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2006.01.31

「容疑者Xの献身」

このごろ流行らないのがブンガクらしいが、
芥川賞と直木賞はいつもテレビで結果が放映される。
次の日の新聞に、作者についての記事が出る。
すると大きな本屋の平積み台にPOPが立ち、
あっというまにベストセラーに、なる。

かなり以前からこういう状況で、
マスコミがとりあげる本は(本だけ)よく売れる。
私が本を探すときは、
「書評」を参考にするし、ベストセラーは
図書館で予約する。

若かったときは、なんでも読めたものだ。
理解できるかどうかは二の次で。
しかし最近は慣れない文体や題材には手がでない。
勢い、少し年齢が高い作家の本が中心になる。
そういう本は、現代とじかにリンクしていないぶんだけ、
しみじみと回想を誘い、読んでいて気持が落ち着く。


今回の直木賞、受賞作は「容疑者Xの献身」
作者は東野圭吾。
なぜか彼が乱歩賞を取ったときから知っている。
年代的には一世代下のひとだ。
本が出るたびに買って読んだ記憶はないが、
ふと気がつくと文庫本が増えていたり、
図書館に行くと新刊がでてないかな、と
棚を覗きに行く作者だった。

写真はずいぶん老けて写っていた。
可愛らしい青年の東野さんはどこかに行って
渋いおっさんが囲み記事で笑っていた。

いまテレビドラマ化されている「白夜行」も
その迫力に唸った小説だったが、
「容疑者…」は最初から高いテンションで始まる。
その緊張感は最後まで続き、
ミステリーだからトリックも素晴らしいのだけれど、
書いてある文章のどこにも、“嘘”がないことが、凄い。

その行間に降りていくと
ひとつの大きな問題が浮かんでくる。
人と人の係わり合い方、という問題。

謎解きをするのは、短編で探偵役をしたガリレオこと
湯川助教授、ワトスン役は草薙刑事、
おなじみのこのふたりが出てくると、いつもは
軽妙なやりとりが始まるのだが、
この本ではそうではない。

ガリレオはいつもの皮肉さを失っており、
刑事は必死で職務と友情を両立させようとする。

最初から、犯人は読者には知らされている。
それなのに置くことなしに読み進んでしまうのは、
細やかな気配りがすみずみにまで行き届いているからだ。
たとえば、冒頭の川べりの光景。
いまにも今風にホームレスの小屋とその住人の描写から
始まるが、そこに詳細に描かれるのは、いまの社会が
抱える矛盾の一面である。
声高には語られないが、小説を流れる低い音は
「ひとの生きる意味」ではないかと思う。

「人間が書けていない」という審査員の評が新聞に載っていた。
主人公は「X」だと思われているのかな。
それとも湯川助教授?
あるいは、「靖子」?
娘の美里だろうか。

確かにひとりひとりの心理を“細かく”書く、というふうには
なっていない。
そのかわりに、人間「関係」の外側がきっちりと
これ以上ないほど詳しく説明されている。
情緒に流れない東野さんの筆だと
人物の輪郭ははっきりするが、
彼らの内面を「見てきたように」語るシーンが少ないので
肩透かしをくったような気になるかもしれない。

ミステリーと銘打たれているからには、
この小説の主人公は意外な「トリック」なのでは。
登場人物はそれを成立させるために作者が作り出した
架空の人々である。

彼らの生活は、わたしたと大差ない。
ドラマティックな日々も送らず、
ささやかに暮らしているわたしたち。
自分は正しい常識人、と疑わない私たち。
(たち、ではなく「私」と言ったほうがよいだろう)
その常識をひっくり返す“問い”があったって
いいじゃないか、と思う。
ネタをばらす訳にはいかないせいが、
日常と非日常はそんなに遠く離れている訳でもない。


Xが為したことについて、
こういう「献身」は“あり”か、と
必ず問う人がいるだろう。
答える言葉を私は持たない。
ただ、ひとも風景も関係も、すべてがかなしい。

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2006.01.24

文楽見聞記

平日に観られる伝統芸能、友人お薦めの文楽に挑戦。
国立文楽劇場は、大阪市営地下鉄日本橋(にっぽんばし)駅から
すぐで、有名な黒門市場の向かい側にある。
目の前を高速道路が通っていて、
景色としてはよくない。
もう少し西に行けば、千日前。東に行くと上本町。
このごろやっと大阪の東西の感覚がわかるようになってきた。


