« 2006年3月 | トップページ | 2006年5月 »

2006.04.30

新作能「紅天女」

JR大阪駅から阪急電車の方向に歩いていくと
ひときわ目立つのが「ヨドバシカメラ」。
その前にそこに何が建っていたのかを
すっかり忘れさせる存在感で視野を占めている。
流行のネットカフェが一階にあって、
平日の昼間にもかかわらず満席に近いのが
いかにも今風である。
009kobaisora

私もまた平日の午後、のんびりと歩いているのだが
同じ方面に向かっている人々の中で
ちょっとドレスアップしている女性を見ると、
「同じ場所に行くひとかしら」と思ってしまう。
その勘は当たっていて、着物を着慣れたその女性は
シアタードラマシティの階段を下りていった。

「新作能」で「ホール」だからか、少し空き席がある。
ここはこぶりで見やすいホールだが、
能楽堂よりははるかに大きいから、
劇はもちろんマイクが使用された。
017umesiroppo

この「紅天女」
どう名付けたらいいのか、迷ってしまう。
もともとは(パンフレットにあるように)
三十年前から連載されている漫画、
「ガラスの仮面」が原作である。(作者は美内すずえ)
国立能楽堂の企画で、宝塚の植田紳爾さんが脚本、
梅若六郎さんが演出(能本補綴)でこの度の上演となった。
最初は東京のみと聞いていたが、
大阪公演があると知ってすぐチケットを確保した。

お能も狂言も宝塚も漫画も、全部「好き」なものだから。

ナビゲーターと最近ではいうのだろう、
はじめに話しだすのは、
“月影千草”に扮したタカラヅカの邦なつきさん、
せりふ回しがタカラヅカだな、と妙に感動。
次に登場は狂言方が二人。
茂山七五三さんと千三郎さんだ。
掛け合いも呼吸が合っていて楽しく、装束が照明に映える。

彼ら、「東の者」と「西の者」が奥行きのある幕中に消えると、
能の中の登場人物(旅人)の装束で、
主人公の仏師が登場する。
彼は劇中劇では一真という若者にもなる。
演じるのは関西ワキ方では随一の美貌、福王和幸さんである。
能楽堂でこそ、背の高さがめだつが、
天井の高いホールでは、そのスタイルの良さが武器になり、
漫画の主人公にぴったりの甘い感じがよく出ている。
024edasiromidori

対してヒロイン阿古夜は梅若六郎さん。
比べるとたいそう小柄に見えるが、それが可憐さとなって
二人の釣り合いがとれている。
ホールでお能を観ることがあまりないから、
はじめはかなり違和感があった。
マイクを使うと、
地謡やお囃子のバランスが変わるせいかもしれない。
お話に入り込めたのはシテが阿古夜になってから、だった。

ホールでは能楽堂より照明がくっきりしていて
人物も現代劇のように陰影に富んでみえる。
里の女に馴染みにくかったのは、「橋がかり」がないからかな。
登場が黒い幕からだと、
いきなりな感じがして、はっとしてしまう。

能舞台の作りは実際よくできているな、と思った。
揚げ幕から登場して、橋がかりで見所に向いて謡うと
その瞬間に「これがシテだ」と
その姿がしっかり刻み込まれるからである。
その経過なしに、登場する六郎さんの主人公は
横顔ばかりで面がみえないから
美女ぶりが覗えなくてとまどうのだ。
020umeaka

漫画では「紅天女」は封印された劇となっているから、
ちらりとそれらしいコマがあってもストーリーはない。
それだけ自由にお話をこしらえられるはず。
普通の「恋物語」だけではなく、

『生きとし生けるものうえに平和を』という
壮大なテーマが語られる。
“エコ天女さま”と私は名付けたが、
ただごとではない美しさを持つ天女の願いはそれとして、
天変地異や戦など、いまある問題は
狂言方がはなす。

