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2006.05.22

江戸に誘惑されて

今年の春は雨が多く、
すっきり晴れたのはゴールデンウィークくらいだった。
出かける前にはお天気を調べるが、
それでも不安で、傘を持ち歩くクセがついた。

知人から誘いがあり、
本日(十八日)は神戸まで「江戸の誘惑」展を見に出かけた。
これ、新聞で見たよな、と思ったら、
家でとっているA新聞が共催だった。
ついたのは昼過ぎ、入場券売り場に列ができていてびっくりした。
客は中高年が圧倒的で、やっぱり女性のほうが多い。

この神戸市立博物館は四階建てで、各フロアはそれほど広くない。
展示は上から下に階を下りつつみるようになっている。
まだ足が大丈夫だからよいが、
段差が高いので高齢者にはちょっとつらかろう。

「肉筆浮世絵」というものがあるのは知っていた。
だが、版画の作者がちょいちょいと描いたのだろう、などと
無責任な想像をしていたので、
それほど乗り気なわけではなかった。
知人が、「ボストン美術館の、ビゲローコレクションて
ゆうんやて」と知らせてくれて、思い出した。

かなり以前、NHKでビゲローコレクションの
「仏像」の紹介をみたことがある。
ビゲロー氏のこともその中で語られていた。
とても日本が好きで、雲水の修行もしたという。
いちずな彼の生き方を見て、
「こんなによその国に心を捧げたひともいるのだな」
と思った。
ボストン美術館の「日本館」はテレビでみてさえ
すばらしく美しく、行ってみたくなった。

話を戻して今回の「浮世絵」のこと。
どの絵も、色あいがあざやかだった。
江戸時代のものだから褪色していないのは当然としても、
保存もよかったのだろうな。

浮世絵(版画)の展覧会には行ったことがある。
展示の数が多すぎて、疲れてしまった記憶がある。
それはかなり前のことで、作者も少数しか知らなかった時だ。
このごろは「ひらがな日本美術史」のおかげで
名前を知っている画家が増えた。

違いまでしっかり見分けられたのは、ゆっくり並んで
一番前で見たからでもあった。
美人画なら、髪型や立ち方が、はっきりちがう。
同じような題材で、構図が似ていても、
眉や目も違う。
顔を思い切り近づけて見ていたので、見終えるまでに
けっこう時間はかかった。

中で興味を惹かれたのは「見立て絵」である。
「石橋」「江口」「松風村雨」など
お能を素材にして、「美人」が描かれている。

たとえば「石橋」なら
すこぶるの美人が獅子に乗っている。
まわりに咲いているのは牡丹の花だ。
獅子と牡丹、これで「石橋」と見る人にちゃんとわかるのだ。

(「唐獅子牡丹」は「石橋」から取られた模様だとは、
まったく気がつかなかった。知っていたのは“東映任侠映画”の
主題歌、だということだけ)


まっすぐに、ばしっと目に飛び込んできた絵の作者は
葛飾北斎。
勢いのある筆の線は一度みたら忘れられないものがある。
なんとはなしにおかしみのある絵も含めて、
どれも、勢いがすごい。
浮世絵の版画で見たときはそれほどどうってことなかった。
教科書に出ている有名人の「絵」って
意外にしっかり観ないもんだ。
知っていると思いこんでしまうからだろう。

この絵たちとははじめてであう。
「幟」に描かれた鍾馗さま。
大きな旗だから絵も大きい。
「わあい」と声をあげて駆け寄りたくなるような
楽しさがある。とくに目つきが、いい。
同じ目を龍も、唐獅子も、猪も持っている。
目が登場しない一枚は
滝の前に立っている男の絵。
丸太が並んでいるような滝と、
背中に赤ん坊を背負っている男のまるっこい体型、
笠もまんまる。
現代のイラストだと言われても納得しそう。

