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2006.03.30

まつとしきかば…TTRライブ能

今年度最後のTTRの催しがあった。
場所はいつもの本町Mitteホール。
案内状には書いてなかったが、
レストランもホールも改装されていた。

以前はすり鉢状に客席が作られていて
演者さんは下のスペースで演奏されるので見やすかったが、
新しいホールは教会風の彫刻付きいすが左右に並んでいる。
真ん中の通路(ここは結婚式が出来るスペースのようだが、
そうすると、この通路はバージン・ロードかな)
がやや広めになっている。
正面の壇(舞台)はかなり低かったらしく
その上にさらに舞台を作ってあった。

舞台の後ろは乳白色の壁(ガラスだろうか)になっていて
モビールのような破片がきらきら、ぴかぴか光る。
きらめきが目に入るときがあって、ほんのちょっと
気が逸れる。

座席は傾斜がまったくないので、
後ろの方だと、かなり見にくい。
お囃子は音だから、といっても
演じる人の顔も手元も見えないのはいささか苦しい。

小鼓一調「女郎花」から始まる。
ずいぶん音がよく響くホールだ。
謡は味方玄さんおひとり。
とても見事な謡である。
ひとりだから、と気合いが入りすぎるわけでもなく
弱くもなく、絶妙の安定感である。

大鼓一調「景清」
こちらもよく鳴って余韻が驚くほど長い。

メインの「松風」解説を成田さんと山本さんでなさる。
ごく普通の会話がうまい掛け合いになっていて
会場の空気がほのぼのする。
これがコンビの妙だろう。

笛のゲストはいつもどおりの竹市さん。
力強い笛が、きょうは演目に合わせてか、
ほのかな情感がこもっている。

味方さんの京都なまりの解説もとても手慣れておられる。
「京雛」の男びなのような清々しさ、
すらりとした背中のラインはみごとにうつくしい。
「松風という能はまずモノトーンの風景から
はじまるとおもてください」とおっしゃる。

汐汲みの姉妹の登場から
昔この地に流されてきた貴人在原行平の話にうつって、
松風の哀しみと狂乱が目の前に見えてくるかのようだった。

謡と絡みつつもじゃましないお囃子があるのだ。
大きく鳴っても響きの美しい大鼓と
力があってもでしゃばらない小鼓、
またさびさびとした音色であしらわれる笛。

すべてが姉妹の悲哀と
もの寂しい須磨の浦の風景をあらわして
何の過不足もなく収まった。
紅無の唐織りのように。

「TTRライブ能inMitte」
  能の音楽 『かけ声の秘密』
平成18年3月24日(金) 19時~20時
 1 小鼓一調  「女郎花」
 2 大鼓一調  「景清」
 3 居囃子   「松風 前」
 4 居囃子   「松風 後」
   TTR能プロジェクト  成田 達志 (小鼓方 幸流)
          ゲスト   山本 哲也 (大鼓方 大倉流)
               味方 玄  (シテ方 観世流)
               竹市 学  (笛方  藤田流)              

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2006.03.29

春のはじめの「梅の宮」

八坂神社の正面が四条通り。
それをまっすぐまっすぐずうっと西へ西へ進む。

大宮通りも西大路通りも過ぎて、
この橋を渡ると酒の神で有名な「松尾大社」
橋のすぐ手前に、ごくこじんまりとある神社。
それが梅の宮神社である。

バス停の名前を知っていただけで
たずねたことは無かったが、知人がむかし近くに住んでいたので
賀状を書くたび、「へんぴなとこやさかい、ちっちゃい
お宮さんやろ」と想像していた。