アドリブか、とおもうほど
間のよい闊達なやりとりの妙は茂山家ならではのもので、
二度の登場、台詞は微妙に繰り返しになっている。
そのリフレインが、和解に至る過程を
くっきり照射する効果をあげている。
029akatakusan

「千年を経た梅の精」紅天女が舞う後半は、
六郎さんの舞が輝く時間だ。
紅梅の花びらがきらきらと天から降ってくる。
その美しさもさりながら、
唐団扇を手に舞う六郎さんの天女は
その何倍も何十倍も美しい。
眠くなるほど長くはなく、
序の舞の長さにようよう慣れた身には、
あっけないほど早く天女は舞納めて昇天する。
031siromomo

のこされた仏師の放心と目覚めで幕が下りる。
幕が下りるのが、不思議でならなかった。
でもこれはお能であってお能ではないから、
立ちつくした男、そして幕が下りる、のは
お芝居として「ごくあたりまえ」だと思う。

また台詞にメッセージ性を持たせることも、
演劇では普通のことである。
なのに、お能には似合わないなあと思ってしまうのは
いったいなぜだろう。
狂言においても「新作狂言」の中には、
はっきりと、現代の世相にもの申すという作品がある。

ただわたしは、
伝統芸能で使う言葉で「世界平和」を語られると、
なんとなく居心地がわるいのだ。

恋物語は昔からずっとあったから、
新しい物語を、ということのようだ。
が、恋物語が今まで残ったのは、
それが、どの時代においても
共感を呼んだからではないだろうか。

天女は日輪の冠をいただき、
瓔珞の輝きも晴れ晴れときらきらしい。
尾長鳥の模様の舞衣を着け、
唐団扇の模様はなんと「唐獅子と牡丹」だ。
それと同時に、切なく人を恋うる阿古夜という女でもある。
022usubeni

いろんな要素が取り入れられていて、
それなりに面白楽しいお能だった。
肩も凝らずすっきりして帰れたのはよかった。
これから演じられる度に変化してゆくだろうと思う。
再演されたら、それを確かめにまた足を運びたい。

平成18年 4月 25日(火)午後三時開演 梅田芸術劇場
「紅天女」
監修 美内 すずえ
脚本 植田 紳爾
演出・能本補綴 梅若 六郎  
制作協力 中村 暁  協力・初演制作 国立能楽堂

阿古夜・紅天女 梅若六郎  仏師・一真 福王 和幸
東の者 茂山 七五三 西の者 茂山 千三郎

笛 藤田 六郎兵衛  小鼓 大倉 源次郎
大鼓 亀井 広忠 太鼓 助川 治
地頭 梅若 晋矢

月影千草 邦 なつき

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.04.29

西国札所(書写山圓教寺)

いま出かけたいところは、お能にゆかりの地、
また神社やお寺。
写真が撮りたいので、
花を求めて植物園にも行ってみる。
たしかに綺麗な景色だけど、思いめぐらす歴史が
そこにはないので、物足りない気がする。
とにかく外に出ると、体調が良くなるのが
経験上わかっているので、
疲れ具合を見計らいながら予定を立ててみる。

今回は姫路の、書写山圓教寺まで旅をした。。
スルット関西から三日間乗り放題で五千円のチケットが
発売されている。
電車にに乗って、窓から風景を見ていると心が和む。

知人が「目」として同行してくれたので、
快適な旅だった。
片道三時間、電車に乗りっぱなし。
着いたら、簡単な昼食以外は歩きっぱなしだった。
005nioumon

圓教寺は、九百六十六年に開かれた寺で、姫路からバスで三十分、
郊外の緩やかな山上にある。
麓からはロープウェイで簡単に上れる。
足に自信のない私にはありがたい。
駅舎はきれいに整備されていて、
見下ろす山は緑の色がとりどりだ。

