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2005.12.31

隙間たいむ

お能を観に行くときはいつも、
点から点への往復で、余分の時間なとない。
ところが、この冬の時ならぬ大雪のせいで、
“東京”で四時間ばかり、時間をつぶさなければ
ならなくなってしまった。
これは大変、ボーっとした頭で考える。
まず、地図が要る。

駅の本屋で見比べて、お手ごろの観光案内本を買う。
今風のしゃれたレストランやブティックの紹介や
やたらに高いホテルの案内も載っていたが。

まず閃いたのは、山手線で行ける範囲の場所。
その次に、長く居られて安い場所。
ビルが少なくて、歴史がちょっびりあるとなお良い。

選んだのが「上野動物園」
あの“ぱんだ”が居るところだ。
わたしはまだ“ぱんだ”をじかに見たことがない。
こういうときこそチャンスだ。

上野の駅は威圧感のないところだった。
聳えるビルがないからだ。
風はとても冷たいが、公園に向かって歩いている人の
あとをぼちぼちついてゆく。
駅を出てすぐのところに、ちょっと古風な建物があった。

その入り口に「ピアノコンサート」のポスターが。
時間が短くて一時間。
ピアノわりと好きだし、何よりたったの五百円で、
暖かい室内にすわっていられる。
すばやく決心して当日券を買う。
入ってみると、
天井が高く、空間にゆとりがあって
ロビーの見晴らしもいい。
東京文化会館というそうだ。

若い若い女性ピアニスト。
うちの子供と同い年くらいかしら。
肩剥き出しの華やかなステージドレスで、
最初に弾かれたのはバッハの
「主よ 人の望みのよろこびよ」だった。
バッハは好きだったので気持ちよくリズムに乗る。

次の「展覧会の絵」は、全曲聞いたのが初めてだ。
これは若さと力で、がんがん鳴るところがすごくいい。
ロシアっぽい味もちらっと感じさせて、
最後まで飽きなかった。
締めくくりの曲は(シューマン作曲「献呈」)
これはお得意らしく、手慣れていて実に楽しそうだ。
ホールは後から入って来る人もあってもう満員で、
わたしは荷物を膝に乗せてしっかり聞き入っていた。

心地よく温まって、いよいよ動物園に出発。
ホールからはたった五分だった。
美術館も途中にあったが、
展覧会見るのって意外に気力と体力を消耗するから、
お能までに気がくたびれてしまったのでは
元も子のないからと、素通りする。

まずパンダの檻を尋ねると、
入口のほんの右手。
“リンリン”ちゃん(嬢かな、様かな、嫗かな)
が、どたっ、とうつぶせに寝ていた。
「死んでるっ」などと小さい子たちが騒いでいたが、
なんのなんの、目はきょろりと動いている。
ゆったりと横になっているだけだった。
テレビで見るよりおおきいし薄汚れてるし、
園内にあるヌイグルミのほうがよっぽどきれいだ。

まず食事しようと、レストランへ。
「けんちんうどん」を頼んだら売り切れだった。
うどんは他には「カレーうどん」だけ。
二日前から風邪ひいて胃とお腹と両方調子が悪い。
カレーは避けたほうが無難だろう。
さんざん悩んで「ホットケーキ」を頼む。
それをお茶で流し込んで…よくよく噛んで
エネルギー補給をし、いよいよスタート。

象にサイ、そっくりの泥色。
風が強く、象の一団が歩くとほこりが舞い上がる。
寒い。
ぷるぷる震えながらキリンにオカピ、
フラミンゴに、ハシビロコウを見る。
ハシビロコウは何だか人間みたいに横目づかいで
こちらを見ていた。
鳥の集団は迫力があって、フラミンゴはせっせと喧嘩していた。
ぎゃあぎゃあとやかましく首がにゅるにゅるしていて変。

モノレールがある。
東園から西園に、一分半走る。
寒くて歩くのがいやだったから往復お世話になる。
途中でエミューの檻の横をとおり、たくさんのエミューに
しっかり睨まれる。きょろ目が迫力。

西園に行ったのは
不忍池が見たかったので。
「上野不忍池」、小説でもお馴染み。
しかしいまは、
蓮の枯葉が風に吹かれているだけ。

鳥に餌をやっている人が居る。
なかなか人馴れした鳥たちで、手から餌を食べている。
鳥の名を聞いてみると
「ウミネコ」でしょう、との答えだ。

羽は白くてくちばしはちょっと鉤型に曲がっていて
赤みがさしている。
目はぱちくりと愛らしく、かなり近づいても平気で
なまじっかな珍鳥より愛想がある。

そろそろ体が寒さでこわばってきたので、
同じコースで正門に戻る。
上野駅から宿泊地の新宿まで、
山手線の続きを辿る。

年に何回か新宿のホテルに泊まるのだが
不思議なことに新宿南口に出るととてもほっとする。
そこからホテルまではほとんど一本道で、
日が暮れても迷わず行けるからだ。

今日の目的地は「宝生能楽堂」
この前行ったのは一年前。
記憶も曖昧でとても危うい。
そこで、チェックインして三十分も経たないうちに
また総武線に乗って水道橋へ。
降りて見回してみても、さてどの側だったか思い出せない。
思いあぐねて能楽堂にSOSして
やっとたどり着いた。
自分の席を確かめて、
これからの二時間のためにとのど飴を舐めて
待つうちに。