昼の部、十一時始めの分が終わるのが三時半。
休憩を除いても四時間の長さだ。
「椅子」がよくないので座る位置をずらしたり、
休憩のときには、急いでロビーに出たりして、
気分転換してなんとかしのぎきったものの、かなり疲れた。
狭くて低い。

私は年相応の身長である。
しっかり中高年なのだ。はっきりいって足は短い。
その私が座って“低い”座席って、
若い人だったらどうなるのだろう。

舞台の上方に字幕があって、それを見ればいいし、
イヤホンガイドもあり(有料)なので、
言葉がわからない、という問題は無い。
なのにお能に劣らず、高い平均年齢の客席だ。
平日のためか、後方の席(二等席)は空いていた。

友人が取ってくれた席は、
大夫さんと三味線の真ん前。
首を上げると、目が合いかねないほど近い。

いちばん聞きたかったのが三味線(太棹)の音色だ。
音が低めで太く余韻がある。
近いから、弾く手の美しさや、構え方がよく見えた。
糸が震えるのまで見えて嬉しい。
語りの間に糸の取り替えがあり、思わずまじまじと見つめた。
糸を張って、音締めを締めつつ爪弾きで音を確かめる。

少しづつ視力が落ちているので舞台をみるときは
目より耳を重視している。
耳はまだ、きちんと聞こえ、また耐久力もある。
最後まで語りは面白かったし、三味線の音色の美妙さも
よく味わえた。

人形は、細かいところが見えないので
奥の手(オペラグラス)を使った。
登場するときに、すばやくちゃっとのぞき
ざっとみてすぐに下ろす。
着物の柄や、お姫さまならピラピラの簪まで
一瞬で確かめる。
ずっと見つづけていたら、舞台の全体が見えないし
まわりに迷惑だ。(会場が狭いから目立つし)

だしものは「妹背山女庭訓」と「桜鍔恨鮫鞘」
(いもせやまおんなていきん・さくらつばうらみのさめざや)

わたしが期待していたのは「妹背山…」のほうだが、
最初の「桜鍔…」のほうが面白かった。

主人公の八郎兵衛は屋敷奉公人。
古着屋を商う丹波屋のお妻と夫婦になり、お半という娘も儲けたが、
お家の大事に帰宅もまれになっている。
その間に、丹波屋ではお妻に持参金付きの聟、香具屋弥兵衛を迎える。
帰ってきた八郎兵衛はそのことを知り激怒するが、
姑とお妻に愛想づかしを言われ、一旦は怒りを抑えて立ち去る。

娘のお半は弥兵衛に追い出され、外で泣いていると再び
八郎兵衛が戻ってきて、お妻と姑を斬り自分も腹切ろうとする。
そこへ仲間に銀八がやって来て彼を諌める。
お半は父に縋りついて、母お妻から教えられた書き置きを口にする。

実はお妻は八郎兵衛のために、金持の聟をとることにし、
母と共に死ぬ覚悟で骨壺まで用意していたのだった。
お妻の本心を知った八郎兵衛は今度は彼女の遺骸に取りすがって
涙にくれるが、身代わりになってやろう、と言う銀八に後を託し
捕手の囲みを破って逃げてゆく。

筋だけ読むと暗いし、めちゃくちゃ因縁話なのだが
いったん大夫が語りだすとその迫力に引き込まれる。
この段をふたりの大夫とふたりの三味線が語る。

初めはわりと若い組み合わせで
後半(切)は渋めだ。
声の練れ具合が違う。
わたしはお年よりのほうがより好みである。
聞き取れない所だけ字幕を見る。

人形は愛らしい。敵役でさえ、頭は愛嬌たっぷりだ。
子供や女方の頭は写真でみるよりずっと生き生きしている。
始まってほんの少しの間だけ、人形を遣っているひとの顔や、
黒子が気になるが、すぐに目のサイズが人形にあわせて縮んで
よいかげんになる。

嘆く顔も、怒った所作も人形とは思えないほど生々しい。
語り手が“おじいさん”や“おじさん”で、
どの役もひとりで語り分ける。
こちらはまったく問題ない。
夫のために嫌な男の機嫌をとり、その心は夫にわかってもらえず、
子供の行く末を案じる女の哀しみ。
それがじんじんと伝わってくる。

お能と同じく
「若い娘」の頭の人形があるだけなのに、
語りにつれて、役そのものになっていく不思議さ。
舞台は回ったり変わったり、書き割りがあったりで
ちゃんと説明する背景があるので、らくだ。
そこのところは歌舞伎に近い。
台詞と義太夫(節)が相まって盛り上がっていくところが、
なんともいえない快感で、目も耳も満足する。