「志納所」(入り口)から、本道の摩尼殿まで
ゆっくり歩いて二十分の道のりである。
途中にある仁王門、ここが山の真の入り口である。
登っては降る道を、せいせいと
息を切らして歩いていくと、道なりに
次々と観音像が。
近寄ってみると、どれも新しい。
西国三十三カ所の観音さまの模刻が、
この参道に集められているようだ。
027hotokehazakura


おりから、開基性空上人の千年忌で、
旗がずらりと並んでいる。
ちょっと大売り出しのようで、写真が撮りづらかった。
和泉式部も、この上人に帰依していたので、
その「一生」が、絵物語になっていて、
志納所の前に飾られている。

平日だからか、空いていて、前にも後ろにも人影がない。
とてもとても静かだ。
樹木は多いが、時々ぱっと明るい場所があり、
そこが塔頭だったり、見晴らしのよいポイントだったり
なかなか変化があって飽きなかった。
懐石料理を出す塔頭で飛び込みの可否を尋ねてみたが、
予約のみ、であきらめ、
本堂(摩尼殿)下の茶店でひとやすみする。
040manidenwomiageru

年忌にちなみ秘仏が公開されていて、とても運がいい。
何百年ぶりに厨子から取り出された如意輪観音を拝む。
本堂は薄暗く、お顔はよく見えなかったが
可愛らしい小さなほとけさまで、「胎内仏」であったそうだ。
台座と光背は江戸期のものだとかで
やけにきんぴかだったが、もとの彩色は
仏さまの衣の裾に残っていて
鮮やかなあおいろが、昔はきっと
華やかな色合いであったろう名残としてある。

鎌倉時代の四天王もガラスケースに入っていて、
こちらは堂々として力強い。
ひろい堂内にはお土産がたくさん置かれていて
数珠や根付け、ストラップの類など
あまりあちこちにあるので、ちょっと可笑しくなる。
そこそこ有名なお寺のはずだが、三十三カ所を参るひとには
知られていても、これという目玉がないので
観光地という感じではないようだ。
010tuijikuzure

茶店の人の話によると、
映画「ラスト・サムライ」でここがロケ地になり、
そのおかげで、最近観光客が増えたそうだ。
渡辺謙やトム・クルーズの写真が額に入って飾られていた。
映画のセットやロケ地が話題になるのは珍しくないが、
そのためにわざわざ、来る人がいるのだな。
029jikidou

せっかく来ておいて見ない手はない、と
二人で、その場所に急ぐ。
どちらも映画は見ていないけれど。
本堂の裏の道を五分ほど歩くと、広場に出、
そこに三つの建物が、コの字型に建っている。
大講堂、食堂(じきどう)、常行堂である。
どれも、古びかたがよい。
これほどにどっしりしたものなら、
映画の中でも存在感のある建物として映るだろう。
食堂は階下も階上も展示室になっている。
鬼瓦をはじめ、十二神将、文殊菩薩など、
仏たちも古びぐあいが美しい。

元々あったものは火災で焼失し、どの建物も
後の復刻であると案内にあったが、
花山法皇や後白河法皇の勅願であるそうな。
比叡の山よりもはるかに明るいこの山は、
瀬戸の海まで見える位置にある。
この駘蕩とした伸びやかさが、都びとに人気があったのも
道々の風物が都ではみられないものだからかしら。
源氏物語の須磨明石の巻や、
能「松風」にみられる行平伝説など、
このあたりは、都からはちょうどよい距離の田舎だったのだろう。
034jikidouyoribosyo

そんなことを思いながら食堂の二階を歩く。
裏は青葉の盛りで、正面からは大講堂と常行堂を
門扉のようにして、本多家の墓所の屋根が見える。
その連なりが実にリズミカルで快い。
旅の前に想像していたよりも、
堂伽藍の間が近かったので、
限られた時間でたくさん見ることができて嬉しかった。
もう少し近ければ、もし運転ができたらと、
思い残しはあるけれど。
002syakunage