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2005.12.27

「木賊」~子を思ふ道

友枝さんのお能、いままでは美しいシテばかり見てきた。
「伯母捨」では老女が舞うが
老翁でしかも序の舞があるお能を見るのは初めてである。

僧たちは、「父に会いたい」という少年僧(松若)を連れて
園原山に着く。木賊を刈っている男たちが居る。
僧は老翁(シテ)に伝説の“帚木”のことを尋ねる。
すすめられて僧たちは、老翁の家に行く。
彼はいなくなった子供のことを語り、形見の舞装束を付けて
狂おしく舞う。
僧は松若を引き合わせ、親子は感激の再会をする
  <能楽ハンドブックより>


登場のシテは薄茶の小袖に同系色の水衣、短めのものを着ている。
背中の線が優雅で、由ありげな老人である。

松若役の雄太郎くん、今日は登場のときから、美しかった。
ワキ座に座っているときの
しっかりした姿が少しの緩みもなかった。
なんとなくではなく、そこには堅い意志がみえる。
少年松若は父に会うために来たのだもの。

相変わらず謡のうまい森さん。
シテにものを問うときなど、
発語がはっきりしていてわかりやすい。

問われて「帚木」を説明するとき、
友枝さんは、つっと僧に寄りそって
「伏屋の森」を教える。

この場面は、前に「融」の亡霊=老人が
ワキに名所教えをしたときとそっくりだ。
相手の肩に沿えた手のぬくもりが伝わってくるような
温かみのある仕草だ。

“伏屋の森の帚木は遠くからはうっすらと見えるが、
近づくと、どこにあるのかわからなくなる”
「これはどういうことなのですか」

「“木賊”と並んで、世に知られている“帚木”は
ここからなら見えますよ。」

「こうして近くに寄ると、見えないでしょう」
とても雅びでおだやかなやりとりである。

<なるほど。はじめてそのいわれを知った。
源氏物語の“帚木の巻”もこの言い伝えをもとに
した名づけなのだろうか>

場面は変わって老人の家。
くつろぐ僧たちに里人(雄人さん)が
「この人は時々、子供のことになると変になるんですよ」
と注意して立ち去る。
アイが語る代わりにここではツレが、次の場面への転換をする。


酒の用意を言いつけて、老人は物着する。
髪は白髪を後でまとめて括り烏帽子をつける。
面はおなじなのに、柔らかい感じになる。

上にはおるのは子供が着ていた衣だ。
青い鈍色で、あっさりと銀の線が描かれている。


しきりに客に酒をすすめる。
己の酔態をさらすのに相手が素面だと恥ずかしいからかも。
近くに寄って酒を注ぐ。
静かに扇をかざすだけで、杯は満ちる。

酔った老人は舞い始める。
「あの子はこう手を指して」とか、「かように扇を」とか
一人ごとをつぶやきながら…。

こんなに遅い序の舞は初めて。
歩くのもよたよたと扇も上げ兼ねて
足拍子などか弱くかすかで、
気ばかり焦る老い人の舞だ。
旅人が来るたびにこうして舞っているらしい。
子供のゆくえを誰かが知っていないかと。

常にもまして遅い序の舞を観ながら思ったこと。
友枝さんがおそく訥々と舞われたのは
シテが老人だからだろう。

気持は若くても、体はついてゆかない。
頭の中では颯爽と子供が舞った姿がみえているだろうに、
それをなぞろうとしても果たせない。
自分でそれが分かるから老翁はさらに悲しかろう。

「年を取ること」の哀しみと
たったひとつの願いをかけるその思いの深さが
舞いのなかに見えたような気がした。

笛の音は寥々として、
荒野を吹く風の音かと思われる。
鼓は山入端めざして飛んでゆく鳥のように自由に鳴る。

追憶に浸っても子供が帰ってくるはずも無く
はりつめた思いは一度に崩れて、
老人は泣いてその場に崩れ落ちる。

そのときやっと僧は、松若と父を引き合わせる。
はじめのうちは不審げに
まじまじと子供をみつめる父は、
つと両手をまわしてうでの中に子供を掻い込む。
我が子の温みを確かめて
老翁の顔は一瞬の間にやわらぎ輝く。

それからふたりは帰ってゆく。
物語が終わったので帰るのだ。
橋掛りの二の松まで、父はぴたりとこどもに寄りそっている。
そこで立ち止まり、手を背に添えて
そうっと松若を揚げ幕のほうに押し出す。
しずしずとこどもは進み、
一呼吸置いて父も歩き出す。

ちょうど謡は最後の部分で、
「後に伏屋の物語…」と締めくくりに入る。
繰り返し「物語とはなりにけり」で二人は幕に消える。
この家を寺とし、仏との縁を結んだという物語は
長く伝えられたということだ。