訪ねた日はちらちら雪が降っていた。
この冬は厳しくて春は遅く、「梅の宮」の「梅」は
まだ咲き初めの予報だったが
そのぶん人は少なくて、ゆっくり見られると思った。

予想は当たって参拝客はぱらりぱらり、
ただ残念だが梅の花もほんの少し。

門は工事中だし、社務所脇の鉢植えの梅を撮る。
これでは来た甲斐がない。
せっかくだから、とお庭を拝観する。

少しだけつぼみをつけた梅の古木を横目で見ながら門をくぐる。

そこにあったのは、広々とした“池”とあずまやだった。

塀のすぐ向こうには車が通る音がするがここは別の世界だ。

水ぎわで、鳥が一羽、羽づくろいをしている。
ここのすべてを所有しているかのように。
ゆっくりと脇に頭を埋めたり、
羽をひろげたり、を繰り返している。

あずまやには石の橋を渡って行ける。
あいにく丸木橋も
飛び石も苦手なのであきらめる。
こういうときは連れが欲しいと思う。

順路は池に沿って続き、その奥の梅林や勾玉池に続く。
菖蒲の季節になれば、小ぶりな池のほとりは
青い花でいっぱいだろう。

庭が作り込まれすぎていないところがすてきだ。
機材が積んであったりする横に立つ木、
サザンカのようだが、花盛りだった。
それが気取ってなくていい感じだ。

ひとまわりして小さな門をくぐって拝殿のある庭にもどる。
背後に広がっていた庭を思うと、入ってきたときより
全体に深みがある気がするから不思議なものだ。

神社は酒の神をまつっている。
同時に橘嘉智子の作った寺だという。
嵯峨天皇の皇后、最後の橘の末の女人の
面影にぴったりの社であった。

お能で梅と言えば「東北」の梅。
梅の精が登場する「梅」というのもある。

ほのかな香りが慎ましい女人に通じるようだ。
満開のたよりを聞いて
観に行った二条城の梅園で
花はいっぱいに開いているのに
若木と古木、幹のうねり方などに
樹ごとの貌が感じられた。

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2006.03.25

ふるさとへ急ぐ~「湯谷」

桜にはちょっとだけ早いけれど、
大島能楽堂へ「湯谷」を観にでかけてきた。
これで三度目の福山だが、
懐かしく感じられるのは、
まちがてごろな大きさだから。
駅ビルも、さっと見回せば自分の居る位置がわかる。
外に出るのに、まごつくことはない。

広島在住のともだちにいつも頼りっぱなしなのだが、
おおきなガラス窓のあるカフェで、
舞台に備えて、軽くお茶とケーキの時間を持てるのも
能楽堂が駅から車なら三分の距離だからできることだ。
入口に活けてあるミモザの黄色が明るい。

開演一時間前に到着してしまう。
でも心配ない。
席を確保してから、サロン「樫木端」へ。
お能の本や写真、
そして、いつも能装束がかかっている。
近々と唐織を見ることができるのはほんとに嬉しい。
眼が喜ぶ。

上演の前にまず解説
大島輝久さんが丁寧に見どころやつくりものの説明を。
幸運なことに、正面席に座れたので、すみずみまで見渡せ、
お囃子の音もまっすぐ耳に入ってくる。
前には見逃していたようだが、舞台の床は
鏡のように磨かれていて、
歩む人たちの装束、鏡板の松までも映る。
002mikini

平宗盛に仕える遊女に湯谷というものがいた。
ある日故郷の池田から、
侍女の“朝顔”が老母の手紙を持ってやってくる。
文には、「老い先短い身である自分は心が弱っております。
いま一度、あなたに会いたい」とあった。
すぐに暇をもらって帰ろうと、申し出るが宗盛は承知しない。
「花見を共にしようではないか」と平然と車を言いつける。
006sekihi

車に同座して、清水へ向かう湯谷。
観音に故郷の母のことを念誦しているところへ
宗盛の催促が。
酒宴に出た湯谷は、
目の届く限りに咲き誇る桜の中で舞う。
突然、村雨が降ってきて、花がはらはらと散る。
そのさまをみて湯谷は母のことを思って和歌を詠む。
037butainaname

044takisita

歌を見てこころ動かされた宗盛はついに湯谷に暇を賜る。
「もし、屋敷に帰ってからお心が変わっては」と
宴の場からそのままの姿で逢坂山を越えるべく
旅立つのだった。

湯谷は大島政允さんである。
去年は「絵馬」の天照神をなさっていた。
おおどかでゆったりしているのに、
きっかりと楷書な感じを受ける。
手紙を読んだときから、彼女の心は母への思いでいっぱいになる。


主の宗盛に言葉をかえしてしまうのだ。
「この春ばかりの花見の友ではないか」という大臣に
「花は毎年咲きますが、わが母はただひとりでございます
永の別れになるやもしれませぬ」と。

文を読むときも、時に気持ちがたかぶってしまい
つかえるように激しく言葉を重ねる。
そうまでしても、結局は、花見車に乗って行かねばならない身。
018kyoukakudo

清水までの道中、湯谷は車から身を乗り出す。
どこを通っているときだったろう。
六波羅密寺の横を上っているときだろうか、
子安の塔をみて母を思ったときだろうか。

御堂で祈る湯谷の姿が美しい。
045sidaresessya

すらりと立ち「立ち出でて嶺の雲…」と
近くから遠くまでみはるかして舞う。
見所がちょうど、桜の森の風情か。
そこから散った花びらが雨とともに
湯谷の扇の上に留まる。
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許しを貰い、心いそぐていで、きりりと立ち
逢坂の関に急ぐ湯谷が、くるりくるりと回りながら
進む。遠ざかるその姿は幕の前でひたと止まり、
一曲は終わった。

