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2006.09.26

「噂の男」…悪意の迷路を抜けたその先

まったくほのぼのしない劇だった。
ここまで悪意が連鎖するお話も珍しい。
その裏には愛情が貼りついているのかも知れないけど。

出演者はたった七人。
お気に入りの「新感線」の大舞台とは打って変わった
こじんまりさだ。
シアタードラマシティのS席、を思い切って取ったけれど
人気が高くて後ろから四列目で
オペラグラスなしでは辛い席だ。
「すぐ後ろはA席やろなあ」と
不平をつぶやきながら席につく。

七人だけど、主に五人とあと二人、というバランスだ。
その五人が全員すごい。
(わたしのお目当ては橋本じゅんさんである)

「噂の男」
作:福島三郎 演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ

 鈴木光明(支配人・マネージャー) 堺 雅人
 モッシャン(漫才コンビ、パンストキッチンのツッコミ
だったが、相棒をなくして今は酒浸り)
                  橋本 じゅん
 加藤信夫(ボイラーの点検にやって来た技師)
                  八嶋 智人
 ボンちゃん(売り出し中のピン芸人)山内 圭哉
 アキラ(パンストキッチンのボケでモッシャンの
相方。十二年前に他界)       橋本 さとし
 
 骨なしポテト(トシ&アヤメ=中堅夫婦漫才師)
                  猪岐 英人
                  水野 顕子
 ☆ 大阪公演 シアタードラマシティにて
  2006年9月7日~10日

まず、「トリビアの泉」でおなじみの八嶋くん。
直球一本勝負、か。
テレビと変わらぬはっきりしたしゃべりで運動量抜群だ。

山内さん、若くていい顔なのに変に
大阪弁が達者でそのずれが面白い。

橋本さとしさんは長身でかっこいい。
劇中の年代的は平成初期で、ちょうどそのころの
お笑いタレント風だ。
関西風の二枚目さん。

堺さんの不気味なにこやかさがすごい。
支配人のとき(現在)のこてこてオールバックが
実にぴったり似合っている。
わりと後ろ向いてるシーンが多く、
幅の狭い背中が気色わるい。
キスシーンがあってびっくりしたが
そんな役も納得してしまう雰囲気がある。
標準語を使うのは彼だけで、
このメンバーの中では変わった感じがする。

そしてやっぱりじゅんさん(橋本じゅん)は可愛くて
かっこいい。(とわたしは思う)
人気があるときの彼はあんまり目立たなくて
普通の“にいちゃん”に見えるのだけれど、
とても素直に見えるのだけれど。

十三年の月日が経ち、酒浸りになった結果、
支離滅裂な台詞をしゃべってうつろな目になるときと
突然、正気に戻るときの切り替わりがすごい。
ぼろい服きて背中やお腹をぼりぼりかきむしりつつ
山内さんと掛けあいをする。
のったりとしたテンポで、ずれた会話が続く。
それがほのぼのと笑いを誘うのだけれど。

劇は“W橋本”の漫才の場面から始まるが、
中川家の台本をしゃべって
漫才師にしっかり見える、笑いも出る、
すごいことだ。
漫才が、これまた聞き物だった。
役者さんってすごい。
中川家の台本だそうで、そう思ってきいていると
あのふたりのやりとりを思わせる。
じゅんさんはボケをやると思っていたので
ちょっと驚き。
さとしさんは売れてきた芸人のクサミが出ていて
中年になりかけの腹回り含めてとてもかっこよかった。

登場人物があと二人。
昔は若いからちょっと人気があったが、
いまは売れない夫婦漫才師の二人である。
出ずっぱりではないのだが、
彼らが登場するたびに、五人の悪意がそれぞれに加速される。
触媒によって化学反応のスピードが増すように。

最初からずっと伏線が何本も張られていて、
昔と今との繋がりが次第に明らかになってくる。
まるで不等式のように、AはBに強く、BはCに強い。
という風な力関係がぐるぐると絡まる。
いつも勝ち組に居るのが、さとしさんで、
やられっぱなしなのが夫婦漫才のふたり。