「妹背山…」のほうは、時代がやたらに古くて、
蘇我入鹿の時代。
でも衣装は江戸時代風。
蓑助さんの「お三輪」の人形、
色っぽさが抜群だ。
しんなりとした所作と赤い鮮やかな着物。
ほんの一部分だけの上演で残念である。
「通し狂言」であるときに見たいものだ。

ひと月おきくらいに公演があるようだし、
平日は席を取りやすいし、
ほんの戸口からのぞいただけだが、
また行くことになりそうな予感がする。
ただし続けるためには、腰のメンテナンスを
しっかりしておかねば。

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2006.01.12

「梅」~まだ春浅き夜半に咲く

ひさしぶりの観世例会である。
ここが私のホームグラウンドなのだが
例会はすべて日曜日なので、
観たくてもなかなかに無理なのである。
それで大阪の平日の催しに行くことのほうが多い。

年初なので早く行かないとよい席が取れないのでは、と
心配だったが、正月以来の睡眠不足で、寝起きの気分はよくない。

なんとか三十分前につき、脇正の中ほどの席を確保。
中正面よりだから舞台がななめによく見わたせる。

能「梅」は二時ごろに始まった。
シテの観世清和さんをみるのは
一年ぶりかそれ以上である。
三度の舞台とも大阪だったと記憶いている。

そのときはほんとにまだ初心だったが
「面」の美しさにまず驚いたのだった。
きょうはどんな「面」だろう、と待ち待ちするうちに、
幕の中からゆったりと長い呼びかけが聞こえた。

しっとりとした若い女姿。
唐織着流しの襟のあたりが実にすっきりしてい、
凛としたありさまである。
おしえさとす言葉つきも、声音も
きついくらいにきっぱりしている。
若い女のはずなのに、色合いは地味で上品である。
「ここにおいでなさるなら、真の姿をあらわして
舞を舞っておみせしましょう」と
梅の木の蔭に消える。
(『この木乃下に下臥して。待たせ給はば夜もすがら
月の影もさし出でて、朧ながら慰めんと』)

いよいよの後場。
私の位置からはワキが見えない。
彌三郎さんの姿がみえないと、
目に入るのがシテだけになるので、少し不安。
ワキの存在が、お能の盛り上がりに欠くことができないと
このごろますます思うからだ。

ともあれ、日がとっぷりと暮れ、夜が深まって
梅の精が登場する。
橋掛りにでて半ばでゆったりと客席に顔を向ける。

その美しさをなんと表現すればよいのだろう。
天冠にはしら梅をいただき、地紋の入った白い長絹。
大口の朱は色淡く、手持ちの本をみれば、「洗朱」に近い。
淡彩の梅の精、ただならぬその美貌。
「梅」だとわかっていなければ、あやかしとさえ思えるほどの。
緩く緩く序の舞が続く。
お囃子もなにもかもが気配を消し、
舞台に在るのはひとり梅の精のみ。

ながい年月を経て苔むした梅の古木に、
今年の枝がしっかり伸びて、
ふわりと開くしら梅の花。
夜をほんのり明るませて、香りもしるき春の夜半。

復曲能「箱崎」のポスターに
古代の神の装束で立ったシテの
その面があまりにも神々しく美しかったので
強く印象に残っていた。
この面はあれと同じ面なのだろうか。

情熱を深く秘めて、みためはあくまで静かで威厳のある神の面。
その面を活かせる清和さんのつよさ(とわたしにはみえる)

梅の精の舞姿にまるで呪をかけられたように
声もないワキたち。
梅の精は御代を寿ぎ、夜明けとともに戻ってゆく。
誇りかに謳えるのは彼女が神であるからだ。

わたしもすっかり魅入られたらしく、
その夜の夢にこそ見なかったが、
清和さんの梅の面影がまだ眼の隅に残っている。
怖いくらい美しいそのまなざしが。

京都観世会一月例会 平成十八年一月八日
能「梅」 シテ・梅の精:観世 清和 ワキ・藤原某:中村 彌三郎
ワキツレ:山本 順三・中村 宜成
笛:光田 洋一 小鼓:曽和 博朗 大鼓:石井 喜彦
太皷:前川 光長 後見:片山 九郎右衛門・杉浦豊彦
地頭:井上 嘉介