地頭は塩津さん、力の入った謡だった。
またツレの侍女朝顔は大島衣恵さん。
紅の唐織が美しい。湯谷の「紅」は曙のような色だが
彼女のはほんとに「紅」。
小柄のためもあり少女に見える。
その女の童が、はるばる旅をしてきたのだ。
文を渡してから、朝顔は帰ってしまった。
以前にみた流儀では、ずっと舞台に居て清水まで行き、
ふたりで国へ帰るのだけれど。
喜多流では文使いをするだけなのだそうだ。

知っていれば、もっとまじまじと観たものを。
初めてみた衣恵さんの姿は可愛くて、
でも声はやわらかく低い。

お囃子は大阪でのお能でよく聞いているかたたち。
宗盛役の植田さんも、太刀持ちの是川さんも。

狂言、仕舞をはさんで
もう一番のお能は「野守」
解説はこんどは衣恵さん。
輝久さんと同様、てきぱきとした説明だ。
初めてのお能のときはこのように詳しく見る前に
教えていただくと、とても楽に見られる。

前シテの老人の姿で登場された輝久さん。肩も手も
姿が若々しいから、年寄りには見えない。
これは「仮の姿」である、という約束事によっての
「尉姿」なのだろう。
ワキの植田さん、さっきの大臣よりこちらのほうが
ぴったりはまっている。
はるばる旅をしてきた山伏役で、数珠の房が見事な緋色。

問答はあまりわからなかったけれど、解説があったから、
大丈夫だった。
アイも登場してさらにしっかり「野守」の意味を
噛み砕いてくれる。このあたりは疲れが出てうろ覚え。
見所は今回は「野守の鏡」と名づけられる静まった沼である。

そのほとりにある塚の作り物の中でシテは着替え、
鬼になって登場する。
後シテのこの鬼は、怖い鬼じゃない。
解説であったとおり、むしろ神に近い鬼だ。
そのトリッキーな鬼が勢いよく舞う。

鏡を掲げて天を映し、地の底までも光を届け、
太鼓の刻む音に合わせて、
赤頭の髪がゆっくり揺れる。
しかめっつらの顔さえ愛嬌がある。
小書がある。
「居留」とは「石橋」の獅子の型に近いそうだ。

こちらの地頭は大島政允さん
悠揚とした謡いとさわやかな鬼と。
008kazuraobi

ああよかった、と思うのは、
響きのよい舞台で、美しい舞を観て、
サロンでゆっくりお茶を飲んで、
ちょっと友達とおしゃべりして、
受付の方に質問したり、
コーヒーの香りをかいだり、
展示の本をめくったり、

それらすべての総和がその日の舞台の満足度。
010bangumi

喜多流定例鑑賞能
2006年3月21日(祝)12時30分開演
能「湯谷」
シテ:大島政允  ツレ:大島衣恵 ワキ:植田隆之亮 ワキツレ:是川正彦
笛:帆足正規 小鼓:久田舜一郎 大鼓:守家由訓
地頭:塩津哲生
狂言「二人大名」
シテ:野村又三郎 大名:野村小三郎 大名:松田高義
能「野守」
シテ:大島輝久 ワキ植田隆之亮 アイ:野村小三郎
お囃子=「湯谷」に同じ
地頭:大島政允

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2006.03.20

古代の輝き「白鳥異伝」

荻原規子の「勾玉三部作」
日本のファンタジーとしては出色との評価を得ている。
この「白鳥異伝」はその第二部。

千ページの大長編だ。
読み始めてすぐ、どこかで出会った気がした。
第一部の「空色勾玉」という題名を見たような。
本がまとめて置いてある棚をひっくり返してみると
文庫版が、あった。

そういえば、何か読むものを探して、
買い物のついでにスーパーの本屋に寄って、
表紙絵が綺麗だなあ、と気に入って買ったのだった。
一巻めは、神と人との話だったが、
この二巻目は、大王の時代である。

モチーフは“ヤマトタケル”
主人公の少年は「小倶那」と呼ばれ、
実は捨てられた大王の皇子小碓命(オウスのミコト)であることがわかる。
彼が振るうのは魔力を秘めた太刀。
実母は巫女である百襲姫。