とりたてて、劇的なわけでもなく
名のあるひとの話でもない。
ごくささやかな普通のひとたちの物語。

一年前ならきっとわからなかった、と思う。
このお能の地味なうつくしさが。
何事も出会うべき“とき”があるのだと、
ふたりの背中をみつつ思いをめぐらす。

おりしも何十年ぶりの大雪が続き、
舞台をどうしても見たいので、
早起きをしてでかけてきた。
起きられるなんて、自分でも信じられなかったが、
お能のためなら無理が効くとはなんとも不思議なことである。

そのように気負って張りつめた気持は、
お能が終わったときにはおだやかに凪いだ。
次の朝、真っ白な富士を見つつ、
こころも晴れ晴れと、
雪の関ケ原を抜けて帰った。

「木賊」 2005・12・22  粟谷能の会 研究公演

シテ・松若の父 友枝 昭世 子方・松若 友枝 雄太郎
ツレ・里人 友枝 雄人 同 井上 真也 同 大島 輝久
ワキ・旅僧 森 常好 従僧 舘田 善博 同 則久 英志

笛 一噌 仙幸 小鼓 鵜沢 洋太郎 大鼓 国川 純

地頭 粟谷 能夫 後見 塩津 哲生 香川 靖嗣

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2005.12.20

「義仲寺」…粟津のみぎわ

「義仲寺」を訪ねたのは、11月の終わり。
選んだわけは、ふたつある。
お稽古で「巴」を習っていたから、
(かなしい恋の話だ)
と街中にあるお寺だから。
(石段を登らなくていいから)

最初は蝉丸神社に行ってみようと思ったのだが、
駅から距離があり、時間が足りないので、諦めた。

ローカル線だから、電車は二両連結。
逢坂山の裾をぐるっと回って、浜大津に着き、
そこで乗り換えて膳所駅でまで行く。
念のため、駅員さんに場所を確かめて、
駅前商店街を抜け、住宅地をほたほた歩く。

小さいお寺だとは思っていたが、
このあたり、と思った所に着いても
なんの目じるしもない。
適当な店もないので、目に付いた「保育所」のひとに
聞いた。
「その横の路地を入って、次の道に出たところで右向くと、
おおきな提灯がぶら下がっててそこ。」
005-monkara

地域のひとが守っているお寺で、
受付けと展示室、庵室のような建物がひとつと
可愛らしい池がひとつ、
大きなお寺に比べたら、てのひらほどしかない広さだ。
そのぎゅっと凝縮して作られたお庭の
いたるところに石碑が建っている。

句碑と歌碑、あわせて19個も。
有名なのが芭蕉の墓だ。
彼は近江のこのあたりを気に入っていたらしく、
しばらく「ここ」に住んでいたそうだし、
近くには「幻住庵」跡もある。
遺言で義仲と同じお寺に埋めてほしいと言ったそうな。
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」…又玄
という句碑も建っている。
011-basyou

芭蕉翁の隣に義仲の墓、
なかなか立派な五輪塔。
それよりすこし離れて、大きさは義仲の半分もない、
ちいさな自然石を置いただけのが「巴」の墓。
もとはここから一駅ほど離れた場所にあったのを、
せっかくだから、と義仲の近くに
持ってきたそうだ。
007-yosinaka

013-kotiragatokoe

あまり手入れは行き届いていないが、
小さな池には亀が居た。
池があると、水があるとなんだかほっとする。
床机に腰掛けてしばらく義仲や巴の墓をみまもる。

お寺の前はあまり車も通らないので、
結界が張られているように静かな光景である。
もちろん紅葉もちゃんとあって、たった二、三本だが、
ほどよく色づいているのも嬉しい。
012matumomiji

昔の義仲寺は
絵図でみると
はるかにおおきなお寺だった。
焼かれて荒れ果て、
今あるのは、奇特な人たちのおかげである。

確かにここは「粟津の浜」、
今でも三分でなぎさに行ける。
大通りを横切り
建物をぐるりと回って、だが。
そのころ、砂浜はずっとひろかったし、
松が生えているだけで、
見通しはよくて、兵が少ない木曽方は
圧倒的に不利だったに違いない。

義仲はここで討たれ、
巴は落ちのびる、と
平家物語にはある。
粟津の「戦さ」などなかったのだと。
それほど一方的に敗れたのだ。

が、巴と義仲を一緒にさせてやりたいと
後の人たちは思ったのだろう。
かくして、石山のあたりに、
巴の墓ができたものと思われる。

能「巴」は、主人公が女だが「修羅もの」に属し、
薙刀姿も凛々しく、
義仲を守って敵を打ち払う。

傷を負った義仲は自害するが、
その前に固く
「後を追うな」と巴に言い聞かせる。
「女だから、すがるたよりもあるにちがいない」と。

せめて死ぬときは一緒に、と巴は思っていたのだけれど
主人の言葉には逆らえず、
泣く泣く後ろ髪を引かれる思いで、
「粟津の汀にたちより。上帯切り。物具心しづかに脱ぎ置き。
…涙と巴は唯一人」落ちていった。