和泉式部が歌を送った性空上人が居ました山。
いかめしくなく親しみやすい
その山の端から昇る月は、温かな色であったろう。
迷いを持つ誰のうえにも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.04.18

念仏の功徳~「百万」

冷たい雨が降って、桜も散り残りのみが枝にしがみついている。
観世会館のある三条白川あたりである。
四月とは思えないこの寒さに、
冬のコートを引っ張り出して着ていった。

「春の梅若会」は毎回見所が満員。
出がけに用事を済ませていたら、大幅に開演時間に遅れ、
一階席は五つほどしか空いてなかった。
補助席か中正面席、という選択肢で、
脇正面の補助席を選ぶ。
最後列から三列目だが、通路に飛び出しているので、
座り心地は悪いが、見通しはいい。

あちらこちらで咳が。
こんなに寒いと風邪ひきが多くてあたりまえ。
男性客が目立つ。しかもビジネスマン風の。

011gaku

013tahoutou

嵯峨清涼寺で大念仏が行われているときのことである。
紀州から来た旅人はひとりの子供を連れていた。
奈良の西大寺のあたりで拾った子であった。

近くに住んでいる男に、「何か面白いものはないか」と聞くと
「そればらばちょと念仏を唱えましょう。そうすると近頃、
狂った女が、すぐに出てきて、面白く念仏を唱え舞いを舞いまする」と
答える。

念仏を始めるとすぐ、女が現れて、男を押しやり、
興ありげに舞う。
しかしそののち、生き別れになったこどもを思って謡いつつ舞う。

その子とは旅人が連れている子であり、
子供は母をそれと認める。
「我が子に会いたい」と
女はさらに法楽の舞、クセ舞と舞いすすみ、
子供を捜し求めてここまで至った道筋を語る。

哀れと思い旅人は親子を対面させる。
「もっと早く名乗ってくださったなら、恥ずかしい様子を
さらさずにすんだのに」といいつつ、
今は狂いから覚めて、慈母の相になった百万は
こどもとともに都に帰ってゆく。

022yanesuityokunaki

シテは梅若六郎さん。
チラシに先代の六郎さんの写真が載っていたが、
同じ模様の長絹を来て出てこられた。
主人公はやや年闌けた女だから、紅い色目は使っていない。
緑に流水の模様である。
小袖は地味な茶色の地。
色合いはこの季節にぴったり、芽吹いた柳の色と春の土の色。
旧暦でいまは三月、弥生の盛りだ。

はじめはおどけた風に登場する狂女、
よい声で「南無阿弥陀仏」と歌い、くるりくるくると舞う。
六郎さんの舞は素軽く速い。
重くたっぷりではないから、物足りないか、いうと
それがまた違う。
018butai

舞が始まると、舞台は「舞の時間」になり、
お囃子も地謡もみんな渾然一体、言葉が多少不明でも
全然問題はない。
楽しい舞が続いている間、うっとりと浸っていればいいのだ。
するとまぶたが落ちてくる。
ぐっと力を入れて目を瞠るが、
笹がゆうらりと揺れて、シテが舞台を一回りすると、
また心地よい眠気が襲ってくる。

波のようにリズムに身を任せているうちに
舞が終わり、問答になると、きぱっと目が覚める。
テンポよくワキとシテが語る。
この部分は演劇だ。
さっきうとうとしていたときに見失っていた筋を
再び見つける。

そんなに動きが大きいわけでもないのに、
六郎さんの舞は綺麗だ。
「楽しい」波動が見所じゅうに満ちて、静かになる。
あとの気分もとてもいい。
体まで柔らかくなるみたい。
034syakunagemitibata

我が子と知らされて、急ぎ近づきかき抱く、
たっぷりとした母の愛、そしてとても嬉しそうだ。
帰り際に橋がかりで、二度ユウケンの所作をする。
「これも仏のおかげ」と謡いながら、
喜びがおのずからあふれる仕草である。
狂っていたときの烏帽子も外し、
笑みをたたえてシテは幕に入る。
親子再会成った春の一日の、楽しさを後に残して。

