて10年余り、

ついに石山本願寺の兵糧攻めという脅しにより
女、老人、子供のために、
紀州へ動座(降伏)した。
平和を口にしても実際は戦い続けたのだ。

彼は、すでに古いものの権化の足利将軍制度、
ひいては義昭を理解した。
“新しい”信長の考え方、やりかたには
ついていけないものを感じていた顕如は
彼を滅ぼしさえすれば、と思ったのだった。

ところがこの新しい時代の申し子は、
めちゃめちゃ運がよく、
暗殺の試みは失敗、敵は次々と死亡、
光秀が裏切らなかったら、彼の天下は続いたろう。

かれの死んだあと、天下を取った秀吉は、
いったん隠居した顕如を門跡とし、
後継ぎは教如の弟の準如とした。


一方、教如は信長に徹底抗戦した。
ただし三月で降伏したが。
門跡を降ろされたことで彼は
生き延びるために家康に取り入った。

家康が本願寺の勢力を弱めるために
ふたつに分けたとき
東本願寺の門跡となったのである。

大きくなりすぎた教団は矛盾を抱えざるを得ない。
本願寺では、矛盾は親子の間で出た。

親の背中を見て子は育つというが、
血が繋がっているからこそ相容れないこともある。
顕如親子はついに歩み寄ることができなかった。

どちらが好きかと言えば
若いころなら多分教如に気持が動いたろう。
そのひたむきさがうつくしいと思ったろう。
でもいまは、親の哀しみがとてもよくわかる。
「親が自由になるのは子供の“幼な名前だけ”だ」と
顕如は述懐するが、
それがわかったから、彼は教如を許せたのだろう。

新しいことはかならず正しい顔をしている。
時が経たないと、よかったことと、よくなかったことの
区別はできない。

「ふるいことはわるいことではない」と
作者が言うのは、過去をみているのではなく
遠い未来をみていっているのだ。
ふるいことから生まれてくることは、
激しいときめきはともなわないが、
ゆっくりとたしかめつつ物事をすすめていけば、
その結論が、弱いものに仇なすことは
すくないのではなかろうか。

付記:作者 鈴木輝一郎

あらすじをまとめたいのだけど、膨大すぎて断念した。
中味はタイトルどおりです。

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2005.11.11

「舟渡聟」

狂言は茂山家の公演で、けっこう数をみたのだが、
この「舟渡聟」ははじめて。

萬さんところの狂言を観るのは、年に一度あるなしだけど、
たいそう良かった。

きりきりと緊張してみないといけないほどの、
圧迫感もなく、
万蔵さんの顔はとても明るくて好感度抜群だ。

萬さんは、琵琶湖の矢橋の船頭の役だった。
「髭」が自慢の酒好きな
おもしろいおじさんである。

せっかく聟が舅に、持ってきた良い酒を
聟だと知らないものだから
せびりにせびって、うまうまと半分がとこ飲んでしまう
そのやりとりがじつに楽しい。
しかめ面して、酒樽を振り、中味の減り具合をたしかめている
万蔵さんの顔、なんともいえないおかしさがある。

聟が来ていると言われてそっとのぞいたら、
さっきの舟の客だったことを知り、
逃げ出そうとする舅もまた、かわいくておかしい。

ふたりの軽妙なやりとりの陰で、
骨太な女房を演じるのが小笠原さん。
アイ狂言で何度かであっているが、
聞きやすいよい声とはっきりした発音が快い。

女姿はややいかついが、迫力があって、
おやじはとてもかなうものではないと
変なところで納得する。

客席にすこし空きがあるのが残念なくらい、
からりとしておおらかな狂言だった。
舅と聟とふたり、扇をかざして舞うところなど、
良い間合いでとても楽しめる。

家それぞれに面白さが違うのが
このところ狂言をみていて楽しい理由である。
萬さんたちの狂言は、
ほどのよさがなんともいえない。
小笠原さんはともかく、
関西での出演がもう少し度々あれば、と思う。

※ 【舟渡聟】舅 野村 萬 聟 野村 万蔵
       女房 小笠原 匡

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2005.11.10

執心晴れて…「浮舟」

「源氏物語」を読んだことがあるか、と聞かれたら
ちょっとためらってしまう。
少女漫画の「あさきゆめみし」は読んだけれど、
つい最近、田辺聖子の「新源氏物語」シリーズを読むまで、
「宇治十帖」の記憶はおぼろげだった。