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2006.01.09

二人の翁と餅の精

三日目ともなると、当方もかなりくたびれてきて
八坂神社の奉納「翁」に間に合うように起きられるかが
気がかりだった。

えらいもので、ぴしっと目が開く。
寒い。
細かい雨がときおりちらつく。

九時少し前に神社に着いた。
案の定椅子はほぼ満席。
正面はあきらめて、脇正面に回ると、
能楽堂でよく会う女性が、少し詰めて席を空けてくださる。
いいひとだ、ありがたい。
周りにはたくさんのカメラが林立している。
お能は魅力的な被写体らしい。

「翁」は金剛永謹さん。
毎年拝見しているが、どっしり堂々、危なげのない翁ぶりだ。
千歳は宗彦さん。
緑のもようの装束、汗かきの彼も
さすがに今日は寒そうだった。
千三郎さんの三番三。
流れるように美しい型が決まって、「やっぱりお上手やね」と
ひそひそ後方で声がする。
初詣の人が増えてきて、人垣が分厚くなり、少しほっこりする。
鈴の音も清げに舞い終えられたのはちょうど一時間後だった。

次の予定は二時始めの
大槻能楽堂新春公演。
こちらも「翁」

それまでに体を温め、座っていくべしで、
私鉄の始発駅から特急に乗って移動する。

到着したのが開演半時間前。
入口でびっくり、入ってびっくり。
超満員で、しかもまだずらっと指定席引き換えのひとが並んでいる。
たまたま早めに指定券が手に入ってよかった。

取った席は正面やや後より。
舞台を見渡せてよい感じの位置だ。
文藏さんのお能を観るのは二年ぶりになる。

「翁」が始まる前の、きりりとした静粛は気持が引き締まる。
奉納でも充分厳粛なのだが、能楽堂での時間はさらに
密度が濃い気がする。

昨日の「流儀の違い」の催しでは小鼓は幸流(成田さん)だけ
だったが、大倉流とはどう違うのだろうか、
などと思いつつお調べに集中する。

文藏さんの「翁」はみやびやかだった。
姿がいい方で、装束を付けると
すらりとして、たいそう品がいい。
新しい年を寿ぐにふさわしい神さまだ。
さらさらと舞が終わり、いよいよ三番三登場。

三番三は茂山家ご当主、千五郎さんである。
黒地に鶴(亀もありそうだけど)の直垂姿で、
小柄なはずなのに大きく見えるのは気合いゆえだろう。
粛々とした「揉の段」、烏跳びの掛け声に勢いがあった。

鈴の段に移るところで突然、「囃子が合わぬ」と
はたりと舞い止められる。
すると、
揚げ幕からずらずらと人が。
狂言地謡として、千之丞さんを一番前に、
総勢十人が並ぶ。
善竹家と茂山家の合同地謡だ。
また、臼を担いで仙人たちが四人出てくる。
仙人頭は茂山七五三さん。
手下の仙人は茂山家の若手と網谷さん。
ケントクの面が愛くるしい。

ここからが「餅風流」
お能の間に入れ子のように狂言がはいる。
この時間の流れ方が不思議だ。
緊張がまったく緩んでしまい、うずうず楽しくなる。
せっせ、せっせと仙人たちが餅を搗く。
突然、「餅の精」が出てくる。
まっしろに輝く鏡餅のつくりものを頭にかぶった
千作さんが。
ほんに小さくて可愛らしい。

声を張り上げて、新春のめでたさを謡い、
舞台に入って楽しそうに舞を舞う。
どんな役でも千作さんがなさると、
おもしろ楽しいものになる。
今日もやっぱりそうなって、
あんぐり見ている面箱持ちと三番三。
(面箱持ちは茂山宗彦さん)
祝福のあと帰ろうとする二人は千作さんの腰に取り付いたりする。


地謡の声は小さめだった。
十三年ぶり、ってよく知っているひとの方が
すくないだろうし無理もない、か。

狂言が終わって進行は元に戻り、
三番三は「鈴の段」を舞う。
「村のおやじさんが豊作を願って舞っている」ような千五郎さん。
ひょうきんな持ち味がよく出ていてすてき。
型も速さもまったくマイペース。

休憩時間に振舞い酒(及び“甘”酒)が出たのはよいが、
ロビーは人でいっぱいで、またまた順番待ちである。
やっとありついた甘酒、
つい二杯いただいてしまった。

お能は「羽衣」
後見が橋掛りに長絹をかけた時から目を奪われる。
なんと鮮やかな朱の色。

物着で天女が身にまとうと、金色の模様が。
こんなに華やかな天女は初めてだ。
装束の艶やかさとうってかわって、面は無表情で神秘的で
天界のひとらしい深沈さだった。

「宝を降らす」ときに、
慶次郎さんの天女はそっと膝をつく。
その優しいしぐさに感じ入った。


番組表
平成十八年一月三日

八坂神社『翁』
翁:金剛 永謹 三番三:茂山千三郎 千歳:茂山 宗彦 
笛:杉 信太朗
小鼓:曽和 尚靖 成田 逹志 竹村 英敏
大鼓:石井 保彦
後見:廣田 泰三 廣田 幸稔
狂言後見:網谷 正美 柳本 勝海
地頭:今井 清隆

