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2006.12.31

「室温」…月の裏側を読むような

戯曲を読むのは久しぶり。
第三舞台の鴻上さん以来だ。
「謡」も“戯曲”と言えなくもないが
劇のシナリオとはちょっと違う。


芝居を見に行って彼の作品を“読みたい”と思った。
「噂の男」を演出した、
ケラリーノ・サンドロヴィッチがその人である。

「室温」(夜の音楽)を図書館で借りる。

主人と客のごく普通の会話から話は始まる。
五人の主要人物たちは身もともはっきりしていて
なんの不審な点もみつからない。

とぼけたやりとりの間に来客がある。
この家族の秘密が少しづつ明らかになっていく。

【登場人物】
海老沢十三(作家・心霊相談もしている)
間宮(その娘サオリの恋人)
キオリ(サオリの姉)
下平(警官)
赤井(海老沢のファン)
木村(タクシーの運転手)

少年、老人、ヴァーニャ。

少年たちに監禁されて殺された娘を持つ父親、と聞けば
「被害者」だと思うのが普通だが、
海老沢は怪しげな心霊相談所を開いて高い金をぼったくっている。
ガンで余命がいくばくもないことが途中でわかる。
そして 亡くなった娘のサオリを犯しつづけていたことも。

娘のキオリは父にひそかに薬を飲ませている。
彼女は父を恨んでいるのだ。
男達とつきあって金を巻き上げ、
心を病んだ母の治療のために使っている。

間宮は、サオリの恋人でありながら、同時に彼女を
虐待、監禁、焼き殺した犯人グループのひとりだ。

警官の下平はキオリが目当てでこの家に
入り浸っている。
へらへらしているが実は
目下捜査中の「連続少年殺人事件」の犯人である。

まともそうな木村、偶然に飛び込んできた彼は
窃盗犯である。
ちゃちだがトリックスター役だ。

このお話にはサブストーリーがある。
死んでしまった少年は、
はるかな空からドラマを見下ろしている。
あとふたりの死者、老人とヴァーニャさん、
彼らの話はみんな哀しい。
ただ見ることしかできない彼らにひきかえ
主人公「たち」の自我の強烈さがあぶりだされる。


そしてこのドラマは
キオリに憑依したサオリと間宮が
愛を確かめ合った瞬間に、
炎に巻かれるシーンで幕を閉じる。

すべてが 焼き尽くされる。
跡形もなく、浄化もされず。
救いのないように見えるのだけれど
私はこの劇が大好きだ。
「噂の男」と同じように。

字だけだから動きは見えない。
しかしセリフのひとつづつに
後になってわかる意味が含まれていて
ジグソーパズルのピースのように、ぴたりぴたりと
はまって絵ができあがっていく。
その過程が何とも言えず心地よい。

題材や人物描写は残酷で冷たいし、
ひとりを追いかけてゆく展開でもない。
笑っているうちにふと背筋が凍るようなセリフもある。
赤井(実はサオリを殺した少年達の主犯の姉)が
「どんなにあなたが間違っていても
わたしはあなたの味方だから」というとき。

間違っていて自分勝手なこの言葉に胸を突かれる。
同じような愛が「噂の男」にもあったから。


その「噂の男」のDVDが来た。
表情がはっきり見えて、劇場でみたときより
樂に見られる。
一度みたからでもあり、
テレビだと、距離が遠いからでもある。
この劇も主に絡まる人物は五人だ。
それに絡まるふたり、「骨なしポテト」の
二人組の存在感を大きく感じた。

収録が東京での公演のせいか
関西弁が微妙に共通語っぽい。
アップになると
じゅんさんが遠目より若く見える。

小さな悪さしかできないアキラのしょうもなさや、
ボンちゃんが一番善人らしいとか、
支配人のじっとりした目つきがよくわかるなど、
舞台のときは見逃していた部分が
はっきりと像を結ぶ。

だからといって受けた印象が変わることはない。
よくこなれた五人のせりふの受け渡しは
息つく暇もないし、
「室温」と同じように後半、一気に話が走り出すと
それにつれて痛いような気分になるのもまったく同じだ。

見終えて浮かぶ疑問も。
なぜアキラの霊ははモッシャンの味方をするんだろ、
とか。
私の答えもかわりなく
アキラはモッシャンが自分を思っているのを
よくわかっていたから、
自分が手を下さずに
(つまり彼との関係を壊さずに)
コンビを解消しようと思ったんだろう。