いづも…伊津母 ひむか…日牟加  かげひめ…加解姫
すがる…崇流 まとの…真刀野 などと書かれた
文字から遠い昔が立ち上がってくる。

「空色…」でも主人公は、少年と少女だった。
この巻でも、小倶那と共に育った遠子という名の少女が居る。
ふたりの運命が、「まほろばの国」(ヤマト)が諸国を従えてゆく
戦いの中で激しく変転する。

剣の魔法に対抗するのは勾玉の力である。
登場人物の数は多い。
人物紹介があればもうすこしわかりやすいのだが…。
  

「孤笛のかなた」の上橋さんの作品が“童話”なら
これは少女ファンタジーだ。
人と人との関係がまるで織物のように詳しく描かれている。
そう、王子さまとお姫さまの物語だ。
これでもか、というほど二人をわかつ溝は深まる。
それでもなお、小倶那を慕う、遠子の情熱は引かない。
イヅモからヒタカミまで、勾玉を探して
遠子は旅をする。
剣の魔力に捕らえられた小倶那を救うために。

大王の皇子の身分は腹違いの兄に渡し、
剣を操る魔力(神の部分)は母の亡霊にくれてやり、
本来の小倶那だけが、蘇って遠子と結ばれる。
成長したふたりは新らしい出発をする。

これはファンタジーの王道ともいうべき結末だ。
読み終わったときの感じは悪くない。
美しい少年少女、優しい姉、きっぷのいい青年、
なぞめいたおばば、等々魅力的な人物がいっぱいだ。

ただ、風景が足りないのが(国ごとの違いが見えてこないのが)
わたしには少し物足りない。
ストーリーのスピードが速すぎて
国々のなりたち、祭る神々の違いもわかりにくい。

物語としては面白いが、と「が」がついてしまうのは
背景の「古事記」のイメージがわたしの中で
あまりにもはっきりしすぎているせいだろう。

古事記から取られているエピグラフを読むだけで
勝手に自分のタケルが立ち上がってしまって、
それが、このお話とうまくかみ合わなくて
きしんでしまうのだ。

もう一巻「薄紅天女」が残っている。
すぐに借りてこよう。
このひたむきなドラマを最後まで
読みきってみよう。
ほんとうに、気に入るかどうかは、
それからゆっくり決める。

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2006.03.12

拝むこころ~「盛久」「巻絹」

「研和会」は久しぶり、たぶん二年ぶりだろう。
大阪能楽会館での催しなので
ちょっと遠い感じがする。

それにしても
大阪ではどうしてあんなにみんな速く歩くのだろう。
わたしはほとんど小走りになる。
JRから阪急梅田まで移動するのに、
何度も身をかわして人を避ける、が時々ぶつかる。
年寄りにはまったく疲れる場所だ。

平日の午後の公演なので空いている。
最初は正面に座っていたのだが、
ここの能楽堂は傾斜が緩い。
前列に人の頭があるとかなり見えづらいので
脇正面に移動する。

「盛久」と「巻絹」を観る。
あと、狂言一番と観世清和さんの仕舞。

上田拓司さんが「盛久」のシテなので、
ぜひ観たいと思ってやってきた。
「直面」(ひたおもて)のお能はそれほど好きではなかったが
「安宅」をみて以来
素顔が「面」になることに気がつき、
上田さんはどんな武者ぶりだろう、と興味がわいた。

“平家方の武者、盛久は鎌倉に送られることになる。
彼を待っているのは、処刑しかない。
護送するのは土屋某。彼とは敵味方の関係を越えて
お互いに認め合っている。

都を出るとき、盛久は信心している清水の観音に
経を手向けて旅立つ。
長い道のりの末に鎌倉に着き、刑の言い渡しを待つ間にも
経を上げることを絶やさない。
由比が浜に引き出されて今にも首を討たれようとした時、
強い光が討ち手の目をくらませ、
刀はばらばらに折れてしまった。

前夜、老人が盛久の夢に現れ「案ずることはない。
わたしが身代わりになってあげよう」と告げた。
不思議なことに頼朝も同じ老人の夢を見ていたのだった。
盛久は罪を許されて“御酒”をたまわり、
さわやかに舞い終えて、旅立つ。
仏を信ずるこころが起こした奇跡だった。”


罪人である盛久は烏帽子を着けていない。
これはとても恥ずかしいことらしい。
土屋も駕輿丁ですら、被り物を身に着けているのに。

歩みは静かで沈痛である。
彼をまっているのは「死」以外にないから。
それでもなお観音に経を読むことを怠らない。
上田さんは静止の姿が実に美しいかただ。
清水の観音に祈りを捧げる姿が彫像のようだ。