だから、登場人物で親しみがあるのは主に
前半のひとたちで、
浮舟って、うじうじしたはっきりしない女だと思い込んでいた。
「霧深き宇治の恋」(田辺訳の宇治十帖)ではじめて
変わっていく女人としての彼女を見出した、と言って良い。

友枝さんが舞う「浮舟」はどんなだろうと、
少しだけ謡本で予習した。
聞き取れないとお能の流れについていけないから。


和泉の国へ観音巡礼に行った帰り道、
僧は宇治川のほとりに着いた。
舟の女に浮舟のことを尋ねる。
女は浮舟のことを語ったあと、
「御身は何処に住む人ぞ」という問いに
「小野にて」尋ねて下さいといいのこして消えうせた。

比叡の麓、小野の里にやってきた僧の前に
ありし日の浮舟が姿をあらわす。
入水のさまを語り終え、
「あなたに成仏を祈ってほしいと思いました。
いまは心も晴れ晴れとして
兜率天に生まれ変われて嬉しい」と
言い残して、杉の間を渡る風の中に消えてしまった。


前シテは柴積み舟に乗っていた。
薄い黄色の水衣に腰巻、地味な色の小袖がのぞいている。
揚幕から出て橋掛りにたち、すぅっと左右を見渡す眼差し
舟から眺めやる川の流れと、緑濃い山の景色がひろがる。

僧が、女に
浮舟のことを聞いたのはなぜだろう。
女の清らかな面影がそう思わせたのだろうか。
美しい声で語る昔語り。
他人事のように話すのだが
薫大将と匂宮に思われて、
板ばさみになって身を投げた次第をしみじみと詳しく語る。
その生身のひととは思えないふわりとした感じが
「ほんとうはどこの人なのですか?」と
僧に問わせたゆえだろう。


舞台が川から山に一変する。
洛北の地、
比叡の峰を間近にした、小野の里に僧は着く。
都の華やぎから遠く離れ、
山をいくつも越えた、奥まったところだ。

現われた後シテは
暖かな紅入りの上の衣と、緋色の長袴姿だった。
ながい裾をさばいて軽々と友枝さんは歩む。
いつもの、滑るようにぶれない歩みだ。

山の気が凝った精のようでしかも愛くるしい。
入水する直前のもの思いのさまを嘆き語る
臈たけた風情は、いかにも貴な宮の姫君で、
ふたりの貴公子が思いをかけたのも、無理からぬことに思える。

「この浮舟の寄辺知られぬ」と謡い終わって
さっと上の衣を脱ぎ捨てる。
一瞬に、白の下着と袴姿になる。
流れに巻かれたときの姿はきっと
こうだったにちがいない。

物着で、白の長絹を羽織ると、
神々しいまでに凛々しい女人に変わる。
おなじわかい女の面なのに不思議なほど印象が違う。
真っ直ぐに正面を見据えているのは、
こころが晴れたからだと思える。


比叡の麓、横川の下、といえば、この小野の里は
大原からそれほど遠くはないだろう。
(大原まで市中からバスで小一時間)

四方が山で日暮れははやい。
冬はまちよりはるかに冷え込む。


都からはるかに離れたところで、
やっとこころの平安を得た浮舟だった。
(と田辺さんは書いている)
美しい衣装も、男たちとの愛も
もはや彼女の気持を惹かない。

彼女がはじめて自分で決心したのは
一切を捨てて仏に帰依することだった。
人の思惑に流されるのをやめて、
自分であろうとする女は、
川のほとりを離れて、
山深い中にひとり佇つこととなった。


舞台の上に夜明けがきて
浮舟は風の音のなかに消える。
謡が終わってシテがもどってゆく。
足を運ぶたびに衣擦れの音がきこえる。
寸分の狂いもなく同じ間隔をおいて。
袴の裾の緋色が動く。
幕に入って一足、二足、残響のように鳴って、消えた。

この日観た友枝さんは、
暖かな夕焼けのようにうつくしかった。
謡で言うなら“落日の紅”。
やわらかなそのすがたは、
内から滲む優しさに満ちていた。
「なよやかでなつかしい」浮舟は、
このようなすがたかたちではなかったろうか。

ほのかに輝く“玉”のように
穏やかでやさしく、仏の国に生まれ変わったすがたに
こころ洗われるお能だった。


曲についての疑問がある。
浮舟はなぜ、つらい思いの満ちた宇治川で、
「うきふね」をあやつっていたのだろう。
いまとなっては昔のことも、
なつかしいとおもえるようになったからなのだろうか。