しみじみとかなしいお能である。
わたしが観たのは半能(後場のみ)で
生国魂神社(いくたまさん)の薪能のときだ。
シテは上野雄三さん。
義仲の死骸の傍に手をつき、
泣く泣く形見を賜るところが、
かなしくてかなしくてたまらなかった。
まだ日のあるうちで、汗を拭きながら観ていたが、
烏帽子も上の衣も脱いで、下のころもすがたのシテが
橋掛りを去って行く背中が辛そうだった。

お寺から出て、ふと、目を上げると
銀色のオブジェが正面にみえる。
見覚えのあるそれは西武パルコのだ。
001-paruko
こんなに近いとは、と驚く。
大通りへ出ると、すぐ向こうに琵琶湖ホールも見える。
昔をしのぶよすがなんて全くなくて、
ただ思いの中で
波うちぎわの戦を想像するより他に方法はないようだ。
変わらぬものは
みずうみと比叡、比良のやまなみくらいか。

あまりにすぐに、今と繋がってしまったことが
残念に思われて、
「紅葉案内」のポスターを見ながら、
“人の少なそうなところ”を探し、
決めたのが、近江神宮。
思ったとおり、というか、
観光客はほとんど皆無だった。

神域は、真っ直ぐにそびえる杉の林から、
石段を登っての参道で、
そこここに紅葉している樹はあるけれど、
緑の分量が多いので目立たない。
026-torii-en

033komainumomiji

それほど大きくない規模だが、背後の山と一体となっていて、
社殿まで登ってから見下ろすと、
さあっと視界が、開かれるような気がする。
ここからは琵琶湖が見えないのが残念だ。
暮れてゆく日に柱の朱が映える。
近くに居るからこそ立ち寄れる、
身近さをありがたいと思った。

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2005.12.14

「邯鄲」~夢とうつつ

ファンタジーは好きだ。映画も小説も。
お能もその範疇に入るかもしれない。

人生の意味を見失った蜀の青年盧生は、賢人を尋ねて旅をする。
邯鄲の宿で、おんな主にふしぎな夢を見せてくれる枕を
すすめられ、眠りの中で楚のくにの王となり五十年を過ごす。
祝いの席で舞を舞い、横になったときに、
扇を鳴らす音が聞こえた、と思うとそこは元の宿屋だった。
主が粟飯ができたことを報せにきたのだ。
「人生は一炊の夢」と悟った盧生はそのまま国へ帰っていく。

鬘は黒頭。
面は「邯鄲男」。
先輩によると、その中でも優しい感じだそうだ。
シテは上野雄三さん、背か高くて姿がまことにうつくしいかただ。
第一声を聞いて、
「やっぱり、この声は好みだなあ」と思う。
わたしはたいそう目が悪いので
そのぶんだけ声が気になってしまう。

歌や演劇では、ハスキーボイスやだみ声もOKだが、
お能のときはまっすぐな声のかたが好きだ。
上野さんの声はちょうど中音で、
落ち着いた感じである。

生きる意味を探している青年の雰囲気に
ぴったりの若さと、しなやかさを備えた舞台姿。
上野さんを花にたとえてみれば、
深山の白い花、辛夷か泰山木か、
ひそやかで香り高い花だ。
“樹木”なら、ほっそりと空に向かうぶなの若木、かな。


こうして“見立て”をするのは
お能を観る機会が限られているためだ。
自然にたとえて記憶しておくと、
時間がたってからそのかたにであったとき、
以前のお能の記憶がくっきり蘇ってくるからである。

上野さんにであったのは、
観世清和さんがシテの「熊野」だった。
侍女の「朝顔」役の上野さんは、
まだシテとツレの違いもよくわかっていなかった私には
このひとが主人公かな、とおもったほどの美しさだった。

哀しい「巴」
神秘的な「賀茂」
高貴な「玄象」の大臣、
であったのはたった三度だ。

シテの動きを追っているだけでしあわせだった。
ゆっくりと一畳台で横になる眠る盧生、
帝となってくつろぐ盧生
興に乗って一畳台で舞う盧生。
狭い所でよくも舞えるものだと感嘆する。
夢から覚めそうになって柱につかまり
かろうじて踏みとどまる…「小書」(空の下)の舞がすばらしい。

舞台に下りて舞は続く。
頂点に達したそのとき、
突然音を立てて、盧生は台(寝台)に横たわる。
まるであやつり人形の糸が切れたかのように。

女主人役の茂さんが、扇で二度、台を叩く。
その音が盧生を夢から呼び覚ますのだ。
起き上がった彼は晴れやかな表情だ。
静々と故郷に帰っていくかれの後ろ姿。

シテの動きを追いかけているのが嬉しくて、
時間が止まってしまうようなこの気持を言葉にすれば
「ひとめぼれ」と言えるだろう。


来年、雄三さんは「葵上」と「道成寺」をなさる。
この二番は見逃せない。
かれの白拍子はどのように舞うのだろう。
「葵上」の鬼、それは哀しい鬼だろうか。
観る前から、あれこれと想像してしまう。