そのほかに、
すらっとした肢体がさわやかな豊国描く美人たち、
ぽってりと魅力的な女は歌麿、
いかにも莫連ぽい英泉の年増芸妓

やや時代を遡って、鈴木春信、鳥居清長などなど。

いいものをたくさんみた帰り道は、
気持ちのとげが収まって、
まるくほこほこと幸せだった。
せっかくの神戸だから、と南京町に寄って、
ここでも列に並んで二十分、名物の肉まんにありつく。

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2006.05.17

高野詣で

乗り放題チケットの最後の一枚
せっかくだから、うんと遠いとこ、と
高野山に行くことにした。
時は五月三日、連休の初日である。

小学生のとき、毎夏、「りんかん学校」と「りんかい学校」が
あった。
海はたいてい丹後半島(天橋立)、山は高野山。
いまから思うと贅沢な場所に行っていたものだ。
ただ、私はひどくバス酔いしたので、
「りんかん」には参加たことがない。

ついこの間、書写山に登り、すんなり行けたので
高野山の大きさと遠さを甘く見積もってしまっていた。

朝七時に家を出て、着いたのが十二時前。
南海電車に乗り換えてからがひたすら長い。

人出はすごく多く、電車もケーブルも満員だった。
トレッキングスタイルや、カメラ片手の人、親子連れ。
電車だけが混んでいるのかと思ったら何の何の、
高野山の「繁華街」は車がいっぱいだった。
001syoubousyo


003matinamijuutai

駅からバスで二十数分、終点から歩いてお大師さんの御廟へ
参るのが事前に聞いていたお薦めのコースだが
歩くだけの体力も時間も不足。
といあえず喫茶店に入って休憩した。
山の上だというのに、そこは都会で
消防署も郵便局も、銀行なんぞ二軒もある。

ここに来るまで、山の間をぎこぎこはあはあと
音を立てて登る電車からは、
山と山の間にあるこぶりな集落しか、見えなかったし。
ケーブルを登った所のバスプールも広くてちょっと
驚いたが山内の車の渋滞にはもっとびっくりした。

京都に住んでいるからお寺は見慣れている。
だが、ここのスケールは想像を超えた。
並んでいる宿坊のひとつひとつが、立派に観光寺院なみの
立派さである。
門からのぞいてみると、綺麗に行き届いた前庭が見える。

バス路線の分岐点“千寿院前”で下りて、
大通りをほんの数十歩で金剛峯寺の前に出る。
向い側は大駐車場。
着く車と出て行く車、繁華街なみの混雑と空気の悪さ。
ここって「お寺の境内だよなあ」、と
なんとも落ち着かない気分で地図を見る。
ここから五分の距離に、塔や金堂、御影堂がある。
写真も撮りたいので、そちらに向かう。

舗装された道は車が多いので避けて
土の道を行く。
じゃりじゃりと音がして、埃が舞い上がる。
人は相変わらず多い。
008daikaidou

金堂では「結縁灌頂」が行われてい、行列ができている。
並ぶと時間がかかりそうなので内部の拝観はあきらめた。
写真を撮ろうと思っても、
どこもひとだかりだらけ。

それに、建物が全部おおづくりで、
ひとつひとつは立派なのだが、
どーん、と建っているだけ、な感じがする。

お堂の数は多く、きちんと教義に則って建っている。
上空からみたなら、その配置は星座のように
美しい均衡を保っているのだろうが、
その中に入り込んでしまっているから、
まるで、巨人の国にきたこびとのような気がする。
016soutati


017kyoukura

それでもお堂をみっつよっつ撮り、
色鮮やかな(朱塗りで瓦屋根と白壁が華やかだ)大塔を見、
急いで金剛峯寺に引き返す。
ここは人の“住まい”という感じがして落ち着く。
028kongoubuji

豊臣秀次切腹の間がある。
この広大な敷地の、そしてまた立派に広いこの寺の
なんと狭い一部屋で切腹したもんだ、と
へんな感心の仕方をする。
032isiniwa

枯山水のお庭があったが、
やはりなんとなく大味だ。
石も大きく庭も広いが、置いただけ、というと
失礼だが、細やかさが足りないのだ。

ただこういう部分も
天から巨大な仏さまがごらんになればさぞや
小さくて可愛いものであろう、と思われる。
わたしが気に入ったのは
、二代目の御廟(静かな場所にあった)と
台所だった。
いまでも使われているから、釜も鍋も生き生きしている。
035daidokoro