大槻能楽堂『翁』
翁:大槻 文藏 三番三:茂山 千五郎 千歳:武富 康之
面箱:茂山 童司
笛:藤田 六郎兵衛
小鼓頭取:大倉源次郎 脇鼓:荒木 建作 上田 敦史
大鼓:山本 孝 太皷:中田 弘美
後見:山本 勝一 赤松 禎英 地頭:泉 泰孝

狂言   『餅風流』
餅の精:茂山 千作
仙人:茂山 七五三 茂山 宗彦 茂山 茂
   茂山 逸平 網谷 正美
狂言後見:佐々木 千吉 丸石 やすし
狂言地頭:茂山 千之丞

能     『羽衣』
天人:片山 慶次郎
白龍:福王茂十郎 漁師:福王 和幸 福王 知登
笛:赤井 啓三 小鼓:荒木 賀光 大鼓 辻 芳昭
太皷:三島 元太郎
後見:浦田 保利 片山 伸吾 地頭:片山 清司

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2006.01.06

風の音 光の音

これまではのっぽビルの最上階で行われていた
「天空狂言」が、名前は変わらぬまま地上に降りてきた。
場所はお馴染みの大阪能楽会館で、
ちょっと変わった趣向として、お能やお囃子もプログラムにある。

正月二日の昼の部。
「KENSYOスペシャル」“寿能囃子異流派競演”を選ぶ。
それにしても長い名前で覚えにくい。

ナビゲーター(司会です)がTTRの成田さん(小鼓方)で
ゲストが一噌幸弘さんと柿原弘和さん。
関東のかたは見る機会が限られているので
こういうかたちでじかに楽器の音が聞けるのは嬉しいものだ。

いきなりの「神舞」で始まる。

この能楽堂は目付けの柱を外すことができる。
急に広くなった舞台に、正方形に斜線をひいたように並ぶ
六人。
一噌流笛方:一噌 幸弘 藤田流笛方:竹市 学
幸流小鼓方:成田 達志 
大倉流大鼓方:山本 哲也 高安流大鼓方:柿原 弘和
金春流太皷方:前川 光範

音が、
地響きたてて唸り
天から降ってくるように眩めく。
違う楽器の音が交錯して、耳のなかで混じり合う。
普段は、舞台の後方で奏でられているので
もっとこじんまりしているのかと思っていた。
すごい。

客席はお能が好きな人も多かったようで、
いつもの狂言会とはちょっと色合いが違う。

成田さんのインタビュー、メモを片手に丁寧なお話しぶりだ。
笛方のお二人
幸弘さんは『笛吹き小僧』のようなかた。
切り戸口からご登場のとき、隣の席の方が、
「ほら、笛を三本も差してらっしゃいますよ」と
教えてくださる。
よくよく見るとそのとおり。
笛の話しになるとまことに熱っぽく語られる、
ただしギャグいっぱいなので堅苦しくない。
話の途中にひょいと笛を口に当てて、
メロディでお返事されたり、軽やかな方だ。
ジャズとコラボレーションされるのもむべなるかな、
どんな音でも吹き分けられるように、
バッグにぎっしり笛を詰め込んでの来阪だそうだ。

ソロのとき、高さによって笛を持ち替えつつの演奏は
ひらひらと突き抜けて明かるかった。

それに対し、やや口重く答えをされる竹市さん。
まだお若いからか、はにかみながらのたたずまいは
「修行僧」のように見える。
こちらはしっかり和の世界。
調べが、激しくまた嫋々と、
「藤田流はやや遅れてできた流派なので、森田流と
一噌流のいいところをもらっています」と
おっしゃるとおりに、
緩急自在のなかに一本まっすぐに通る芯のようなものが
感じられる音色だった。

その次は大鼓のお二人で、
哲也さんは、しばしば以上によくお聴きする大鼓方さんである。
お父上の孝さんの「音」に惹かれて
大鼓が大好きになった私としては
哲也さんの音はいくつ「大」をつけてもいいくらいに好きである。
「松籟」の音、とひそかに名付けている。
それだけでなく、お話しもお上手、さすが関西人。