京を出でたって、鎌倉に至るまでの「道行」は
さまざまな名所を謡が豊かに盛り上げる。
歌枕をたどってはるばると続く東への旅。

土屋氏と盛久の間には、「もののふ」同士の共感がある。
刑の執行される前夜、土屋は盛久の経を聞きながら
夜を明かすのだ。
舞台中央から、常座まで、数歩歩くだけで、
場所は由比ヶ浜にかわる。
閃光が討ち手の目を焼き、刀は折れてはじけとんだ。


御前に召された盛久はきちんと烏帽子をつける、
別人のように颯爽とかしこまる。
御酒を賜り男舞いを舞う。
とても晴れやかに飄々と舞い納めた盛久を
作者は「ゆゆしき」と褒め称える。
これこそまことの武者だと。

いわゆる「お能」的ではないが、平家物語の中の
ひとつの挿話として、後味のよい話である。
「友情」が扱われているのも珍しかった。

さて「巻絹」も、
神の功徳といえるお能だ。
都からはるばる「巻絹」をはこんでくるのが
ツレの大江泰正さん。
相当な大柄のかたで背も幅もある。
この方の相手役はみなさん小柄に見えることだろう。

そして彼は「テノール」で朗々と“歌う”のである。
もちろん「謡って」らっしゃるのだけれど、
その明るさはまるでイタリアオペラのアリアのようだ。
遅参をとがめる臣下は彼を縛れと言う。
だが、たった一重だけの縄目では泰正さんが
「うんっ」と力を入れると、切れてしまいそうでおかしかった。
神妙にお縄についている泰正さんと、
怒っている知登さん、観ているほうはとても楽しい。

とそこへ、揚幕の中から声がして、
(きれいなバリトン)
音無天神の巫女(実は神が憑いている)が登場する。
山本章弘さんの舞台は三年ぶり。
そのときは、「碁」のツレ…軒場荻の役を
なさっていた。シテの空蝉は観世清和さんだった。
そのときはとても大柄な方、という印象を持ったに過ぎない。
改めてこうして見ると、ややふくよかめではあるが
面と横顔がなだらかでうつくしい線を描いている。
ふうわりしてやさしげな巫女である。

巫女が持っている幣は白梅の枝に付けてある。
それが今の季節をあらわしてとても風情があった。
また白地に金の模様が浮き出た水衣の下の
小袖の模様は紅梅で
つぼみの紅がちらちらと見える。

神がのり移った巫女はゆっくり神楽を舞う。
親しみやすく優しく舞う。
舞いにこころ解けた臣下は役人を許し
巫女は神がかりから覚める。
「歌を詠む」ことは神を大切に思うことなのだとしたら、
その文化は絶えて久しい。

「和歌」の力は他のお能でも説かれることが多い。
言葉に宿る「まごころ」は神の意にかなうのであろう。
まとまりのよい楽しいお能だった。

「巻絹」の地謡の声色はやや低めで渋く、
私の好みに合う。

お能の会には珍しく、付祝言があり、
「颯々の声ぞ楽しむ」と高砂でめでたく終了した。

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2006.03.11

「ライオンと魔女」

「ナルニア国物語」第一弾「ライオンと魔女」
その前宣伝のすごいこと。
“指輪”に勝るとも劣らない。
なにしろ最後に残った大物ファンタジーだから。

ただ「ライオン」は獅子とは違う。
麒麟がジラフと違うように。
「ライオン」とされているが
多分動物園にいるあれとはイコールではない。
作者の想像の中で、キリストはライオンであらわされたのだ。

ずいぶん若いときから、と言っても
二十歳は過ぎていたと思う。
面白くて何度も読んだ。
だから、映画になるとわかったときは、がっかりした。
自分の頭の中にある「ナルニア」と
映画が違っていたら、いやだったから。

それでも前売り券を買ってしまったのは、
観ないでこきおろすことはできないもの。
そして観てしまえば決して悪くはなかったので
すこうし安心した。
シリーズで続くのだから、最初から観ておかなくっちゃ。

というわけで、平日に、わざわざ空いていそうな
シネコンに行ってきた。

「ナルニア」の優れているところは
この現実の世界からあちらの世界へ、たやすく渡れることだ。
行き方はその時々で違うが。
この物語では衣装箪笥がその通路である。

そのシーンは何度も予告編でみたが、
映画館で見ると、、
何も他にない空き部屋に白い布を被ったまま
どっしりと立っているこのたんすを見れば
ルーシーでなくても、隠れ場所にしたくなるほど魅力的。