この夫婦は共犯の関係で結ばれている。
妻のほうは、自分をかばってくれた夫といるのに
満足できないで、しぶしぶ結婚したものの、
くすぶる欲求不満が、日常的な不倫につながっている。
なんか線が一本キレたような舌ったらずなしゃべりかたで
それでいて抜け目なく頭は回転している。
クリスティに出てくる人物みたいだ。

焦点のひとであるアキラは
モッシャンとのコンビを解消して、
もっと売れたいと願っている。
そのために、自分を「愛」しているマネージャーに
モッシャンの性格の悪さを吹き込むのだ。

マネージャーがかわいがっているハムスターを
こっそりといじめるアキラ。
それを見つけるポテトの女の子
オペラグラスで見たら、板の上をちょろちょろと
ゴールデンハムスター(ノーマル)が歩いていた。
本物だからその後の惨殺シーンが引き立って怖い。

なのに、死んで幽霊になったアキラはモッシャンを
許そうとするのだ。
自分を見ることができるマネージャーに、
「何も気にしてへん」と伝えてくれと言っても、
彼はずっとモッシャンを恨んでいるので、
違うことしか言わない。
この幽霊は死ぬ前に人間にも見える。
殴られて血まみれになった加藤にも見えるのだ。

だが彼も、モッシャンに恨みがある。
父の悶死の原因は彼だと信じているからだ。
アキラの言葉は宙ぶらりんのまま拡散する。


せりふで進行する劇なので歌もダンスもない。
劇中の時間は、十二年前と現在を行ったり来たり
するけれど、やりとりをちゃんと聞いていれば
ついていけるので楽。
舞台は転換しないが
照明の色あいで、昔と今を区別する。
幽霊のアキラは声にエコーがかかったりして
十二年前と現在の違いを出している。

このボイラー室のの古び方がとてもいい。
そこここにおいてあるがらくたや
崩れそうな階段やドア。
オペラグラスで丁寧に見ていくと
年代的にはつい最近の設定なのに、
おどろおどろしいくらいの古さに感じてしまう。

舞台左手にボイラー室、
ここは何かが起こる薄気味悪い場所でまるで異次元だ。
右手にある「奈落」は、
モッシャンが隠れていた所で、
暗くて誰からも隠れていられる場所である。
階段の上にある物置。
何が出てくるかわからない恐ろしい場所。
酔っぱらってろれつも怪しいモッシャンが
しゃべる度に出てくるのは死体(ないしは死にかけ)

外へでるのはスイングドア。
そこから出て行った人物はまた
ここに戻ってくる。
奥の階段を上がると舞台の袖。時々どっと客が笑うのが聞こえる。
出番が来て舞台に出、また下りてくる。
この二カ所だけが、「無事」な出口である。

その他のは、異次元であり、この世の地獄であり、
死体置き場なのだ。
この「舞台空間」はちょうど
世界と世界と繋ぐ通路のような役割をしている。

相関図を頭の中で書いてみないと
ついていけないくらい、登場人物の関係や感情は
錯綜している。
よさそうな人の中にある「イヤ」な部分。
組み合わせを替えて
場面ごとにクローズアップされる。

ほとんど関西言葉で語られるせりふは
私もそうだから、分かりすぎるくらいによくわかる。
悪態にも、親愛感の含まれているものと
そうでないものがあることも。
マネージャーのつらさは、同性愛だけではなく
言葉の重さの違いからもきているようだ。
テンポは速く過剰なタメもなく
雪崩れるように最後へ走り、突然に終わる。

この悪意の連鎖の中で、
ただひとり、自分の思ったことを
ためらいもなく実行したひとがいる。
それがモッシャンだ。
目的のためにはまったく手段を選ばず、
コンビ解消を止めさせようと、相手の男を殴り、
昔の「パンストキッチン」の悪口を言った、というだけで
老ボイラー技師を殺し(彼は話の中で登場するだけだが)