支配人の思慕をはねのけるのも、
かれが「正直」なためである。
でもそういう正直って何になるのだろう。

もうひとりまっ正直なひとがいる。
モッシャンこそは、どこをとっても気持はひたすら
アキラと居ることにかかっている。
だから人を殺しもした。
アキラに死なれた後の彼はまったくのうつろ、
奈落の底の暮らしがぴったりだ。

アキラのためだけを思って行われる殺人の数々、
純粋な輝くようなその心は反面とてもおそろしい。
劇の終わりに舞台に残っているのは、
正気ではないモッシャンだけだ。
彼の心はアキラでいっぱいだから、

輝いていた時を「止めよう」と
してはいけなかったのだ。無理なことをすると
そこから悪いものがうまれるから。
この舞台での関係は網の目よりもっと細かく、
そこから逃れることのできるものはいない。。
原因と結果が、めぐりめぐって、
感情が蒸気みたいに噴き出して、
そして結末へなだれ込む。

DVDには特典がついていて、
役者さん全員のインタビューがある。
どの人も楽しそうに話すのだが、
涙ぐんでいたのがふたりの橋本さんたちだ。
さとしさんは、先輩のじゅんさんと芝居ができるのが
とっても楽しそうだ。
じゅんさんも嬉しくてたまらないようだ。

みんながよいチームだったと口々に語る。
それを見ているだけで、
そんな舞台の時間を共有できて
ほんとうによかったと思う。

いつか、
KERAさんが演出する他の劇も見てみたい。

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2006.12.28

「硫黄島からの手紙」

冒頭、空からの硫黄島が映り
スリバチ山の全容が見える。
カメラが近づいたときに見えたのは
この島で戦死した人たちの記念碑だ。
山の見え方は前作の「父親たちの星条旗」と同じである。

この映画で「目」の役をするのは、
元はパン屋の西郷という兵士だ。
彼が出会ったできごとが次々と映し出され、
書き続ける手紙が読まれる。
もうひとり、司令官の栗林少将、
彼も家族にたくさんの手紙を書き送っていた。


栗林の下で指揮を執る対照的な二人。
国粋主義の伊藤中尉と
バロン西と呼ばれた西竹一。
彼はオリンピックの金メダリストだった。

援軍をもとめる栗林に下った
大本営の命令は
「島の死守、援軍は無い」という苛酷なものだった。

アメリカに留学した経験のある、栗林と西は、
戦いは圧倒的に不利だと知っていた。
それなのに、配下の将校たちは、
陸軍派と海軍派に分かれて主導権を争い、
司令官を軽視するものも多かった。

硫黄の噴出により草木は少なく南の島なので暑い。
暮らすには困難なこの島を
大本営は本気で守るつもりはなかったのだろう。
制海権を握った米軍は、
空爆ののち、大艦隊で攻撃してきた。

たくさんの戦艦から次々と吐き出される米軍兵士たち。
この場面は前作でもあったが、
日本軍の側から見ていると
それは自分の生の終わりを告げる光景だった。
熱狂的に「天皇陛下万歳」を唱える士官や兵。
開明的な栗林でさえ、「万歳」を叫ぶことに変わりはない。
ただ、人間的に兵士に接しようとするところが違う。
西郷はいじめにあっている時に彼に助けられる。


西郷たちの居場所の近くに
清水という新兵が内地からやって来た。
彼は「憲兵」だったと知って、
スパイとして送り込まれたのではないかと
みんなは疑った。
隊の兵士がどんどん死んでゆき
生き残った西郷と清水は、やっとお互いの身の上を知る。
脱走計画をたて、
先に脱走した清水は、「首尾よく」捕虜となるが
米軍兵士のちょっとした気分(面倒だから)で
撃ち殺されてしまう。


ついに弾丸も無くなり、兵力は分断され、
「死に急ぐなかれ」という栗林の命令も届かずに、
次々に無駄な突撃が行われる。
生き残りを集めて最後の戦闘を指揮する栗林は
兵士たちの先頭にたって
「天皇陛下万歳」を三唱したのち斬り込む。
アメリカに留学し、かの国の力を知り、友人も持ち、
記念に拳銃さえ贈られた彼にして、
「家族を守る」ため、と自分に言い聞かせて
死におもむくのだ。