柿原さんの大鼓はまだ舞台で聴いたことがなかった。
しかし、「カーン」と鳴ったとたん、
「あ、お父さんにそっくりだ」と思った。
柿原崇志さんは、ベテランの大鼓方で、
この方の鼓なら数回聴いたことがあった。
ききわけるめあてに「森の谺」と名をつける。
森閑とした森の中に響く澄んだ音色。
ゆたかな緑と陽光を想像する。

流儀が違うと「手組」(洋楽でいえば譜面)が違うそうで
同じ曲を二人でなさる。
かわるがわるになるときもあり、
一緒に高く響くときもある。
掛け声も全然違うのだ。
(御曹子、だというところが共通点、と解説が入る)
去年の春、高安流の大鼓の会にゆき、
六人の連調を聴いたが、
その迫力に劣らぬ気合いと音量があった。
舞台の床が細かく震えているようにみえたくらいだ。

最後は「獅子」
去年「石橋」を観ておいてよかった。
能楽堂中に音が乱舞して、
牡丹の花に勇ましく舞う獅子をほうふつとさせる。

あの舞台、この薪能と思い出すのも楽しく終わる。
お能ではないので、終わってすぐに拍手がはじまり
退場まで続く。
お正月にすてきな音楽が聴けた。
ほんとにほんとの「スペシャル・ナイト」

狂言は「蝸牛」
定番だが面白い演目だ。今夜の山伏は茂山宗彦さんで、
こちらも負けじと気合い充分。
相手の無知を逆手にとって、嬲って喜ぶ山伏。
法力に惑わされて一緒に踊る羽目になるのがあきらさん。
止めにきた主人の茂さんともども、
賑やかな小謡で踊りまくる。

今夜は「囃子入り」で先ほどの方々の(地元のかたのみ)
合いの手が入り華やかになった。
謡いながら橋掛りを消えてゆく背中に、
さらりと竹市さんのアシライ笛が鳴る。
夜遊は終わった。

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2006.01.05

謡初式

「謡初め」が行われる。
私が行くのは今年で三回目。
仕舞と舞囃子が出るが、
年ごとに見ているこちらの気持が変わっていくのがよくわかる。

最初は、黒紋付の能楽師さんの大集合に驚き、
どなたがどなたやら、見分けもつかず、
謡の詞章はわからず、
あらあら、と思っている間に終わった。

次の年は、ただもう感心して仕舞を見、
お囃子を聞いていたっけ。

今年は、たいそう面白かった。
少し詞章が聞き分けられるようになった。
すると、なんとなく情景が浮かんできたりする。
仕舞の型も簡単なものはそれとわかるようになった。
プロのあまりの上手さに、うっとりとため息をつく。

見所は正面がほぼ満席である以外、
脇正面も中正面もじゅうぶん余裕があった。。
前日までの寒さが緩み
冬晴れとなったのにな。

最後は全員が舞台に上り、「四海波」が謡われる。
みんなちゃんと座る場所があるんだろうか、と
毎年はらはらする。
中正面を向いて並ばれるので、
私の居る脇正面からもよくよく見える。
地響きする“大合唱”で、
洋楽(コーラス)とはまったく違った音の波に
洗われるのが気持がよい。

最寄の平安神宮で、
昼過ぎから奉納能がある。
せっかくだからと、今年もお参りがてら
神宮へ向かう。
すぐに神域で、車も通行止めとなり、
鳥居をくぐると屋台が並び、
うららかな初詣日よりである。

参るのも順番待ちだ。
まだ身動きできないほどではなく、
ちゃんと拍手できるくらいは空いている。
真面目にお賽銭をあげて、「家内安全」(健康)を
お祈りする。

能が奉納される拝殿は、大門を入ってすぐ右にある。
人の流れからは少し離れているが、
「翁」のお囃子が始まると、
わらわらと人が集まってきて、
畳敷きの内殿(というのかしら)に入って見ることもできるし、
外からのぞきこんでもよい。
ただ、中が薄暗いので、目をこらさないとよく見えない。
中ですわると、こちらは人々の頭で、
上半身しか見えない…と難しい選択を迫られる。

日の当たる場所で体を温めつつ、外から「翁」と
仕舞を観る。
片山清司さんの「羽衣」が紋付袴すがたであるのに、
まるで装束付けたお能をみているように美しく、
羽衣をまとった天女にみえた。
おぼろな光のなかに天女が昇天する姿がたしかに見え、
寒さも眠さもあっさり吹き飛んだ。