女主人の茂さん。
足捌きのキレのよさはさすがだ。
茂山家の若手の中では「いちばん女姿がおきれい」と
ひそかにわたしは思っている。

舞童の上田絢音ちゃん。
あまりに上手なので、驚き帰ってから番組表をみて
上田拓司さんのお嬢さんとわかりまたびっくり。
彼女の舞はお能の中に溶け込んでいるので
とても自然だ。

今年の大槻能楽堂自主公演はこれで終了。
来年は数が減るし、予定と合わないので、二番しか
観られない。
平日にもう少しお能の催しがあればいいのに。
しかし、中正も脇正も空いていたからなあ。

シテ・盧生 上野 雄三 子方・舞童 上田 絢音
ワキ・勅使 上田 隆之亮 
ワキツレ・大臣 森本 幸治、広谷 和夫、是川 正彦
輿かき・山本 順三、指吸 亮祐
アイ・宿の主人 茂山 茂

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2005.12.11

救済の笑み~渡岸寺十一面観音

今年の冬は厳しい。
日中の気温が10度そこそこの日が続く。
なんとなく気分がすぐれなくて、
こういうときには気を霽らしに出かけるに限る、と思い
ぱっと浮かんだ「渡岸寺」(どうがんじ)めざしてでかける。

これまた白洲正子さんの
「十一面観音巡礼」に触発されてのことだけれど、
近すぎて知らないところであり仏さまである。

幸運なことに朝からの晴天がそのまま続き、
琵琶湖の東を快速電車でひたすら走る。
長浜まで北上すると、琵琶湖の透明度が増す。
風景もずいぶんひなびる。

渡岸寺のある高月(たかつき)は長浜から三つめで
あと少しで敦賀という山の中のまちである。
「むらおこし(まちおこし)」なのか駅舎は真新しい。
010-keidai

県境の山か、雪を被って立っているのがすぐ近くに見える。
案内の矢印にしたがって、家並みの間の私道をとおっていくと、
突然開けた場所に出て、そこが観音さまの祀られているお堂である。
木々がほどよく繁り、門の左右に
こぶりな二つの仁王像(阿像と吽像)がある。
016-monn

別棟の受付けは男性、ふたりのうち一人が、
お堂に案内してくださる。
畳敷きの堂内で間近に
観音さまをおがむことができた。

「腰をゆるく捻ってたつ姿の美しさ」を“文字で”読んだが、
目に映ったのはいまひらいた花のような姿だった。
観音さまは女性でも男性でもない、ということだが、
どうみても、天女にみえる。

金箔は所々しか残っていなかった。
頭上にあるべき顔のうち、ふたつのはなぜか耳の後に彫られていて
遠目でみると(わたしの目からは)髪がふくらんでいるようだ。
耳にまるくおおきな耳飾りをつけておられ、
腕はすらりとながい。
足はよく見えなかったのだけれど、どちらかのつま先がすこし
あがっていて、今にも踏み出そうとしているところ、と
説明を受ける。
悩みをかかえたひとのところに
急いでいこうとしておられるからだそうだ。

動く前の一瞬の美。
お能をみていて時々感じる。
大きな動きの前にゆらりとからだが捻られ、
手がすっと横にあがり、
左右の型にが始まる。
その瞬間を捉えて像にすればこうなるのかしら。
観音さまがお持ちの蓮の蕾が開いてゆくのを
見守っているような美しさ。


照明のスイッチが入ると、お顔がすこしはっきりみえる。
斜めからみると、頬のあたりが意外にゆたかでふっくらしている。

お堂は大正の建築だというが、ひろびろとした高い天井の下に、
すらりとたっている仏さまは、
これをほんとうに“ひと”が彫ったの、と思ってしまう。

018-odou-naname

案内してくださったのは地元の「国宝保存委員会」の方。
ここは町が管理しているので、メンバーがかわるがわる
受付けに詰めることになっているそうだ。
Hさんは、愛想よく仏さまの歴史や解説をし、
おおきなガスストーブに火をいれて下さる。


井上靖さんがこの観音さまをお気に入りで、小説に書かれ、
それからお参りのかたがずいぶんと増えたそうだ。
平安時代のはじめにつくられたという仏さまの目に映ってきた
長い時間のことをおもうと、
このかたが戦乱のなか、土地の人たちに護られて
助かってくださってよかったとおもう。

昔のひとがふし拝んだ信仰のしるしを、いまのわたしたちは
ただ「うつくしいもの」としてしか認識できないが、
「ひとを助けよう」と願う菩薩にすなおに祈ることができれば
こころは救われるにちがいない。

帰りは、琵琶湖一周コースを取るべく
敦賀行きに乗って近江塩津で湖西線に乗り換える。
木ノ本を過ぎると道にもところどころ雪が残っていた。
山が何重にも続いているこのあたり、
昔は浅井家の領地であった。
近江今津まできても雪はまだある。
026-tanbo-yuki