お囃子がまた良かった。
杉さんの澄明な笛の音。柔らかくしっとりと吉坂さんの鼓。
大好きな山本孝さんの大鼓、すっきり枯れたかけ声と音色、
久しぶりに聞けて、嬉しくてたまらなかった。
春はいつも調子を崩すわたしにとって
たいへん幸せな半日、これでしっかりリフレッシュできたようだ。
030ensyumiwa

※はじめて梅若晋矢さんの仕舞を見る。
「野守」だった。仕舞としても見どころの多いこの舞、
銀の扇を鏡に見立てて、軽々と舞われる。
切れのいい舞だけど大げさではなく、手の先まで
エネルギーが満ちている。味わい豊かな舞ぶりだった。

京都「春の梅若会」平成十八年四月十五日(土)
会場 京都観世会館 十二時半開演
能「鉢木」
狂言「左近三郎」
能「百万」
シテ 梅若 六郎 子方 河本 彩
ワキ 中村彌三郎 ワキツレ 森本 幸冶 中村 宜成
アイ 松本 薫
笛  杉  市和 小鼓 吉坂 一郎 大鼓 山本 孝
太鼓 前川 光範 後見 赤瀬 雅則 山本 勝一

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.04.13

たっぷり(橋本「平家」を読む)

十三巻目でやっと追いついた、
橋本治の「双調平家物語」に。

最初に一巻を図書館で発見したのはいつだったろう。
ずっとその巻だけしか棚にないの
連載が中断になっていると思っていた。

全市の図書館がオンライン化され、
ネット検索と予約が出来るようになった。
うまくできるかは別として、
新しいやりかたに興味があったので
ネット会員になってみた。
どこの館の本でも検索できるということは
一大図書館が出現したことと同じ。
取り寄せシステムもメールで通知なので、
朝のメールチェックを面倒がらなければすべてオーケー、
なんとすばらしい。

結果、新刊や、書評本はたやすく検索できて便利になった。
ただ、棚を眺める楽しみはない。
ネットで本を選ぶということは、あるかないかは即わかるのだが、
その周りの棚の未知の本には出会えない。

調べてみると、何年分だろうか、
「平家物語」は二巻から十三巻まで揃っていた。
次々読んでいく間中、予約は一件も入らないので、
ネット予約した2日後に確実に届く。
どの巻もで、しかも新品同様、ってことは人気がないのかなあ。


読み始めて、あらためて参った。
「平家」物語の話が始まるのが
十巻目くらいからで、
二巻は蘇我馬子から始まる。えらい古い。
古代から飛鳥時代、奈良時代へと続く歴史が
えんえんこまごまと描かれる。

おまけに系図が各巻に三枚から四枚付いていて、
私はこういうの好きだからいいけど、
でも誰が誰の子孫、いりくんでいてややこしい。
そのほかにしっかり人物紹介もついている。

はらはらでもわくわく、でもないし漢字も多い。
でもここらへんの歴史はわりととっつきやすい。
文体はいつもどおり、ねじれたり付け足したりだが、
その呼吸はだいたいわかっていたから
するすると十三巻読了する。
ほとんど斜め読みだけど。
以仁王の挙兵、源三位頼政の敗死までたどりついた。
最新巻の発売は今年の一月。
平家が滅亡し、源氏の巻を経て灌頂の巻に至るには
まだ二、三年かかるかもしれない。

あんまり「小説」的ではないような。
語り部のように橋本さんはものがたる。
ひとりひとりの心理すら目にみえるように。
だけど「心理」小説とは思えない。
この時代はいろんな小説で読んだけれど
私が読んだ限りにおいて、
物語の中のひとつの位置にカメラを置いて、そこから
ずーっと人々を映してゆくものが多かった。
(上からみおろして書く作者の眼)
ないしは、一人を中心に置いて、そのまわりの心理や
行動をクローズアップしていく方法もある。
(主人公の視点)