帰りもラッシュではからだが保たないので、
急ぎ下界に下りることにする。
さいわい電車は座れたので、景色をながめる余裕が出た。
山を抜ければまた山で、その山裾が少しだけひろがったところに
「橋本」の集落がある。
離合待ちの間に写真を撮ってみたが
どれが高野の山にあたるのかわからなかった。
外からは見ることができない不可思議なまちだ。
040yamasoraooi

河内長野までくるとここは「大都会」。
ここで近鉄電車に乗り換える。

これはおまけ。
生駒の麓を西から東へ走る路線が、
当麻寺を通ることに気がついたのだ。
わたしが見たかったのは、二上山と夕日である。

ちょうど、その麓をぐるりと回るころに日が山に迫り、
念願の光景に逢えた。
この山を墓所とする大津の皇子は、
多分お大師さんよりわたしには近しい。

帰ってから、なんだか申し訳ない気がして
図書館で、本を借りてみた。
行く前に読んだほうがよかったようだ。
「空海」と「最澄」を借りる。
仏教用語がたくさんでてきてたいへん難しい。


本の半分以上はむにゃむにゃとよみとばしてしまったが、
司馬遼太郎の「空海の風景」は
仏教用語を使わずに、エッセイ風に書いてあるので
抵抗無なく読めた。

ひょっとして前に読んだかな、と奥付をみると
三十年前に初版が発行されている。
そのころ私は彼のファンだったから、この本も読んだようだ。

長い月日の後でこうしてであえるというのは
嬉しいことだ。
そのときは目的などなかったから、
すぐに忘れてしまったのだ。
この年になって、自分の目でみたいものがどんどん増え、
「本に引かれて…お参り」するのもまた一興。

小説の中の、したたかな空海像は、あまりわたしの気に入らなかった。
身びいきかも知れないが(比叡山は馴染みだもの)
最澄のほうが、世渡り下手なところが
“人間的”だと思えたからだ。

しかし、都から遠く離れたところに、
特大サイズのお堂たちを、それも民間の喜捨によって、
建立したところに彼の意地のようなものを感じる。
004higasitou

「話の通じるひとが居ないのは淋しい」と、
司馬さんが書いたのは、あるいは彼自身のことを
投影していたのかもしれないけど。
誰からも掣肘されない山の中、
この寺々こそが彼の心休まる場所だったような、
いまはそんな気がしている。

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2006.05.16

花雨~熊野

今春三回目の「熊野」を観た。
大槻能楽堂に行くのも久しぶりである。
席を確保しているので、ゆったりした気分で出かけた。
それほど重くなく、長くない曲なので楽だ。

あらすじは前に書いたので省略する。
今回は観世流なので、喜多流との違いも面白かった。
故郷、池田の宿から手紙を届けに来るツレの朝顔、
喜多流では手紙を渡すとすぐ帰ってしまう。
016sakurataihaku

だが観世流では、ずっと舞台に居る。
宗盛に暇をもらおうと、駆けつける熊野に付き添っているし、
花見車で清水寺に向かうときも、車の傍らを歩んでいる。

そして
故郷に帰る熊野とともに逢坂山を越えてゆく。
二年前にも観世清和さんのシテでこの曲を観た。
そのおりの朝顔は上野雄三さん。
気品があって美しい立ち姿は、
このかたがシテかしら、と一瞬おもったほどだった。
006kiyama

この度の朝顔は武富康之さんで、
小柄で子供っぽい感じがした。
はるばるの旅は大変だったろうな。

シテは梅若六郎さんで
つい先日、新作能「紅天女」をみたばかり。
装束は申し分なく豪華である。
色紙を貼り混ぜたようにみえる唐織が
玉虫色に輝いている。模様は花や木々である。
どっしりと重たげだ。
018sakuraitokukuri