そこから近江舞子の駅近くで、ゆくて左がわに
琵琶湖が真っ青にひろがっている。
湖東より湖西のほうが湖に近いところを列車は走る。
しばらく光る湖水とともにはしる。
志賀、蓬莱のあたりは右手に山が迫り、
まだ三時なのに、日は南に低く落ちて、
山肌に立つ家は夕暮れている。
その山を迂回して堅田まで来るともうすっかり都会だ。

湖西はしばらくさびれていたが、湖西線の開通で
ベッドタウンとして開発され、
あちこちに高層マンションが建っている。
風景としては、あまり嬉しくない光景だが、
分譲のパンフレットには「絶好の眺望」となっている。
部屋からみる湖はさぞ美しかろう。


現地に行ってみるとわかることが多い。
湖の向こう(湖西線からみると)にひときわ高く
雪にひかった堂々とした山があった。
行きにもみえていたなあ、と山の姿を確かめる。
地図で調べると、なんとそれは“伊吹山”だった。
紅葉の丘と初冬の山、彩色から水墨への変化。

たった半日、電車に乗っていただけで、
風景を感じ、歴史をを思い出し、
日々のくらしにほんのちょっと何かが加わる。
急がず、無理のないようにしよう。

祈るこころを思い出した旅だった。

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2005.12.08

「第200回市民狂言会」(京都観世会館)

自治体がこのように長い間、伝統芸能の催しをし続けるのは
珍しいこと、らしい。
京都「市民狂言会」は、昭和三十二年から始まり、
ついに二百回を迎えた。

記念してのプログラムは、紺地に金色の渋い色合いである。
いつも、色の組み合わせが粋なので
それ(チケットの色目)をみるのも楽しみだ。

昔の演目や演者が四頁にわたって紹介されている。
1981年当時は、いまの千作さんは
まだ千五郎だったのだし、千五郎、七五三のご兄弟は
本名での出演だった。
歴史とは地味な毎回の積み重ねなのだな。

今夜の演目は三つ。
まず、千作さんが奏者で登場の「筑紫の奥」
「佐渡狐」と同様の百姓もので、
千五郎さん、七五三さんの兄弟の呼吸がよく合っている。
おめでたい狂言なので選ばれたようで、
最後の「笑い止め」で、会場中に三人の大笑いが響く。

千作さんの立ち居が、少しぎごちないのが心配だったが、
途中から声も良く出てきて、
台詞の内容より、ちょっとした間の取り方で笑わせる
じいちゃんの芸は健在である。
「ほんまに、千作さんは国の宝や」と友達は言う。

次の「蝸牛」では弟の千之丞さんが太郎冠者だ。
三つか四つ違いの兄弟のはずだが、
千之丞さんの、すらすらとした歩みには驚く。
声もよくテンポも速い。
狂言のまったりした“間”をとらず、普通の演劇のように
さらさらと台詞がすすむ。
誰とも違うその速さが“間”のようだ。
普通の声のようでいて、最後列までしっかり透る声は
「ただものではない、って感じ」とこれまた感心する。

「蝸牛」はいろんな組み合わせで見ている。
誰のときでも、輪になって踊りだすところはいつも面白い。
忠三郎さんの山伏ははじめてで、
千五郎家の誰よりも、ゆるゆるゆるとした口跡だ。
対する千之丞さんが速いものだから、そのかみ合わなさが
さらに笑いを誘う。
あきらさんとの親子共演で
声の質が似ている。特に高く裏返るところなんぞ。

このごろは狂言の中の、謡や舞に興味が出てきている。
お百姓たちが、「御年貢」の内訳を朗々とふし付けする場面や、
太郎冠者が山伏に騙されて踊りだし、止めようとした主人も
同様になるときの三人の舞の合いかたなど、
見どころが増えた。

その舞と言えば、
記念公演に東京から野村家の三人がお見えだった。
(万作さん、萬斎さん、石田さん)
演目は「小傘」(こがらかさ)で、
これは和泉流にしかないそうだ。

三人の背中の線が、まことにうつくしい。
美しい狂言をめざしている万作さんらしく、
博打打あがりのにわか僧にしては、
品が良すぎる姿のよさである。
このいかさま坊主の役は以前に萬斎さんで見たが、
彼のほうが無頼な感じが役に似合ってたいた。

村のものは茂山両家の総出演である。
最初から目立つのが、尼役の千三郎さんで、思い切り足を
引きずって、二つ折れになった体でひょこひょこと
最後に登場されると、どっと大笑いが起こる。

にわか住持に供物をささげて願い事をする場面は、
ファンサービスの茂山家らしく、
くすぐりやニュースを取り入れて、客はみんな大笑いで
ぴしっとしていた雰囲気がやや柔らかくなり、
一挙に最後の総踊りに入る。

読経もできないいかさま師が、お経に聞こえるように
小謡をうたう。何度も何度も繰り返す。
隙をみて逃げ出すが
輪になって踊っているものたちははじめは気づかない。

みんなが二人を追いかけて行ってしまい、舞台に残ったのは
尼がただひとりである。
「大切な小袖をささげてしまった」とぼやいて、
足を引きずりながら退場していく。
千三郎さん得意の「お婆さん」で、
格好も無類におかしくて大笑いしてしまう。