ゆったりとしたお能の時間をすごすと、こころがじんわり潤って、
帰り道も次の日も、しばらくはあの緋色の袴が
あたまから離れない。
脱ぎ捨てられてひとかたまりになった、紅の小袖は
若さと華やぎの徴かとおもう。
年取っては着ることのできない色あいだから。
けがれのない長絹の白は、
たとえ白髪になったとしても、
いっそうよく似合うようになる色だ。

老いと向き合う年になってはじめて、
変わるものや流れるものをたいせつに思うようになった。
いつ出会ったかは問題でない。
まだしばらくは友枝さんのうつくしいお能を見つづけたい、
という気持を
公演のたびに、たしかめてかみしめている。

※11月6日  「友枝会」
 【浮舟】シテ 友枝 昭世 ワキ 宝生 閑
   笛 一噌仙幸 小鼓 北村 治 大鼓 柿原 崇志
   地頭 粟谷 菊生
  【石橋】シテ 友枝 昭世 ツレ 友枝 雄人
      ワキ 宝生 欣哉
   笛 一噌隆之 小鼓 観世 新九郎
   大鼓 國川 純 太皷 金春 惣右衛門
   地頭 香川 靖嗣

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2005.11.05

「蝉しぐれ」

夏の終わり頃からテレビや新聞で、
「二十年、ひとを思いつづけたことがありますか」と
盛んに宣伝していた。
藤沢周平原作の「蝉しぐれ」である。
黒土監督が十五年間あたためつづけた企画だそうだ。

先に宣伝を見すぎると嫌になったりするものだが、
このお話は、私も“二十年”愛読してきたので

いったいどんな「海坂藩」なのか気になって
普段は買わない前売券も確保した。
012-isigaki-gyakkou



東北の小藩、海坂藩の下級武士、牧文四郎は
お家騒動に巻き込まれて父を失った。
剣を修業し、旧禄に復して村回りの仕事に励む。
ほのかに思いを寄せていた隣家の少女、ふくは藩主の
側女となった。
ふくの産んだ子を巡って
またしても藩上層部の争いが起こる。
文四郎はふくの子を護ってたたかい、父の仇の
家老にも一矢を報いる。
………
年月が経ち、出家を目の前にしたふくは
文四郎を呼ぶ。
であったふたりは昔の思い出を語り合い、
駕籠で帰ってゆく彼女を文四郎は黙って見送る。
長い間思いつづけてきたふたりの
美しくもかなしい別れであった

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自分の想像と違っていたら嫌だな、と心配だったけど、
まったくそんなことはなかった。
この映画では、風景が<話す>

春の桜は言うに及ばず、川も海も山も
畑も坂も雨も、静かに語りかけてくるのだ。
人間だけが生きているのではない。

向かいあった親子の間にくっきりと山が浮かび、
仲良しの友人たちと語らう主人公たちは
太い木の幹にまたがって、川風に吹かれつつ話をする。

当たり前のことだけど、
ひとつのエピソードが終わって画面が切り替わるときに
まず映る山や田、畦や案山子、蛙や蝶。
そう、こんなに自然にこだわった映画は珍しい。
しかも、この風景たちは、饒舌ではない。
藤沢氏がそうであるように、静かに言葉すくなに語る。
ただそこに居るだけのときもある。

観客は平日の昼だから少なくて、
友達が取ってくれた席は真正面、
映画だとちゃんと画面が見えて良い気分だ。
年配が圧倒的なのは「SHINOBI」とは違って
若向けの配役じゃないからだろう。

主演は市川染五郎と木村佳乃。
助演に加藤武をはじめなかなかの芸達者連中。
(柄本明、大滝秀治、緒形拳、パンフレットに載っている
助演の人たちのなんと地味なこと)

子役のふたり、石田卓也と佐津川愛美。
文四郎の骨ばった少年から青年に変わる年頃の
熱っぽい感じ、おふくのまっすぐな眼差し、
本で読んだとおりだ、とすぐに引き込まれてしまった。
川べりの洗い場、文章から想像していたものとは
違っていたけど、でもこの草いきれ、川に入って顔を洗ったり
蛇がうねったり、
そうだったのか、と涙ぐんでしまう。
こんな場所だったんだと。