ボイラー技師に犯行を知られていることがわかったら
直ちに殴り殺し、
やっと事態を把握したボンちゃんの頭を酒瓶で割り、
ひとり、体は無事だったが、鈴木は発狂する。

彼がしたいようにした結果が
この大量の「死」を生んだのである。
素直にからりと犯行を語る彼は、
ほんとうに酒のために惚けていたのだろうか。

最後にひとり漫才を続けるモッシャンが
とても、こわい。

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2006.09.24

「紙屋悦子の青春」…あの時代を知る人からのバトン

舞台劇を映画化した作品だ、と聞き
また黒木和雄監督の遺作、という点にも興味を惹かれて
またまた“むつかし映画”上映館に足を運ぶ。

黒木さんの名前だけは知っていて、
映画はまだみていなかった。
重い題材が多かったし、若いころATG系で上映された
映画は、とっつきにくかったので
「つまらなかったらやだな」と思ったからである。

戦後はすでに六十一年、
戦争を経験したひとたちは年老い、
教科書でしか知らない若い人が増え、
わたしの子供時代には当たり前だったことが、
どんどん変化してゆく中で、
戦前に生まれた人が描く“戦争”を
みておきたかった。

主役のふたり、原田知世、永瀬正敏、ふたりとも
老夫婦の役のときは若すぎ、
昭和二十年当時のときは老けすぎている。
カメラがアップになると、
メークの下から若さが浮いてくる。

病院の屋上でじっと入り日を見つめる男とその妻の
映像から映画は始まる。

ふたりが使う言葉は鹿児島弁。
この映画は最後まで、
地言葉(方言)でできていて、
それが音楽のようにきこえてくるとき、
話の中にすっぽり入れたことがわかる。

セットはやや作り物めいている。
たとえば、この家の春を飾る桜の木。
花がほころびはじめる日からこの映画は始まり、
爛漫の盛りの夜に、ひとつの恋が終わる。
幹が太くてまっすぐで、
老いた桜木のようにはみえない。
また家の前は土手になっていて、
行き来するひとは突然来て、帰るときは瞬間に、
見送る人の視界から消える。
この不自然な起伏、はまるで舞台だ。

そして「家」
あの時代の家に何があって、どんな暮らしぶりだったかが
次々と映し出されるときに
激しい懐かしさで満たされる。
私は戦後生まれだから、少し時代が
ずれているのにかかわらず、だ。
丸いちゃぶ台、柱時計。
蠅帳に箒に紺絣。
その時代を生きた人が撮る映像は
ものたちが、このためにつくられて
少し綺麗すぎていても
はっきりと呼吸している日常を見せてくれる。

私の子供時代には、
まだここに描かれている暮らしの半分ほどは残っていた。
祖母の記憶とともに存在している。
配給、という言葉と通い帳はあったが
もんぺは誰もはいていなかった。
絣の小切れはたくさんあった。

もとは小劇場で演じられたドラマだとかで
主な登場人物はたった五人。

主人公…紙屋悦子・原田知世(つつましい) 
その兄…紙屋安忠・小林薫(うまい)
その妻…紙屋ふさ・本上まなみ(きれい)
永与少尉…永瀨正敏
明石少尉…松岡俊介

しみじみ見ると原田知世はその秀でた額といい
こまやかな雰囲気といい実に古風でいい感じだ。
髪を真ん中で分けて束ねているのが
昔の女学生のようだ。

彼女の両親は、ついこの間の「東京大空襲」で
なくなったのだ、という。
思い出話に、つい顔がほころぶこともあるが、
食事をしながら淡々と会話は進む。
いまはこの兄だけが、彼女の唯一の肉親なのだ。