石田さんが尼役のときは、というか
野村家が演じるときは、尼の台詞がもう少し苦く、
ビターチョコの味わいになる。
それはそれで、しみじみとおかしいのだ。

チケット代も手ごろで、時間もほどほど。
「これからも長く続けたい。」と千之丞さんは力をこめて語られる。
年を取れば取るほど滋味が滲むのが
狂言を含めた伝統芸能の不思議さだ。
その魅力に惹かれているから、
また心もち新たに、せっせと通うことにしよう。

「筑紫の奥」
筑紫のお百姓:茂山 七五三 丹波のお百姓:茂山千五郎
奏者:茂山 千作
「蝸牛」
太郎冠者:茂山 千之丞 山伏:茂山 忠三郎
主人:茂山 あきら
「小傘」
住持:野村 万作 新発意:野村 萬斎
田舎者:石田 幸雄 所のもの:茂山 正邦、茂山 茂
茂山 良暢、網谷 正美、松本 薫 尼:茂山 千三郎

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2005.12.07

「道成寺」…清姫のこころ

「道成寺」は悲劇だと思っていたが、
それは思い込みだったのかもしれない。
そんな気分になったのは、シテが六郎さんだからかしら。

もともとこの催しは文化庁の芸術祭参加公演なのだそうだ。
月曜は馬場あき子さん、河合隼雄さんの公演会、
次の日は復曲能「鐘巻」
最後のこの日が「道成寺」
「三日間でひとつのテーマを掘り下げる」ということらしかった。

名古屋能楽堂は、お城の横にあって、設備はいいし
舞台は明るいし、私の好きな舞台だ。

見所は九分どおりの入り。
お能が一番だけだから気持にも余裕がある。
時間どおりに始まる。

さっきまで解説でみんなを笑わせていた藤田さんが
真面目な顔して笛方で登場。
大鼓の亀井さんはひさしぶりに見る。
小鼓は初めてのひと、名古屋のかたかな。
若くてちからいっぱいの音と掛け声である。

六郎さんの白拍子は、思っていたよりずっと地味な装束だった。
紅というよりほとんど茶に近い色合いの「紅入」で
渋い丁子色の地にうろこの模様がびっしりと入っている。
落ち着いた妙齢の女性にみえる。

真正面から寺男に頼み込んで、石段を鐘楼に登っていく「乱拍子」は
くるり、と回るたびに鐘を見据える女の目が
不可思議なものと見えるけれど、
足捌きも手の舞も、すべてが流れるようで美しい。

鐘の前に立った女は、とても嬉しそうである。
笑みをこぼしつつ歓喜の舞を舞う。
その速いこと、楽しそうなこと、
これはいつもの六郎さんの舞だ。
あの世から戻ってきた、不運な女の仮の姿ではあるが、
白拍子の装束をつけている限り、
舞は女の「いのち」であり「いのり」なのだろうと思った。
ここまでは少なくとも悲劇ではない。

烏帽子を扇で叩き落として鐘に入ってしまうと
舞台からはさきほどの豊麗な輝きが消えた。
幽明界から戻ってきたの、と思われるほどの深沈とした雰囲気で
閑さんが「鐘を訪ねてきた女」の正体と譯を解き明かす。
こちらのほうがよほど怖い。
彼が率いる従僧たちの祈りに、ぐらりと鐘が揺れる。

ついに吊りあがった鐘の中から、
長い長い赤い髪を背に垂らして、
息遣いも荒く女は鬼の面をさらしてうずくまっている。
ひとことも喋らず、ただ身体で心を表すしかない鬼。
脱いだ小袖を、からだにしっかりと巻きつけている。
読経から身を守るように。

シテ柱によりかかってのけぞる鬼の顔はもの悲しい。
女だったときのなごりか、ふっくらした手が
しっかりと打杖を握りしめているのが印象深い。

鬼の最後はまことにあっけない。
祈り伏せられて、川に飛び込んで失せてしまう…
舞そのものの生き生きした感じは少しも失われない。
地謡の詞章で「ひとまずは」と鬼が去ったことを知るのだ。

女の、鐘にまつわる思いは昇華されたのだろうか。
「道成寺」を観た後はいつもその疑問が残る。

平成17年11月30日(水) 名古屋能楽堂

白拍子の女・蛇体  梅若 六郎  住僧  宝生 閑
従僧 則久 英志  従僧 宝生 欣哉 
能力 野村又三郎  能力 野村 小三郎

笛:藤田六郎兵衛  小鼓:後藤 嘉津幸  大鼓:亀井 忠雄
太皷:観世 元伯   地頭:大槻 文藏

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2005.12.03

高山寺へ

生まれたのは右京区だから、近くには居たのだけど。
高雄まではたびたび行ったが、
高山寺まで足を伸ばしたことはなかった。

お寺めぐりは好きだった。
なんとなく仏像を見に行ったりしていた。
ガイド本片手にぶらぶらと。
むろんまだ若い頃である。

ところが最近、白洲正子さんの本を読んで
「彼女が訪ねた場所を、自分の目でみたい」と思った。

はじめのうちは「いつか時間ができたら」行ってみよう、だった。
近いところから少しづつ始めよう、と。

白洲さんに出会ったのは、
お能をみるようになって知り合った
友人の勧めによるもので、
お恥かしいが、それまで、彼女のことはまったく知らなかった。
はじめはずいぶん読みにくかったのだが、
読んでいくうちにそれも慣れた。

