« 「蝉しぐれ」 | トップページ | 「舟渡聟」 »

2005.11.10

執心晴れて…「浮舟」

「源氏物語」を読んだことがあるか、と聞かれたら
ちょっとためらってしまう。
少女漫画の「あさきゆめみし」は読んだけれど、
つい最近、田辺聖子の「新源氏物語」シリーズを読むまで、
「宇治十帖」の記憶はおぼろげだった。

だから、登場人物で親しみがあるのは主に
前半のひとたちで、
浮舟って、うじうじしたはっきりしない女だと思い込んでいた。
「霧深き宇治の恋」(田辺訳の宇治十帖)ではじめて
変わっていく女人としての彼女を見出した、と言って良い。

友枝さんが舞う「浮舟」はどんなだろうと、
少しだけ謡本で予習した。
聞き取れないとお能の流れについていけないから。


和泉の国へ観音巡礼に行った帰り道、
僧は宇治川のほとりに着いた。
舟の女に浮舟のことを尋ねる。
女は浮舟のことを語ったあと、
「御身は何処に住む人ぞ」という問いに
「小野にて」尋ねて下さいといいのこして消えうせた。

比叡の麓、小野の里にやってきた僧の前に
ありし日の浮舟が姿をあらわす。
入水のさまを語り終え、
「あなたに成仏を祈ってほしいと思いました。
いまは心も晴れ晴れとして
兜率天に生まれ変われて嬉しい」と
言い残して、杉の間を渡る風の中に消えてしまった。


前シテは柴積み舟に乗っていた。
薄い黄色の水衣に腰巻、地味な色の小袖がのぞいている。
揚幕から出て橋掛りにたち、すぅっと左右を見渡す眼差し
舟から眺めやる川の流れと、緑濃い山の景色がひろがる。

僧が、女に
浮舟のことを聞いたのはなぜだろう。
女の清らかな面影がそう思わせたのだろうか。
美しい声で語る昔語り。
他人事のように話すのだが
薫大将と匂宮に思われて、
板ばさみになって身を投げた次第をしみじみと詳しく語る。
その生身のひととは思えないふわりとした感じが
「ほんとうはどこの人なのですか?」と
僧に問わせたゆえだろう。


舞台が川から山に一変する。
洛北の地、
比叡の峰を間近にした、小野の里に僧は着く。
都の華やぎから遠く離れ、
山をいくつも越えた、奥まったところだ。

現われた後シテは
暖かな紅入りの上の衣と、緋色の長袴姿だった。
ながい裾をさばいて軽々と友枝さんは歩む。
いつもの、滑るようにぶれない歩みだ。

山の気が凝った精のようでしかも愛くるしい。
入水する直前のもの思いのさまを嘆き語る
臈たけた風情は、いかにも貴な宮の姫君で、
ふたりの貴公子が思いをかけたのも、無理からぬことに思える。

「この浮舟の寄辺知られぬ」と謡い終わって
さっと上の衣を脱ぎ捨てる。
一瞬に、白の下着と袴姿になる。
流れに巻かれたときの姿はきっと
こうだったにちがいない。

物着で、白の長絹を羽織ると、
神々しいまでに凛々しい女人に変わる。
おなじわかい女の面なのに不思議なほど印象が違う。
真っ直ぐに正面を見据えているのは、
こころが晴れたからだと思える。


比叡の麓、横川の下、といえば、この小野の里は
大原からそれほど遠くはないだろう。
(大原まで市中からバスで小一時間)

四方が山で日暮れははやい。
冬はまちよりはるかに冷え込む。


都からはるかに離れたところで、
やっとこころの平安を得た浮舟だった。
(と田辺さんは書いている)
美しい衣装も、男たちとの愛も
もはや彼女の気持を惹かない。

彼女がはじめて自分で決心したのは
一切を捨てて仏に帰依することだった。
人の思惑に流されるのをやめて、
自分であろうとする女は、
川のほとりを離れて、
山深い中にひとり佇つこととなった。


舞台の上に夜明けがきて
浮舟は風の音のなかに消える。
謡が終わってシテがもどってゆく。
足を運ぶたびに衣擦れの音がきこえる。
寸分の狂いもなく同じ間隔をおいて。
袴の裾の緋色が動く。
幕に入って一足、二足、残響のように鳴って、消えた。

この日観た友枝さんは、
暖かな夕焼けのようにうつくしかった。
謡で言うなら“落日の紅”。
やわらかなそのすがたは、
内から滲む優しさに満ちていた。
「なよやかでなつかしい」浮舟は、
このようなすがたかたちではなかったろうか。

ほのかに輝く“玉”のように
穏やかでやさしく、仏の国に生まれ変わったすがたに
こころ洗われるお能だった。


曲についての疑問がある。
浮舟はなぜ、つらい思いの満ちた宇治川で、
「うきふね」をあやつっていたのだろう。
いまとなっては昔のことも、
なつかしいとおもえるようになったからなのだろうか。

ゆったりとしたお能の時間をすごすと、こころがじんわり潤って、
帰り道も次の日も、しばらくはあの緋色の袴が
あたまから離れない。
脱ぎ捨てられてひとかたまりになった、紅の小袖は
若さと華やぎの徴かとおもう。
年取っては着ることのできない色あいだから。
けがれのない長絹の白は、
たとえ白髪になったとしても、
いっそうよく似合うようになる色だ。

老いと向き合う年になってはじめて、
変わるものや流れるものをたいせつに思うようになった。
いつ出会ったかは問題でない。
まだしばらくは友枝さんのうつくしいお能を見つづけたい、
という気持を
公演のたびに、たしかめてかみしめている。

※11月6日  「友枝会」
 【浮舟】シテ 友枝 昭世 ワキ 宝生 閑
   笛 一噌仙幸 小鼓 北村 治 大鼓 柿原 崇志
   地頭 粟谷 菊生
  【石橋】シテ 友枝 昭世 ツレ 友枝 雄人
      ワキ 宝生 欣哉
   笛 一噌隆之 小鼓 観世 新九郎
   大鼓 國川 純 太皷 金春 惣右衛門
   地頭 香川 靖嗣

|

« 「蝉しぐれ」 | トップページ | 「舟渡聟」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/78456/7023664

この記事へのトラックバック一覧です: 執心晴れて…「浮舟」:

« 「蝉しぐれ」 | トップページ | 「舟渡聟」 »