兄は技術者だから、徴用に取られる。
妻は悦子と同い年で同級生
兄嫁というよりむしろ仲の良い友達どうしだ。
時には、義姉として、ちょっと大人ぶったりもする。
この役を演じる本上まなみの、うなじから肩の線が
プリマの立ち姿のように美しい。
さりげなくひっつめた髪も豊かだし
声が華やかで、明るい。
彼女の存在が、地味な兄妹のさびしい気分を
和らげているようだ。

悦子と見合いし、結婚する永与少尉(永瀨)は
真面目で野暮ったいところが好感が持てる。
悦子の思い人は明石少尉のほうなのだが、
戦争も終わりに近づいたこの頃、
航空隊の彼は「特攻」に行かねばならない。

その運命を知って、彼は事務方の永与に悦子を託す。
たった一通の手紙だけを残して、
明石は出撃して還らなかった。
残された二人は結ばれて、長い月日がたったいま
「自分が生き残った意味は何だろう」と永与はつぶやく。
彼に残された時間は、あと僅かなのだ。
あの戦争を体験したひとたちはそれぞれに
自分のドラマを持っているはず。

いまは穏やかに凪いでいる海のようでも、
突然荒々しくうねることがある。
悦子と永与を結ぶ風景は、
音を立てて砕ける波の音だ。
初めてであった昔にも聞こえ、
いのちの黄昏の病院の屋上でも、
ふたりはそれぞれ、うねって砕ける
波の音をきいている。肩を寄せ合ってただ黙って。


ある時代を生きたひとたちが去っていくと
消えてしまう数々のことがらがある。
ものすごい勢いで「進歩」し続ける時代の
表面には現れない流れが、
だんだん細くなって行く気がする。

子供にときはたくさんの「あの」戦争の話を
みたりきいたりした。
ラジオでは「引き揚げ者」の名前を毎日放送していたし、
戦災孤児のドラマがヒットした。
そもそもわたしたちが、「○○の世代」と言われるほどに
たくさん産まれたのは、
戦争がおわったからなのだ。

パンフレットで、悦子と永与が縁側に並んで腰掛けている。
とても幸せそうに見える。
過ぎたことはみな美しく見えるのかも知れない。

巻末にシナリオが載っている。
「愛国」という言葉を最近はよくみかける。
気持ちがざらついたら、それを読み、
主人公たちがしたように目を閉じて、「波の音」を
聞きたい。

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2006.09.19

「ゆれる」

観たのはしばらく前だが、「間宮兄弟」と同じ映画館。
今度も“兄弟”ものである。
主演はオダギリジョー、今売れている。
ストーリーはさておき、
彼をみるだけでもいいか、と思って出かける。

兄役に、香川照之。
かれもまた、大好きな俳優さんで、
にかっと笑った顔がとてもすてきである。
わたしに言わせれば、「充分二枚目」な人だ。

兄(香川)はエキセントリックな父に従順に
家業のガソリンスタンドを継ぎ
脱力したような“しけた”地方都市で黙々と働いている。

弟(オダジョ)は東京に出て、若手写真家として
活動している。
髪を赤くメッシュに染めて革ジャン着て、
絵に描いたような芸術家スタイルである。

兄はいつもいつも「いい人」として、
鈍くさえ見える顔を、くしゃくしゃにして笑う。
父と弟の間をつなごうとする。
長い間、その役割を続けてきたので、
何か父や弟に言いたくてもそれを口には出さない。
あんまり頭をさげすぎたので、
感情が摩滅しちゃったんじゃないか、と思うくらいに。

弟は母の法事(それともお葬式だったか)に
いやいや帰ってきた。
兄が知らせてきたからだ。
彼が顔をみせたとたんに父親の顔がこわばり
雰囲気は険悪になる。
仲裁する兄のズボンに父が投げたとっくりの酒が
したたってしみになる。
カメラはそのしみを克明に映す。