日が翳らないうちに帰途に着く。
明日のために体力を残しておかなければ。
元旦の朝から出かけるのは、ちょっと気ぜわしいけれど、
きりっと爽やかな正月気分になれるのがよろしい。


京都観世会「謡初式」
平成十八年一月一日(祝)午前十時半

舞囃子
  高砂:片山 九郎右衛門

仕舞
  吉野天人:片山 慶次郎
  小鍛治(キリ):片山 清司

舞囃子
  羽衣:井上 裕久

仕舞
  養老:河村 禎二
  田村(クセ):杉浦 元三郎
  草子洗小町:浦田 保利
  国栖(キリ):林 喜右衛門

狂言小舞
  土車:茂山 良暢

舞囃子
  猩々:大江 又三郎

祝言
  四海波:全 員

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2006.01.04

「エビ大王」~とても近くてはるかな国の物語

「エビ大王」という劇に、
筧さん(筧利夫)が出演と知って、年末だったが、
迷わずにチケットをとる。
「第三舞台」の公演に毎回通っていた昔、
筧さんは一番のお気に入りだった。

会場は“シアターブラバ”。大阪城ホールのすぐ手前。
つい最近まで劇団四季が公演していたホールで、
五百席くらいのホールだ。

お洒落な劇場だが照明がちょっと暗めである。
二階席だったので、階段を延々と登る。
トイレに行くのも登ったり降りたり、ちょっと辛い。
客席の傾斜は急だが、
その分、舞台ははっきりみおろせる。

この戯曲は韓国発。
なんと分厚いプログラム。
綺麗だけれど二千円は安くない。
オペラやバレエ並みだ。
ただし中味は充実していて写真も夢見るようにきれいに撮れている。

もひとつの楽しみは、
「劇団・新感線」の橋本じゅんさんだ。
写真ではすてきな衣装なので期待していたら、
実際はとてもシンプルだったのでちょっと残念なり。

エビ大王は男子の誕生を望んでいた。
何人できても娘なので、七人目は川に流した。
その夜、地獄から使者が来て
「定命が尽きた」と言われるが、
民の命と引き換えに、男子が産まれるまでの猶予を貰う。

そして国を娘二人とその夫に投げ与え、
自分は後宮に女を集めて子つくりにいそしむ。
流された娘は渡し守に拾われて成人し、
貧のため米三袋で、妻をなくしたやもめに後妻として売られる。
だが、その家の末息子に略奪されて出奔する。

後継ぎは生まれないまま国は荒れる。
使者はまた現われて、
「父に捨てられ、夫に捨てられ、息子に捨てられた女が
大王に男子を授けることができる」と告げる。

放浪の果て、大王が見出したその女は実は、
彼の末娘だった。
そのことを知ったエビ大王は…

いわゆる起承転結のあるドラマではない。
何もかもがごった煮になっていて、その時々に
顔を出すのが、民話であったり
シェークスピアっぽかったり、
どうみてもギリシャ神話、だったりするのだ。
主人公の「エビ大王」にしたところが
言う事は支離滅裂で、執念深くて、近視眼的で
と漢語を語連ねたいような濃い男。

筧さんの熱演で、(よい声だ)
つらつらと滑舌よく繰り出される台詞は、
素敵な音楽を聴いているようだ。

“自分の血を継ぐ男子”を残す事が、そんなに重大事だとは
日本ではちょっと考えられないと思う、が
先祖を大切にする韓国では
当たり前のことなのかもしれない。

捨てられた彼の娘(パリデギ)は
渡し守夫婦に拾われる。
「女は役にたたない」と嫌がるのが母で、
「授かったものは育てようではないか」と言うのが“父”である。
うつくしい娘に育つ。
(白く長い衣装が(チマ・チョゴリのイメージ)が印象的)
たったの米三袋と引き換えにやもめに嫁ぐが
末の息子に略奪されて出奔、男の子をもうける。
そこまではいい。
老人よりも息子のほうが、つりあう相手だもの。

夫は民を率いて将軍になった。
そこに現われた大王の六番目の娘に
「あなたこそ、エビ王朝の後継者」と囁かれると、
彼はパリデギを捨て、息子を連れていってしまう。

残された彼女は、こどもを取り戻すこと『だけ』を
目的に生きる。
愚直で哀しい母親の“さだめ”だ、というストーリーだ。
尋ね当てた息子は「将軍の息子」という地位を捨ててまで
ぼろぼろの母についていく気は全くない。