「読み継ぎの段」と小書きが付くと
母から来た文を宗盛と熊野、ふたりで読む。
しっとりと聞かせるのなら、ひとりのほうが雰囲気が出ると思う。

熊野が暇を願出たときに
宗盛がしばらくためらうのは、
彼がじかに文を見たからかもしれない。

ともあれ花見車が呼び出され、
一行は街をゆく。
人々が歩いているのを、熊野はしみじみと見渡す。
六波羅蜜寺の前や、経書堂を通るとき、
じっと見つめるその視線に心がこもる。

六郎さんの謡いはまことに美しい。
さらさらとしているのだけれど
しっとりと聞かせる場面では
染み入るような声と節が胸を打つ。

お堂で手を合わせる熊野を朝顔が急かしにくる。
立ちあがりかたがきっぱりしていて
気持ちを切り替えようとしているのがよくわかる。

舞人たちの頭として堂々と桜の下で
酒を勧め歌の音頭を取る。

宗盛の舞の所望に扇を構える熊野は
先ほどの願いと悲嘆を忘れたようにさえみえるほど美々しい。
舞こそは熊野のすべて、彼女の誇りなのであろう。
021siroyorunogotoku

ゆるゆると花の盛りを言祝ぎ舞う熊野に
一陣の風とともに時雨がうちつけ、一瞬
花びらの嵐が彼女をつつむ。
その風は、熊野の心に、病む母の哀しみを改めて思い起こさせる。
うつろいやすい花の季節、
弱っている母のつらさはいかばかりか、
咲く花があれば散る花がある、と。

それを一首の歌に詠めるだけの
かしこさを熊野は持っている。
母への思いの溢れた歌を短冊に書く。

彼女の気持ちがわからない宗盛でもなかった。
さっきまでの執着が嘘のように、あっさりと暇が出る。
福王さんの宗盛は人情の機微を知る彼の像に合っている。
022tirisomesidare

館に帰れば、わかれの愁嘆もあるだろうし
長としてなさねばならぬこともあろう。
一切を捨てて故郷へ急ごうと
熊野はその場からただちに旅立つ。

あるいは宗盛は熊野に暇を出しやすいように、
花見に誘ったのかもしれない。

みやこを離れてゆく熊野は
ふるさとに帰れるうれしさで輝いている。
いそいそと逢坂の関を越え、
雁にも心寄せて見守る熊野の肩に名残りの桜が散る。

母をねんごろに弔った後
熊野は池田の宿で、平家の没落を聞きつつ
ひっそりと暮らす。
鎌倉に送られる重衡の、
一夜を慰めるために千手の前を差し向けたのは
熊野だったにちがいない。
仕えた主の弟の君の哀しい最後は予感しつつも、
せめてものひとときを送ったのは、
母の最後に間に合った熊野のちいさな恩返しだったのかも。

010botan

とこんな風にあれこれ思いながら帰った。

六郎さんの舞は相変わらず華麗だったけれど、
欲を言えばもう少し、全体に引き締まっててほしかった。
舞台のバランスって実に微妙だ。

お囃子は、大好きな大阪の笛方、赤井さんの
優しい音色がシテにまつわって風情が増したし、
大鼓はベテランの山本孝さんで
かけ声の気合いがやっぱりすごかった。

ここは照明が暗めで、花見車の中に居る熊野の
面が沈んでしまったのが残念。
私の席から見える角度がそうだったのか。
026naranoogawa

五月はもう一度お能の予定がある。
月に二度くらいがわたしの体調にはちょうど良いみたいだ。

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2006.05.06

本ときどき

本を読むにも波がある。
今回、ゴールデンウィーク用に借りた本たちは
どれもなかなかだった。
季節の変わり目は、体調が定まらないし
それでなくとも、最近、目が不調で、
長時間活字を追うのは、つらい。
活字「中毒」になってからずいぶん長い長い。
たばこはやめられたが、字を読むのはやめられそうにない。