交際相手も限られるこの小さな町で
一緒に働く店員の女性に寄せる兄の恋は
真剣なものだった。

しかし彼女が、帰ってきた弟の姿を見た瞬間、
「この町から出たい」という思いが
はっきりと現実のものとなり始める。
彼女は昔、弟と付き合っていたからだ。

彼に誘われてすぐに応じる彼女。
兄の心寄せを知りながら、昔の女を抱く弟。

深夜、帰った彼がふと見ると
襖が少し開いていて
兄がせっせと洗濯物を畳んでいる後ろ姿があった。
声をかけようかどうしようかとしばらく迷う弟に
くるりと振り返った兄が言葉をかける。

まるで昔話のように怖い場面だ。
「彼女はお酒が強いから困ったろ」という問いに
つい、「そうなんだ」と同意してしまう弟。
その瞬間、すべてを兄は知ったのだ。
この場面は怖くて少しかなしい。

つぎに印象的なのは、
次の日に三人が出かける近郊の吊り橋。
流れはけっこう速い。
昨日の出会いで、気持ちがこの町から離れた女は
兄に冷たくつれない。
そんな彼女をうっとうしいとおもう弟は彼女にすげない。
ささいな行き違いから女は兄をひどく罵り
かっとなった兄は女を突き飛ばす。
すぐに元の「いい人」に戻って、手を差しのべたのに、
女は後ずさって、朽ちた吊り橋のすきまから転落する。

ひとり離れてカメラを構える弟の向こうに
一直線に吊り橋がみえる。
美しい構図なのだが実は、
橋は朽ちていて、ひとりだけしか橋の上には居られない。
二人が乗ってしまったから、
橋はどちらか一人を落とさねばならなかった。
繋ぐものとしての橋の上で起こった事故は
黙ってひとの関係を繋ぎ、
繕い続けていた兄の心を激しく乱す。

支離滅裂になった兄の言動を支えきれず、
自分の背信を知っていた兄に対する恐怖もあって、
弟はぎりぎりのところで証言を翻す。
その結果兄は罪に問われる。

弟は逃げたのだ。
自分が信じられなくなって。
そして昔から決して動かないものとしてあった兄の像が
面会に行くたびに崩れてしまったことに
耐えられなくて。

「家」を支えることを拒否して都会になじんだ彼は
今はそれなりに安定して成功した写真家になっている。
もう髪は染めてはいない。
あれから七年経ったのだ。

兄が出獄することを聞いても、
かたくなに、かかわりたくないと言う。


過去をまとってあの町からやってきた青年は
働き手の兄がいなくなった後、
父のスタンドを支えてくれていた。
その間に結婚して、穏やかに生きていた。

断った後に、ふと思い出すこども時代の記憶の数々。
思いこみであの日の記憶を曲げていたのだと気づいて、
彼は車を飛ばす…しかし兄はもう出所した後だった。

必死で走りまわる車の窓越しにバス停が見える。
その手前に、
昔と少しも変わらない兄が歩いている。
やってくるバスの行き先は遠い「都会」だ。

彼は大声で兄を呼ぶ。
兄は顔を上げ、ゆるやかに微笑する。
その笑顔をやってきたバスが隠す。

映画はそこで終わっている。
監督がノベライズ本を出していたので立ち読みしてみたが
やっぱりさいごはそこで終わっていた。

さて、とわたしはおもう。
兄弟は抱き合って再出発したのだろうか。
それとも、と。
わたしは、兄はバスに乗るのだろうと思った。
行ってみたかった都会に出て、
弟だけが知っていたことを自分も体験したあとで
「自分」を待っている田舎に帰り、
父の世話をし、家業のガソリンスタンドを継ぎ
(噂ははじめは喧しいかもしれないけれど)
それから、訪ねてきた弟と
仕事のことをゆっくり聞いたり
思い出話をしたりするんじゃないか、と。

心底からの和解ができるまでには
やっぱり時間がかかるだろうし。

パンフレットを読んだら、
監督が若いので驚いた。
カメラがとらえるのが人間の関係である、という点に
若さを感じた。
わたしが四十代だったら、
この激しいドラマにもっと感動したろうと思う。