こうしてすべてに背かれたパリデギは、
実の父エビ大王によって
「後継ぎを産むべき女」として宮廷に連れてこられる。
今は祭祀を守るだけ、
国母ではあるが女ではない実の母は
それと知らずに彼女に頼む。
「どうぞ大王の願いをかなえておくれ」と。

運命にもてあそばれたパリデギは、
最後にやっと伴侶を見出す。
その男は、正しいことを言い過ぎて、舌を切られた男。
喋れないが物事を見通せる彼とふたりで生きると父(エビ大王)に告げる。
(ひょっとして父の子をみごもっているかもしれないが)

大王の執念に翻弄されたパリデギ、
彼女が彼を許すことができたのは、
“バリデギの産まれた日のことを思い出し
彼女に男の産着を着せて、その手で川に流したこと”
を語りつつ泣いた父を目の前に見たからである。
泣きながら抱きしめた腕を感じたからである。

もうひとり、気になる女性が居る。
女として夫によりかかって生きるのを否み
武器を取るのも辞さない、
大王の六番目の娘=六娘だ。
赤い服をつけ、堂々と「私があなたの息子になりましょう」と
父の前で昂然と言い切ったひとだ。

自分の意志で兵を集め、自分で選んだ夫(それは妹パリデギの夫)を、
エビ王朝の後継者にしようとする。
正々堂々、思い通りに生きようとした彼女の、
その計画は半ば成功する。しかし
最後の最後で「聖なるエビの血」を継いでいないという
その一点で、父王の巻き返しにあい、敗れる。
(彼女の養子は男系の血統からはずれる。パリデギの子であっても)

しかし、その涙のない生き方の潔さは美しい。
(でも彼女にこどもは授からない。それは象徴的なことだ、
父の娘は子を産まない)

対極とも言える二人の生き方と、大王の悲願との間に、
さまざまのことがらが次々と
絵解きのように繰り広げられる。
国が二つに分かたれたこと。
分断された半島の現在を映し出すような
いさかい。
無意味な殺し合いと飢饉。

追いかけていくのも息苦しい展開のなかで
ふと息が継げるのは、
地獄の使者たちが登場する場面である。
「日直使者」と「月直使者」の名を持つふたりは、
死をつかさどる閻魔王の下働きだ。

自分のちょっとした失敗の穴埋めをするために、
帳尻あわせに、まだ死ななくていい人を
黄泉の国に連れて行ったりする。
後悔したり、うんざりしたり、ごまかしたり、
二人のかけ合いの場面になると、
空気が和やかに変化する。


演じるのは、河原さんと橋本じゅんさんだ。
先日「吉原御免状」で見たじゅんさんがとてもよかったので
もう一度見に来てみた。
面白い、楽しい、笑える、ほっとする、そうしてすこしもの悲しくもある。
(羽根をつけた衣装で、
“ひばり”の「川の流れのように」を歌うじゅんさん。大拍手が)

きちんと割り切れないのだな、と途中で納得した。
隣だけれど韓国は外国だ。
文化も歴史も、家族のとらえかたも違う。
こんなに難しいが面白い芝居をみつけてきた、
筧さんに感謝。
終わった後に残った感動もさることながら
二つの国の違いについて
いまだに考えている私がいる。

カーテンコールは、顔いっぱいの笑顔で、
踊りながら観客にお礼の言葉を投げる、
筧さんの元気がすごい。
この日が「大」千秋楽なので、
「エビ」にちなんで、出演者の『サイン入りかっばえびせん』が
観客全員に配られる。
二階席にも数人の若いひとが、箱にえびせん積み上げて
配りにきてくれた。
(ちっちゃな袋に油性ペンのサイン、食べたあとは
シワを伸ばして記念にとっておこう)

衣装もよかったし、装置も凝りすぎてなくて私好みだった。
中心の人たちを支えて、踊ったり駆け回ったりしていた
名前のつかない役のひとたちの、
真剣さがとてもよかった。
何役にも早変わりして、背後で支える彼らが居なければ
この劇の
奔流のような熱っぽさは伝わってこなかったにちがいない。

はじめて出会った役者さん
パリデギのサエコさん
六娘役の佐田真由美さん
声を失った書記役の伊達暁さん
日直使者の河原雅彦さん、など印象に残った。

結局、全部よかったのだ。


阿佐ヶ谷スパイダースの公演が三月にある、と
チラシをみて気持が動く。
じゅんさん出演とある。
行くのだろうな、きっと。
程々にしないと身がもたないが。

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