兄弟姉妹の俳優はそれなりにイメージ通りである。
ルーシーは登場した瞬間に、「オーケー」だった。
まっすぐで純粋で、彼女は
このお話のなかで一番頼もしい女性である。
剣を取ることさえもためらわないが、
聞く耳を持たない少女ではない。

ほかのきょうだいたちもなかなかだ。
屈折したエドマンドはもちろん、
常識的なスーザンや
長男ゆえの優柔不断なピーターも
ほぼ原作どおりだ。

ただ、ライオンの「声」私の好みでなくて残念だった。
ポスターで目につくのがこの大ライオン。
CG技術の粋を集めて、このライオンは演技するのだ。
眉をつりあげたライオンなんてみたくないなあ。

アスランが出てくるとなんとなく居心地が悪かった。

タムナスさんはよかった。(顔は人間だもん)
ビーバーさんは作り物過ぎて、ちょっと興ざめした。
これこそCGで作れないものかな?
ダムも意外にお粗末で、奥さんはめがねをかけていないし。
と細かいことは言うまい。
ちょっと作り物っぽ過ぎたのだ。

魔女がエドマンドに与える菓子=ターキシュ・デライトの
実物を見られたのは楽しかった。
(日本語版では“プリン”だったんだもの)
砂糖の粉で口の周りを白くして
あたふたとルーシーにそれを隠そうとする
情けないエドマンドの慌てぶりは、
本で読んだそのままだった。

戦闘シーンは映画のほうが迫力がある。
天幕や盾や剣や、兵士たちや、
いかにもハリウッドらしいケンタウロスや
野牛や一つ目たち。

CGで感動したのは「ケア・パラベル」の城。
地形は実物だそうだが、
挿絵そのままだった。
四つの王座があるこの城は最初から言い伝えとして
「詩」の形で出てくる。
『アダムの肉、アダムの骨が
 ケア・パラベルの王座について
 悪い時世がおわるもの。』

そして雪降るナルニアの野に
ぽつんと灯る街灯。
この謎は原作のシリーズでも後のほうで
種明かしされるのだが、
中で燃えている火(ガス灯なのかな)がきれいだ。
そこは「街灯あと野」と呼ばれている。

いま本棚から取り出してみると、
ページはかなり変色していた。
発行は1968年だが、購入したのはもうすこし後のようだ。
読むといつも気分が晴れ晴れして、何よりの
エネルギー源だった。
翻訳は瀬田貞二さん。
やさしくてわかりやすくてユーモアもあって大好き。
指輪物語も彼の訳で読んだ。

映画を観たひとが本も読んでくれるといいな。

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2006.03.05

條風会能…女と母(「巴」「海人」)

目黒駅から徒歩七分、との案内に間違いはなく、
無事に喜多能楽堂に着いた。
これでお江戸の能楽堂を四ヶ所訪ねたが
まず分かりやすいほうだ。

「ドレメ」杉野学園関係の建物ばかりある、
閑静な通りを歩いていくと電柱に矢印があって、
間違いなかったと安心する。
表構えがまったく能楽堂らしくないので驚く。
003tobira
立派な「扉」から入ると感じのよいロビーがある。
橋掛かりや見所などはこじんまりしており、
舞台は低めなので見やすい能楽堂である。

写真撮影はできなかったが、
鏡松がとても雄渾だった。

この日は喜多流の若手ふたり
(友枝雄人さんと狩野了一さん)の公演で
演目は「海人」と「巴」

いつも地謡で顔は知っているんだけど
どなたのシテもほとんど見たことがないのに気づいた。
友枝さんがシテのときだけ上京するのが、
ここしばらくのならいだったが、
若手のかたのお能も観たくなったのだ。
大島輝久さんのシテは、
福山での定例公演に足を運ぶつもりだ。

できるうちに、できるだけ、で走り回ってきたお能鑑賞、
体力低下の焦りもあって、
この機会を逃すとまたいつになるかわからないから。

正面も脇正面も、見やすいところは指定席になっている。
私の視力では、後方は無理なので、最前列に座る。
二階席をのぞいてほぼ満員である。

最初が「巴」
シテの狩野さんの舞を観たのは一度だけ。
京都の囃子方のもよおし(「せぬひま」)で舞囃子を。
そのときの地味だが美しい舞はずっと記憶にあった。

しかも、「巴」はついこの間お稽古を終了したばかりで、
まだ謡が記憶に残っており、
習えば習うほどに、好きになった曲である。

前シテは素直にうつくしい。たいへん愛らしい面だ。
本に「万媚」として載っているものに似ている。
唐織の小袖は橙と白と青の段替わり
小柄ですっきりした立ち姿。
声も作った声でないのがよい。