☆ハヤカワミステリ「あなたに不利な証拠として」
    ローリー・リン・ドラモンド
アメリカの女性警官を描いた短編集

映画と同様、外国文学も、読み込むのに苦労するが
この本は短編だから、
わりとはやく読み終わることができた。
どのお話も少しづつ関連しており、
鮮やかすぎる結末ではないのが好感が持てる。

映画や本でしかわたしはアメリカを知らない。

そのアメリカと日本の関係を軽やかに書いた

☆街場のアメリカ論
  内田 樹

内田さんは最近になって出会ったひとで、
難しいことばを使わずに、
いまあることがらたちがさらっと解読されている。
押しつけてくる熱っぽさがないのが
おしゃれ。
ブログで書かれたことや、講義などが
本にまとめられているが
横書きのブログより、縦書きの書籍のほうが
頭に入りやすいので、図書館で予約した。
人気が高いこの本、三ヶ月待ちだった。

第二章 ジャンクで何か問題でも?…ファーストフード
第八章 アメリカン・ボディ…
      アメリカ人の身体と性

が特に印象的だった。
視点がちょっと斜めなのも、世代的なものか。
(彼は1950年生まれ)

ブログはその時々のニュースへのコメントや
趣味についての言及がまたたいそう面白い。

☆終末のフール、 魔王
  伊坂 幸太郎

「死神の精度」に続けて2冊読んだ。
どれもすらすら読めて「面白」かった。
共通テーマは“終末”のようだ。

ジャンルとしてはSFに入るのだろうか。
どこかひやりとした読後感である。
三十代だから若い。
歴史の話をしたらとても合わないだろうな。
(私が出会ったことがらは彼にとってはすでに歴史だから)

終末のフール、はあと三年で「小惑星が落ちてくる」
という設定。
限られた時間の中で人はどうふるまうか。
あるマンションの住人“たち”を取り上げた連作短編。
最後にほのぼのとした景色ができあがる。

いっぽう
「魔王」は憲法改正、アメリカ離れ、ファシズム、といった
“硬い”題材を使っての近未来もの。
かなり怖い書き方である。
とても興味深く読んだが、
ひとりのカリスマが権力を握る未来が
この国ではあり、だろうかな、とちょっと疑問。

退屈な小さな事実の積み重ねの結果、
現れてくる現実および近未来のほうが、怖いと思う。
(ただ、過程は生々しくリアルに描かれている)

第二次大戦の後、
世界は資本主義国と共産主義国に分かれた。
もう今となっては遠い過去の話と思われているが

☆文盲
  アゴタ・クリストフ

歴史に必ず出てくるはず、ソビエト連邦の指導者
スターリン圧制下に起こったハンガリー動乱。
(わたしでさえ、その時は子供だったから、
ただ「言葉」として知っていただけの)

その混乱の中、「国」を捨て、言葉も通じない異国で暮らし
新たに「言語」を手に入れて
書き続けた作家の自伝物語だ。

ページ数も少ないし、一時間あれば充分読める。

難しくも気取ってもいない。

だからといって軽くはない。

際だって「面白」いわけではないが
この小説は、重い。
淡々として重いこの本を解題する鍵は
“年表を頭の中でめくること”
内田さんの本にもあった。
このとき、他の場所で何が起こっていたか、を
知っているのと知らないのでは、受けとめ方が違う
という内容のことが。

何もかも、「済んだこと」にしてしまわない
安易に流れないつよさがこの本にはある。

番外
☆平安京散策
  角田 文衛
昔(主に平安時代)の建物は、どのあたりに在ったか、を
詳細に解き明かした「京都」本。

歴史と地理、両方の好奇心が満足させられる。
いまは、むかしをしのぶよすがは、ほとんど残っては
いないけれど、
京都の町なかの表示(○○通り○入下がる、または上がる)
といにしえの邸宅の場所を重ね合わせるだけでも
時間のたつのを忘れて楽しめた。

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