橋本さんのこれは「絵巻」なのだ、と思った。
彼は「ひらかな日本美術」も書いてるし。
ことのはじめから説き起こし、流れ流れて
くるくる過ぎてゆく歴史の場面を「観て」いる気がする。
十分な時代の説明と細やかな風景描写がある。
たくさんの人物が、淡々と登場し消えていく。

絵巻では、誰を好きになってもいいのだ。
小説には人物の遠近軽重があるが、
絵巻のどの場面にもいるからと言って、
それが主人公とは限らない、一時のあいだに主客は変わる。

いまのところふたりの挿話が印象的だ。

ひとりは藤原頼長
保元の乱の当事者である。

私が彼と出会ったのは、歴史を素材にした子供向けの本
「むかしむかし」シリーズでだった。
題はたぶん「菊酒を飲まず」だったと思う。
王朝人のならいとして彼も重陽の節句の菊酒を、
渋々飲む、という記述、これは日記にあるらしい。
「菊酒を飲む、ただ唇を潤すのみ」
かなりのひねくれものが、この時は
まわりに合わそうと無理していたありさまである。

簡略にそれから後の王朝の推移、摂関家の争いが
書かれ、
彼が孤立していった、何年かさきの同じ節句、
「菊酒を飲まず。長生きしようとはおもわないからである」
と終わっていた。

とてもかわいそうな人だ、と当時の私は思った。
物語の主人公として。
歴史上の人物だと思わなかった。

学校の歴史でも、彼は系図に名前が載る程度の扱いだったし、
ずっと忘れていたようなものだ。
この本で出会ったとき、
橋本さんはこの人をどんな風に書くのだろう、と
寝るのを遅らせて読んだ。

その時代の信じられないくらいややこしい親子関係に驚く。
養子や猶子が当たりまえで、系図は点線や波線で
指でたどらないと、訳わからなくなりそうに複雑怪奇。

身分の低い母から生まれて、父の忠実に溺愛された彼、
子供のいない兄の養子となって身分を受け継ぐが、
頭でっかちで現実がみえてないから、
自分の希望がすべて叶うと錯覚して、
ずるずると乱に巻き込まれてしまう。

男寵が盛んな時代(と橋本さんは言う)
位のある男たちと情を交わし、捨てられ
敗けた後、彼につき従うのは、数人の身内のみ。
会いたいと願った父にも拒否されて、
苫小屋で生涯を終える。

うまく世渡りできなかった彼を、
そのとき私はかわいそうに思った。
人の気持ちを察することができない、
へそまがりで不器用でひとりよがりな彼を。

王朝とは雅びな世界と思っていたが、なんのなんの
「世間」はいつも渡りにくいものだ。
橋板を踏み外したものは真逆に落下し、
以後誰もその人を覚えていない。
先例を尊ぶとは平安の昔からあったと見え、
よりどころとしてこじつける故事来歴にはことかかぬ。
しかしそれをうまく利用するためには、
釣り合いを取り、根回しもしなければならない。
さらには損得勘定も必要だ。
ただめったやたらに「我が正しい」と主張するだけでは
誰もついてはこないのだった。

「菊酒」は縁起ものであるのに、
あえてそれに背を向けて、結果として彼は若死にした。
もし生き延びていても、穏やかな余生はなかったろう。
父忠実は、兄忠通に幽閉されたまま、なお十年以上生きる。
都の北の外れの紫野にて。


原文では読み難いものを色鮮やかに仕立て直す、
職人芸とも言える橋本さんの技。
ゆとりのあるときに原典を借りてきて読んでみよう。
さて、もとの文章に歯が立つかどうかは大いに疑問だけど。

もうひとりは「有名な」俊寛僧都の話。
能にも文楽にも歌舞伎にもある。
鬼界ヶ島に流された僧の話。
なぜ涙が出るのか、少し考えてみる。
橋本さんの書き方は決して「泣かせる」ものではない。
にもかかわらず、泣いてしまった。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006.04.10