ワキの大日方さん、目の前でみていたが、しっかりと
きっちりとシテに対応されるのがとても好感が持てた。

むかしのことを思いつつかきくどくシテは
クセの部分で義仲のこれまでの戦が語られると、
ふと彼がのりうつったようになる。
女からうつくしい男へと

夜が来て、里女は
黒の烏帽子に片袖を脱ぎ、
なぎなたを持って登場する。
たおやかでみずみずしい巴だった。
021siro-yokonaga

義仲に、ここから落ち延びよ、と言われて
最後の戦をしてみせようと、
蔓桶から立ち上がり、なぎなたをふるって敵を追い散らす。
重い手傷を負った主をかばいつつ敵を倒す。
だからシテは脇正面にむかってなぎなたを揮う。

すこしづつ敵を押しやり、橋掛かりを幕近くまで追いきって
主が横たわる松の根方に戻ってきたときには、
すでに義仲は自害していたのだ。

お能では義仲の代わりに、ワキ僧たちの前に、
白い(薄くて生成りの)小袖が横たえられてある。
彼でもあり、形見でもある小袖が。

膝をついて別れを惜しみ、
いっそ後を追いたいとおもうけれど、
遺言にはそむけず

その小袖を巴ははおる。
地謡がゆっくり謡いつなぐ間に
後見ふたりともうひとり切戸口から現れて
三人で、小袖を脱がせ烏帽子をはずし、

はいていた緋の袴の上に、しろい上のきぬだけで
それがとても清らかで
さっきまで立ち回りをしていた勇壮な彼女とは思えない。
刀をしっかり持ち直し、
右手に信楽笠、黒い笠を持ってたたずむ。

その姿は一瞬だが、くっきりと
なんともいえぬ悲しみと情が、
義仲が倒れているはずの松ケ根に通う。

その姿で落ち延びて、
しばらくの生をすごしたけれど、
後ろめたさは絶えることがなかった、と
僧達に向かって手を合わせ、
「どうぞ跡を弔ってください」と
合わせた手の可憐さが痛ましかった。

巴が生きたのはただ、義仲が望んだからで、
ほんとうは寄り添って死にたかったに違いない。

狩野さんの巴は清らかに橋掛かりをわたっていった。

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もうひとつのお能は「海人」
こちらのシテは友枝雄人さん。

笛は一噌幸弘さん。やっぱり三本の笛を持って登場。
小鼓はまったく初めてのかただが、やわらかい音色だった。
おなじみ、と言えば、大鼓が柿原弘和さんで、
お父上譲りの音がよく響いていた。

前シテの海人は、青ざめた面、水ごろももうす青で
下からのぞく小袖も紺地で登場する。
この世のものではないことがはっきりとわかる雰囲気を持っている。
子方は子息の雄太郎くん、(房前役)
かわいらしく、はっきりとした語りで、謡も気合充分だ。
扇を持ち替えたりしている所作がきちんときれいだ。

見どころは玉の段。
確か、万作さんで見たことがあったと思う。
雄人さんは舞台ではとても大きく見える。
堂々と立派な舞いでどこにも隙がない。

後シテの竜女は、一段と立派さが映え
悠々とした楷書の舞であった。
これは雄人さんにぴったりだなあ、と思いつつ観る。
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能「海人」は
幽霊の話といってもとてもわかりやすい。
「絵本」にもなっている。(片山清司さんが紹介されていた)
讃岐の志度寺の縁起が元だそうで
最後はめでたく終わるところも後味がよい。

春のシーズンが待ちきれなくて、行っただけの甲斐はあった。
ただわたしの体力、気力とも
お能一番、狂言、仕舞、程度が限界のようだが。
ともあれ、それぞれの花を見比べる楽しさは
十二分に味わえたからよしとしよう。

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2006・2・25 喜多能楽堂 
「巴」 シテ:狩野了一 ワキ:大日方寛 ワキツレ:則久英志、梅村昌功
    アイ:竹山悠樹 笛:槻宅聡 小鼓:観世新九郎 大鼓:柿原光博
    地頭:友枝昭世