しかしいまは、風景のほうが好きだ。
吊り橋のシーンに惹かれるのは、
中心にあるのが風景だからだ。

川の流れと緑と橋と風と花、
いいようもなく美しいなかで起こる、
人間たちの食い違いが、ちっぽけで哀しい。
弟がカメラからみる光景は
この七年間で変わっただろうか。

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2006.09.10

虫の音ばかり残る野に「松虫」

「若手能」の主催は国立能楽堂なのだが、
チラシにはやや小さく「京都公演」の文字が。
会場は京都観世会館なのだ。

公演は二部に別れていて、
どちらも能が二番、狂言が一番演じられる。
チケットも安いのでとっつきやすい。

わたしが観たのは二部である。
出発まぎわにばたばたしたのがたたり、
着いたら「加茂」が始まっていた。

正面席はほぼ埋まっていたので、脇正面に回る。
最近は脇正面や中正面でお能を観ることが多い。
橋がかりに近いのも理由のひとつだが、
脇正面で観る舞は正面とは一味違って、
みていてあれこれ面白い発見があったりする。

などと言っているが、かなり早く行かないと
正面席には座れない。
雑事に追われてぎりぎりに飛び込むことが
増えているからなのだ。


「加茂」と書くのは金剛流、観世流では「賀茂」である。
以前みた舞台ではシテひとり、ワキひとりだった。
ところが今日は
若い女が二人も舞台に。
ワキも神職ひとりではなくて、二人の従者が居並んでいて
まことに華々しい。

ワキ方は関東のかたたちだそうだ。
神職(ワキ)の御厨さんがちょっと変わったよく響く声だった。
やや小柄で、うつむき加減のつつましい感じのシテ、
対照的にどっしりしたシテツレ、それぞれに
水桶(あか桶)を持ってワキの問いに答える。

前場がさらさらとおわる。
アイ狂言の松本さんが面をかけて、末社の神で登場。
剽げた舞ぶりも上品で、さすが「都の神さん」は粋である。


後場になり、杉さんのりょうりょうと響く笛にのって
まず天女が登場してゆるやかに舞う。

シテの雷神はその後、素速く出てきてささっと舞って
あっというまに終わるのだったな、と
観ながら思い出していた。

おや、この雷神さん、なんと可愛らしいこと。
赤頭で目もかっと見開いた面なのに、
ちょっと恥ずかしそうな感じがする。

ダダン、と踏まれる拍子の音はかっきり聞こえていて
型もしっかりしているのに、
雰囲気がとっても初々しい。

次の狂言が始まるとやや見所が減る。
お能の会ではいつものことだけれど、
茂山茂さんと千三郎さんで演じられた「飛越」。
これは観ないではもったいない。

ふたりとも実に声がよくとおる。
声の大きいのは茂山家の特色だが
そのおかげでお話がはっきりとわかる。

千三郎さんが、やや控えめなものごしで
シテの新発意を「たてて」いる感じなのがよかった。
二人が相手をなじりあう掛けあいの部分では、
茂さんが「足を怪我した檀家(千三郎さん演じるアド)」
の真似をして
びっこをひきながらはやしたてる。
それがくどくも嫌みにもならないのがさすが。
子供っぽいやりとりの末、ついには「相撲」で
決着をつけようとするところまで、
笑わせながらきっちり見せる。

くすくす、もけらけらもありだが、げらげら、はない。
負けて倒れた千三郎さんは、先に「勝ったぞ」と
勝手に走って帰った茂さんの意気揚々さと比べ
「やるまいぞ」の追い込みも
ゆったりした間でほどがよかった。
みんな一斉に拍手する。