ずっと知っていたような気がして、なつかしくてならない
そんな場面が次々と続く。
台詞の少なさは気にならない。
頭の中で、次のページがめくられて、勝手に言葉を
付け加えているから。
016-aozora



主役のふたり、染五郎は目下のお気に入りなので問題ない。
難があるとすれば、着物姿が板につきすぎていて、
他の若い出演者との間に差がありすぎることくらいか。
頭を下げただけでさまになるのだから。

木村佳乃は、実はあまり見たことのない女優さんだ。
この映画に限っては、
やや古風な目がひたむきなおふくにぴったりだし、
りんとした姿に心がこもっていた。
くちもとの整った愛らしさも綺麗だ。
別れのとき、駕籠の格子から見つめる目の強い輝きが
思いの強さをあらわすようで、印象的だった。

また、麿赤児と加藤武が並んで居る場面や、
緒形拳、大滝秀治などベテラン勢の演技が
見ごたえ抜群だ。


この映画にはCGは使われていない。
全部、実景である。
それだけでも今の映画には珍しい。
妥協せずに全国各地、ぴったりな景色を探しつづけた
監督のおかげで、

私も自分の「蝉しぐれ」の風景を彩色することができた。
これはなによりの喜びである。

最後に主題歌が一青窈
やさしくて不思議な旋律が、ちょうどよいのだ。
途中はもちろん最後のタイトルバックでも
歌は流れず音楽のみ。
これもひとつの考えなのだろう。
歌を覚えたいととても思った。

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2005.11.04

湖北の舞台~淡海能

湖北の城、彦根城。
譜代大名の井伊家は
琵琶湖の水運を引き受け、
都の出入り口をしっかり固める役目であった。
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いまでは、春は桜の名所として知られる。
駅はまだまだひなびた雰囲気を残しており、坂をゆるゆると
登っていくと、二十分ほどでお城の下に着く。
道がまっすぐ見通せないようにまがっているのが、
昔習った城下町の作りである。

例に洩れず公園になっているお堀前の道をたどり、
古風な橋を渡って、石垣の間から、
ただいまは博物館になっている
お城の中に入る。
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庭はすぐ横の道をずんずん天守閣のほうに上がっていくらしいが
観たい観たいとおもうけど、去年も今年も割愛した。

きょう来たのは、
滋賀県立大能楽部の公演「淡海能」を観るためである。
去年も来て楽しかったので味をしめたのと、
平日に、ちょっとした旅気分でたっぷり仕舞やお能が
観られるので嬉しいのだ。

着いたのは定刻より少々遅れ、見所は満員。
ここの舞台は半屋外で、
舞台に屋根があるのは普通だが、
客席はすこし離れてこれも屋根の下。
でもその間は吹き抜けで、
よく晴れた上天気、お日さまは舞台半分を照らしている。

明るくてよいけれど謡ったり舞ったりする人にとってはどうだろう。
衣装も装束も、外光だからくっきりと見えて、
幽玄な感じは減じるが、健やかで明るい会である。

観光客がふらりと出たり入ったり、
ずっと観つづけている人も居る。
不思議なのは、マナーがとてもいいことだ。
ごそごそするひとも少なく、出入りも切れ目にそっとだし、
有料のお能の公演より静かだ。(無料なのです)

素謡、仕舞、連吟、
どれもよく言葉がわかり、
パンフレットに解説が書いてあって親切で、
ちょこちょこ見ながら楽しむ。
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018-butai-wakiyori

150席くらいだろうか、よくよく聞こえる。
脇正面席、というのもあるのだが、
ガラスで仕切られた室内側にあるので、
はっきり観ようと思ったらやはり正面に座らねば。

お能は「船弁慶」
今年はあちこちでされる演目だ。
前シテの静御前が登場したとたん、
「わぁ綺麗」みなが息をのむ気配がした。

ややうつむき加減に歩んできて、シテ柱のところで立ち止まる。
優しくしとやかな静である。
義経の真意を聞きに行くときも、
やわやわとしたおとめらしさを失わない。

ワキ方も狂言方もお囃子方もプロの方々で、
しっかりとした周りがあるからだろうが、
練習の結果なのだなあ、と
感動してしまった。
(練習嫌いな自分が恥かしい)
後シテの知盛はこれまた、
出てきたとたんに、女性とは思えないほどの気合いに
圧倒される。
薙刀を構えるところも、義経におそいかかるところも、
朗々とした語りがはっきり聞こえて、
ドラマを追うのにたいそう楽だ。
020-sizuka
022-tomomori