東に帰る名残りかな…「湯谷」

関東ではすでに桜が咲いていた。
行き慣れた国立能楽堂に向かう電車の窓から
薄白く近く遠く桜は見えた。
開演が午後三時と遅めの時間なので、
到着後ゆっくりと待つ間があった。
眠気予防に久しぶりにコーヒーを飲む。
空も穏やかだ。お能を観る日がいつもこんなだといい。
014takatosora

今日の席は中正面である。
国立能楽堂は見所がたいそう広いので、
舞台の見え方は、座ってみないと分からない。
探し当てた席は、正面も橋がかりも等分にみえ、
しかもなんとか視力が届く席だった。
来られただけでも嬉しいのに、と幸運に感謝する。

あらすじがのみこめているので、安心だった。
福山で観たときの丁寧な解説があったからこそだが。
「米の飯」と聞くように上演の回数は多いようである。


まず舞台に登場するのは、宗盛役(ワキ)の森常好さんで、
恰幅といい、年格好といい、イメージの中の宗盛にぴったりだ。
ワキ方が位置を占められた後、
侍女朝顔(シテツレ)の長島さんが登場される。
大柄だがすんなりすっきり、装束は意外に地味で
やや年のいった落ち着いた感じにみえた。。
次第を述べる声がきりりと響く。よいお声だ。

朝顔のおとないに応えて、
湯谷が幕から登場する。

小柄で若い。
いちめん花の模様の装束のうち、一種だけが紅く彩色されている。。
髪をゆわく蔓帯の背にかかる部分は鬱金の色で、
結び目のあたりは紅い。
ういういしく花の盛りの舞姫である。

その面が、朝顔の携えてきた文を見たとたんに曇る。
「あら、笑止や」と
故郷の母を思う心が愕きの声をあげる、
大臣の館へ湯谷は急ぐ。
侍女はそのまま静かに立ち去っていく。
047itosidare

友枝さんの演じる女性の愛らしさは表現しがたい。
唐織りをやわらかに着こなして、
すっと立った立ち姿が、言いようのないうつくしさなのである。
その若々しい姿と静かな声が、舞台を彩る。

笛はまっすぐによく伸びる一噌仙幸さん。
小鼓は柔らかさと剛毅さを兼ね備えた成田達志さん。
かけ声が特によい、とこれはいつもこの会に来ている友人の言である。
関西人としてたいそう嬉しい。
大鼓はベテランの柿原崇志さん。
乾いた歯切れのいい音色を懐かしく聞く。
関西ではめったにお目にかかれない。
後見は弘和さん、お正月の「お囃子」の公演で拝見した。

奏でられるお囃子は、ひろびろと響いて晴れやかである。
湯谷の歩みはますますうつくしい。

大臣宗盛に湯谷は願う。
「病気の母のためにお暇をいただきたい」と。
「これ、このように」と文を差しだそうとして
宗盛はあっさり言い放つ。
「見るには及ばぬ、そこで読み聞かせよ」

そして湯谷は文を読みあげる。


謡本によるとこの部分は「文の段」と名付けられ、
母の心情を切々と訴えたもの、とある。
本には「ゴマ点」が付いている。
それは「謡う」しるしである。

友枝さんの湯谷はここを、語りのように謡う。
母の心細さ、娘への思い、切ない気持ちがこもっている。
静かな謡は、湯谷に母がのりうつっているように聞こえる。
ひとりなのにふたり居るようだ。
唐織りのまま座る姿が美しい。
巻紙を解く手まき直す手も美しい。