休憩の後、二番目の能「松虫」
地味な内容だと聞いていたので、
市の酒屋にシテ他三人のツレが登場したところで
「おや、けっこう派手」と思う。
シテだけ笠をかぶっているが、後の三人は
薄水色の水衣に熨斗目の装束
背丈が皆さんほぼ同じくらい。
立ったり座ったりされるときの
所作が揃って決まっていてきびきびしている。

酒屋の小林さん(ワキ)は、市の人というよりも
料理屋の主のような貫禄だ。
声が微妙に震えるのは、お師匠譲りの節回しだろうか。
高らかに若者たちを呼び止めて
酒を勧める声が堂々としてらした。

シテの声はまっすぐで若々しい。
ひた面でもあり、
最初はとても亡霊とはみえないのだが、
「死ぬときは一緒に」と誓い合った友人の
突然の死を語るころから
かもし出す感じが
少しづつ静かにひっそりしはじめる。

おもむろに笠を被り、面を隠してそのまま
虫の音すだく野原の草の陰に消える。

  これは阿倍野の原での物語だそうだが、
  むかしはいちめんの野だったようだ。
  いまの繁華ぶりからは思いもつかないが。

アイの里人が朗々とことの次第を告げて去ると、
舞台には夕闇がおりて
市人は、はるかに野をみはるかして
はかなくなった男の回向をする。

  後シテ、面は阿波男。
  黒頭に納戸色の法被(金の模様)
  半切は萌黄地に金で笹に露芝。
  胸元から僅かにのぞく下の衣は茶系。
  袖がかえると袖裏は赤紫である。 
  白の水衣を羽織っているので、法被の模様は
  切れ切れにしか見えない。


ぱっと見ると、黒髪に白の衣で、とても地味にみえる。

昔を懐かしんでワキと語り合い、
だんだんに友を偲ぶ心が高まって、
ついには月光のもと、
ただ、松虫の音を探しながら、舞う姿がうつくしい。

決して派手な舞でもなく、装束でもない。
しかし、軽やかでいてしっとりと
ほのかな風情が漂うが、未練がましさは微塵もない。
安定した拍子に支えられた無心の舞。
まさに「魄霊」のはかなくもうつくしい舞だった。

舞が終わるとお話は一気に終わりに近づく。
「きりはたり、ちょう」とう虫の音の謡。
おおきく手を広げて「ちょう」と打つ型が面白い。
秋の夜が明けそめたときあたりは
茫々とした野原に
わずかに虫の音がかすかに、ひびくばかりだった。

終わって拍手が始まるまで一瞬、間があった。
ほう、というため息が聞こえてきそうな間だった。
舞に吸い込まれて我を忘れる楽しさは
お能ならではのものである。
ゆっくりしっかり拍手がおきて、
お囃子方が橋がかりを帰られるときに
私も一生懸命手をたたいた。

※松虫のシテは我が師匠です。

第十六回若手能 京都公演
  平成十八年九月二日(土)
    京都観世会館
『第二部』午後三時開演
【能】加茂 (金剛流)
前シテ 里女・後シテ 別雷の神:豊嶋晃嗣
前ツレ 里女:嶋崎暢久 後ツレ 御祖の神:宇高徳成
ワキ 室の明神の神職:御厨誠吾
ワキツレ 従者:芳賀俊嗣、梅村昌功

アイ 加茂の末社の神・松本 薫

笛:杉 信太郎 小鼓:森 貴史
大鼓:井林久登 太鼓:加藤洋輝
後見:金剛永謹、豊嶋幸洋、松野恭謙
地頭:宇高通成 
【狂言】飛越
シテ 新発意:茂山 茂 アド 檀家:茂山千三郎
後見:松本 薫

【能】松虫
前シテ 男・後シテ 男の亡霊:深野貴彦
ツレ 男:松野浩行・河村和晃・田茂井廣道
ワキ 市人:小林 努 アイ 里人:茂山童司

笛:竹市 学 小鼓:吉坂一郎 大鼓:石井保彦
後見:浦田保浩、片山伸吾 地頭:吉浪壽晃

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