「船弁慶」ってこんなお能だったのだ、と
わかってとてもすっきりした気分だった。
舞台が明るいのも、助かった。
(暗いととてもみえづらいのだ)
謡と語りがわかれば、
お能は決してわかりにくくないのだ。
若いひとたちがこんなに楽しそうに舞っているのだもの。

感心したのは、義経役のひと。
お能ではこの役は子方がするので、
おとなのひとでどうなんだろうと思ったが、
まったく要らぬ心配だった。

知盛と弁慶が丁丁発止とやりあっているとき、
沈着な義経はしっかり座って自分の場を占めている。
迫る知盛に刀を抜いて立ち向かう段で、
はじめてためていた力を放つ。

明るかった光がやや薄れたころにお能は終わった。
来年もまた来よう、と思いながら帰る。
平日でありますように。

主催:滋賀県立大学能楽部
指導:深野新次郎 深野貴彦

※ 笛 杉 信太朗 小鼓 曽和尚靖 大鼓 石井保彦
 太皷 前川光範

 弁慶 原 大  船頭 茂山 正邦

 地謡 浦田保浩 浦田保親 大江信行 宮本茂樹
     越賀隆之 深野新次郎 深野貴彦

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2005.11.02

「海国記」上・下

大河ドラマが「義経」なので、そのころを舞台にした
小説も今年は多い。

標題の「海国記」は
平氏の歴史を、海から(宋とのかかわり)描写した話である。

平氏の栄華を書くのなら、清盛の時代が中心に
なるべきところを、
作者の服部真澄は、清盛の祖父正盛の自時代から書き起こしている。

この平家“前史”の部分(上巻)がたいそう楽しい。
正盛と絡むのが、
「渡しのもの」と呼ばれる、海上の道を知るひとたち、で
なぜ、受領階級が富を得たか、の疑問の答えとしている。

当時の中国(南宋)と日本を繋ぐ海上の道、
内海は言うに及ばず、大宰府から中国に至る航路を
自らの手の内に入れた男「水龍」を作者は設定した。

「渡し」のものたちが、瀬戸内の海を我が物としていたさまを
書き、狭い陸の上の細々した争いから、小説を明るく広い天が下に
引き出している。

水龍の養い子でありかつ彼を恋う女が、
白河法皇の寵姫「祇園女御」であるとされる。
「素性確かならぬ」女性だが、海と宮廷を繋ぐものとして
はつらつと輝いているさまが描かれる。

神社の神人、寺の僧、流通に携わるものたちはお互いに
競争して異国からの珍しいものや書物を持ちこみ、
公家や上皇、院がその宝を得る。

経済史は、面白くないから嫌いだったけれど、
年と取るとこういう、実は…という種明かしに興味が深まる。

流通の端と端、その間に数々の見知った名前が貫なり
平家物語の人々の別の顔が見えてくる。

貧乏学者の子「信西入道」
正盛の子忠盛、
二の君(祇園女御と水龍の子)を通じて
渡しの血が平家に入り、
「厳島」の神人の要請により
神を立派に祭りあげ、
西国に平家はゆるぎない足場を築いた。
(新しい神社の後ろ盾になることは、古いしがらみから
離れて、自分たちのよいように物を動かし利益を得られる)

下巻は、史実から離れられないので
話の速度があがりすぎ、残念だったが、
視点の闊達さは捨てがたい。

四十半ばの服部氏。
「巴御前」の鈴木輝一郎と同年代。

新潮ケータイ文庫、に書き下ろしだそうで、
ケータイでこの本を読む人たちが居るんだ、というのも驚きである。
「字」でないと遡ってよみ直せまいと危惧するが、
この勢いのある文章なら、ざざっとおしまいまで引っ張って
いけるだろう。

一冊ではわからないから、と借りてきたもうひとつは
「GMO」(遺伝子組み替え植物)

こちらは、ハードボイルド系。
目の付け所が面白いのは同じ。
遺伝子組み替えの植物は、
「大豆」などで、お馴染みといえばなじみ。
どこに問題があるおかさほど気にしていなかったが、
「タネ」をまかなきゃ実はならない。

もうかるならばどんなことでもする企業や国。
(麻薬であれタネであれ)
小説仕立てだからわかりやすい。

お話だと思っていることは、しばらくすると
現実になる…と私は思っている。
そのときが来たら、日本のコメはどうなるのだろう。
こちらはすこし寒気のする物語。

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