なにより、自分のよく知っている風景やお寺が
彼女の筆にかかるとまったく違ってみえることに驚いた。
一度や二度、訪ねたからといって、
いや、そこで生まれ育ったとしても、
見えないときには何も風景は語ってくれないもののようだ。
001-sandou

高山寺に行こうと思ったわけはもうひとつ。
心理学者の河合隼雄さん、今では文化庁長官だが、
彼の著書に「明恵…夢を生きる」というのがあって、
その本が気に入っていたからである。

幸い、土地鑑はある。
御室仁和寺の近くに生まれたから、
道順は知っていた。

京都駅正面のJRバス乗り場から、一時間に四本。
栂尾までが二本、あとの二本は周山まで行く。
所要時間は一時間半ばかり。

降りてすぐの場所に、近道があったが、
表参道から真面目に登ってみようと思い、
五分ばかり後戻りする。

「紅葉の季節には、有料です」と駐車場の看板にあったが
まだ全山ほとんど緑一色、停まっている観光バスはない。


いつも勘違いするのだが地図は平面だから、
お寺というものは、たいがい高いところに建っているということを
ついつい忘れてしまうのだ。
現場で坂を見た途端にはっとするが、もう遅い。
だから、いつも必死で坂や石段を登るはめに。

この日も、案内板を見てから息を整え、
時間をかけて石水院までまず登る。
いちばん道路に近いところに建っているが、
樹木に遮られて、車の音ははるかに遠い。
021-gaku

ここは、明恵上人がすまいにしていた建物を
移築したもの。
鎌倉時代の建築だ。
柱も縁もずいぶん古びているが、
思ったより狭い。
かたちは四角形で、ぐるっと縁側があり、
南がわ正面たかくかかっているのが
「後鳥羽院宸筆」の額。
字のよしあしはわからないが、不思議な気分だ。
歴史で習ったむかしの人が、これを書き、
長い時ののち、自分が目にしている、まるで、
そのひとに出会っているような気がする。
026-inu

032-niwa

本で読んだ品々(複製もあるが)が、一部屋にきちんと
おさまっている。
仏師運慶が彫った、犬の像がガラスケースの中に居る。
思ったよりおおきな犬で、目がぱっちりしているのが
面白い。
丈夫な板戸と錆びたかんぬき。蔀戸もいかにも古びている。
庭はこじんまりとした池が西側にあるが、
さほど目を引く花はない。
なにより、木々の緑が美しい。

大きなカメムシが、縁側を這っている。灰色に
擬態しているので、うっかり踏みつけそうになる。
よく見ると、あっちにもこっちにも、カメムシだらけだ。

日本最初の茶畑を見てから、
急な石段を上がって金堂へ。
平日のためか、人が少なく、だれも居ない空間に杉の林が
まっすぐに立ち上がっていて、その間から時々雲から出た
日の光がさあっと縞模様になる。
湧き水が流れ、木の含む水と合わせて湿った空気が漂っている。
都会から来たものには、こころ潤う場所だが、
ずっと居るとなるとどうだろう。
寒さも厳しいが、この湿り気は耐えがたいのではなかろうか。

その金堂のすぐ横に、以前は石水院が建っていたそうな。
五分ばかりの距離なのに、まったく山の中なのは驚くばかりだ。
傾斜も急で山肌にくっつくように建っていたようだ。
あそこの石もこの立派な木も
明恵さんが、「座った」かもしれないので、
歩いていてあれこれ想像すると楽しい。
045-haka

しばらくしてくだり坂になり、すぐに「御廟」が見える。
小さいつつましい廟で、
「よかった、小さくて」と思う。
私の中に像を結んだ明恵さんは、いかめしく絢爛としたものは
嫌いだったはずだから、
きっと、小さくていいから、と言い残したに違いない。
中には入れないので外から拝むだけに留める。

ずんずん下るとまた石水院の前に戻ってくる。
途中にあった開山堂に、でっかい観音さまがいらっしゃって、
なにしろ、面倒くさがりだから、傍まで行かずに
失礼したが、何のための像だったのだろう、と
帰ってから気になってしまった。

近道を通って下ると、すぐにバス停に出る。
土産物屋の前の床机でしばらく休む。
名前は知らないが、小学校の遠足でみたはずの山々を眺めつつ。
060-basutei

子供の頃は毎日、愛宕山を見ていたので、
地続き、というだけで栂尾は懐かしい。
変わらずにそこにあるもの、
家はなくなり、道がひろがり、川が埋め立てられても
山の姿は変わらない。
高山寺がふるさとの風景のひとつに加わったことは、
たいせつな友達がひとり増えたようでうれしい。

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