「海人」シテ:友枝雄人 ワキ:宝生欣也、坂苗融、御厨誠吾 子方:友枝雄太郎
     アイ:石田幸雄 笛:一噌幸弘 小鼓:森沢勇司 大鼓:柿原弘和
     太鼓:小寺真佐人 地頭:中村邦生
仕舞「桜川」金子敬一郎、「笠の段」内田成信、「野守」塩津哲生

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2006.03.03

読書の春

インターネット予約のちょっと困ったところは
まとめてどっと配本になることだ。
図書館に行って借りるときは
重い本と軽い本を混ぜて借りる。(中身も、装丁も)

「来ましたよ」とメールがあって取りに行くと、
これはまたお気に入りの作家のそろい踏みだった。

「関与と観察」中井久夫著
わたしより一世代以上上のこのかたは
精神科医であると同時に、“詩”の翻訳家でもある。
その訳詩を読んだことはない。
わたしが読んだのは彼のエッセイを集めた本だけである。

何番目かのエッセイ集だが、
新聞に連載されたもの以外にも、
今の世界情勢について思うことや、はるかむかし、
もう三十年以上前に書かれたものも収められている。

ひとは成熟しるものだなあ、という思いと同じくらい
変わらないものでもあるらしい。

彼の本を読んで感じるのは、
「このように良心的なひとを失ったら、この国は
どうなってしまうだろう」という危惧である。
戦争を体験した世代の中で、倫理的にもゆるがず反対の論を
語れる数すくないひとだと思う。
静かな声で静かな話を。
それが、心に泌みる。

翻訳ということは橋を架けることだと中井さんは言う。
須賀敦子の訳詩に触れて、
彼女はイタリアと日本の間をつないでいる、と言う。
「彼女は小説を書かずにエッセイを書いた。
自分を強く押し出さず、
さりげなく奥にいて、人と人、国と国との架け橋になっている」と。
須賀さんのエッセイは、読んだ瞬間にわたしを惹きつけた。
その端正な古風さで。

言及される本は他にもある。
「日本書史」石川九楊作
書からひもとく日本の歴史。
思わず読んでみたくなる。
読めなくとも、「絵」として理解すれば、良いのでは、と書かれている。
それなら、歴史上の著名人の、
服装のセンスを楽しむようにに読んでみたいものだ。

中井さんの本の中で
優れた訳詩者と紹介された
池澤夏樹著 「異国の客」

この間まで彼はオキナワに住んでいた。
写真入りのエッセイ集も読んだ。
このたびはフランスに移住して、その記録をリアルタイムで綴っている。
「旅人として生きてきて、はじめてヨーロッパに住む」のだと。

中心が好きじゃないと池澤さんは言う。
フランスなら「パリ」と誰でも考えるところだが
彼が選んだのはフォンテーヌブローという、パリ郊外の小さな町だ。
歩いて生活できる場所で、
そこから見える「客」としての発信。
はるか離れた日本に対して思うことを。

メルマガで読んだときよりずっと落ち着いて読めるのは
縦書きだからと、「本」だからだ。
パソコンの画面で横書きの文章を読むのは
昔人間には疲れる。
またなぜかこの本の中にも「須賀敦子さん」が登場する。
風景の描写と詩の言葉。
池澤さんの文はいつもくっきりとしていながら音楽的だ。
実はまだ、半分しか読めていないのである。

そのわけは橋本治の本が二種類やってきたからである。
「ひらがな日本美術史」と「双調平家物語」
「双調平家…」は、前に第一巻だけ読んだ。
そのときは中国の話から始まったので、
「これはちょっとした導入部だろう」と思っていた。
ところがそれは大違いで、
蘇我氏のころから延々と物語が続く。
もちろん歴史の教科書よりはずっとずっと面白いのだけれど。
時々、橋本さん特有の、ちょっと捻った辛口の人物描写もあるし。
四巻でやっと聖武天皇にたどり着いた。
全十五巻の予定のうち、「平家物語」の部分は、三巻分くらいのよう。

「平家…」と一緒に、「ひらかな日本美術史」も届いた。
こちらもしっかり橋本節で、さまざまな美術の解説および紹介。
写真が大きくて綺麗で、
絵や庭や、の説明ばかりでなく、歴史にまつわる記述もたくさんで、
とにかく「よみごたえがある」本だ。
彼の本は好きな人と嫌いな人がはっきり分かれるタイプだが、
長年の間に文章の調子を体が覚えているので
わたしには苦にならない。
それでもこれだけ冊数があると、その濃厚さを緩和するために
軽い読み物も必要だ。
おりよく伊坂孝太郎の「死神の精度」も届く。

おいしい饅頭ににお茶は必需品である。

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