訴えを聞いても宗盛は興味を示さない。
それでも重ねて願う湯谷の言葉に
押し被せるように花見の車を言いつける。

花見車が用意されると、見所は京の都となる。

すべもなく車に乗る湯谷はほんのすこし憂いを見せて
流れ去る外の景色をぼんやりと眺めている。
ふと、身を乗り出す場所は、橋の上だろうか。

ちょうど柱の陰になって湯谷の姿が時々隠れる。
車はどのへんを進んでいるのだろう。
地謡を聞きながら、車の有りどころをたしかめる。
011kousirokudou

017douyane

六波羅蜜寺を過ぎるとき「観音も同座あり」と
その方角に向かって手を合わせ、
すぐさしかかる六道の辻では
あの世への冥い入り口がここにあるかと、
母の病いを思わずにはいられない湯谷である。
だから、車から降りて清水寺の内陣に入ったときに、
長い祈りをせずにはおれないのだ。
026toumonsora

歩むときも、見渡すときも、どの所作もゆるゆるとしている。
扇はかろくまるで重さがないように持たれている。
左右をする手もかざし扇も、その位置は低い。

この日は存分に友枝さんの手が見える、
しかし手がそれだけで目立つことはない。
揺るぎない安定があってそのうえで、
こころをあらわす手の表情がある。

宗盛が「湯谷はどこか」を声をあげる。
重たい心をなだめて宴に花を添えるべく舞いすすむ。
桜の中にたつ姿が、「亡霊」のときとは違う。
病んだ母を持つ「湯谷」という生きた女である。
045butaisitakara

しぐれと、ひとふきの風が、桜の間を抜けてくる。
006midorito

はらりと散る花びらを扇に受けて、
舞い止めて跪いた湯谷は凝然とする。
花は「散る」ものだということを、今知ったかのように
まじまじと見つめる。
そのままで、左の袂から短冊を出す。
同時に右手は扇を畳み、それは一瞬の間に筆になる。
穂先を整えて短冊の上から下へまっすぐの線を書く。

一首の歌が詠まれ、大臣に奉られる。

「いかにせん都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん」

こめられた思いに感じ入った宗盛は
ようようにして湯谷に暇を出す。
聞いて喜ぶ湯谷は、真っ先に観音の御利益を思った。
すっと両手がお堂の方角に合わされる。
入念に主に礼を取り、それでも心変わりをおそれて、
そのままの姿に旅立つ湯谷である。
041ikenitirikomu

橋がかりに入ったときはすでに都を離れ、
逢坂山を越えようとしている。
越えきって、湖の輝きがみえだしたとき
ようやく湯谷は振り返る。
おりしも空に雁の群れが北をさして行くのが見える。
振り返って都の方をゆっくりと見る湯谷、
しみじみと越えてきた逢坂山の山容を眺めやる。
みやこで過ごした日々を思いめぐらしているように。
そしてゆっくりと向き直り

遠い山々にはまだ桜が残っている中を
母の元に帰る旅を続ける。

きょうのお囃子はすてきだった。
シテのこころの動きに合わせて、笛も鼓も調子を変える。
こころ急かれるときにはお囃子は激しく鳴り、
憂いを帯びて佇めば、ゆっくりしたかけ声と優しい音色がある。

終わって会場を出ると、観る前よりも開いた桜があった。
満ち足りて、帰る道すがら、
パンフレットに書かれた言葉に目が留まる。
「舞台の桜が足りませんでしたら…」とご挨拶にあったが、
いいえ、風に揺れる清水の桜を堪能いたしました。

公演に合わせるように咲いた東京の桜に送られて帰る。

「第12回 友枝昭世の会」平成18年4月1日
  於国立能楽堂 開演午後3:30
狂言「見物左衛門」深草祭   野村 万作

能 「湯谷」
  シテ 友枝 昭世 シテツレ 長島 茂 
  ワキ 森 常好 ワキツレ 舘田 善博
  笛 一噌 仙幸 小鼓 成田 達志 大鼓 柿原 崇志
地頭 粟谷 菊生 後見 塩津 哲生 友枝 雄人

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年3月 | トップページ | 2006年5月 »