しかし彼は一方では、
死を選ぶことの愚かさも知っていた。
西郷に書類の処分を任せたことは、
戦闘に参加しなくてすめば、
彼には生き延びる機会があると
考えたのではないだろうか。
結果として、西郷が壕の地面に埋めた手紙の束は、
希望のない戦いをしいられた彼らの心のうちを
私たちに伝えてくれた。

もうひとりの典型
死ぬことを恐れないと豪語し、
栗林に反感を持つ「皇軍兵士」。
彼、伊藤中尉は戦車に飛び込むために
体に爆弾を巻き付けて、ひとり機会を待つ。
死体のふりをして何日か後、
戦車は通らずかれの緊張は一挙にほどける。
肉体は無意識に生きることを選び
隠れていた壕でアメリカ軍に発見される。
彼と西郷との距離は大きい。

戦うことに疑問をもっていた西郷と
戦うことを目的にしていた伊藤、

正反対のふたりが生き残るという事実。
自国のみが正義ではなく、
相手の軍隊の兵士たちも、
人の子であり親である、という
まったく当たり前のことが、
すなおに描かれている。

朝鮮戦争を体験した、
イーストウッド監督だからこそ描けるのだろう。

アメリカ軍にも日本軍にも、平等に降ってくる死、
どの画面も死体だらけだ。
前線の兵士が一番先に使い捨てられる現実は、惨い。
印象にの凝った場面は、
手榴弾で自決する兵士たちの光景である。

手榴弾のピンを口にくわえて抜く寸前の
何とも言えぬ彼らの表情、
次の瞬間、爆音とともに彼らははじけ飛び
後には肉片が散らばるだけだ。
「戦死」とはこういうことも含むのか。
画面を眺めながら、慄えそうになった。


「父親たちの星条旗」と共通しているのは
戦いをみつめている視線だ。
淡々とくっきりと事実が描かれ
積み重なって、伝わってくるものがある。
「戦とはなんと空しいことか」


これらを過去のことを思ってはいけない。
多くの言葉を費やされる
メッセージやスローガンより、
感動は、静かだが深く残った。
なんとすばらしい「アメリカ映画」だろうか。

【配役】
栗林忠道中将…渡辺 謙
西郷…二宮 和也
バロン西…伊原 剛志
伊藤中尉…中村 獅童
花子…裕木 奈江

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2006.12.26

「ロープ」…野田さんのベトナム

野田さんの舞台は今までに
一度だけ観に行ったことがある。

今でもはっきり覚えているが。
題名は「半神」
原作がわたしの好きな萩尾望都さんだったので
期待してでかけたっけ。
それが、セリフが速すぎて聞き取れず
「よくわからない」ままに劇は終了。
残念な思いだけが残った。
それが七年前のことだ。

この一年、橋本じゅんさんの芝居をみ続けてきた。
東京公演しかない「ロープ」に
行くかどうかとても迷った。

野田さんの芝居と自分の相性ってどうなのだろう。
そこのところも興味があるな、と思ったときに
決心がついた。
会場のシアターコクーンは、
観世能楽堂よりは渋谷の駅から近い。


地図で確かめながら歩く。
うるさいし人は多いし、道はうろ覚えだったが、
なんとか文化村に到着する。
まずコクーンの位置を確かめ、
それから座って待てるスペースを探す。

建物の真ん中に吹き抜けがあって
いまはX'masシーズンだから、どの店もしつらえが
緑と赤で統一されている。
当日券を買う人の列が長く続いている。

まわりの銀杏並木が葉を落としていて道がいちめんに黄色だ。


2時に開演。

野田さんのテンポが落ち着いたのか、
私が芝居に慣れたのか、ちゃんと台詞が聞こえる。
「ロープ」とは、プロレスのリングのことだと
ネットの記事で読んでいた。


舞台にはドアが二つ
リングがやや下手側に、
その下には人が隠れるのに充分な高さがある。
お能の作り物に似た、
エンピツ型の小屋がその手前にある。

登場人物は、弱小プロレス団と、
試合を撮影に来た弱小ケーブルテレビ局員に分かれる。

その間に“入国管理ボランティア”(ボラ)氏がおり、
さらに、自分は「コロボックル族」と名乗る謎の女性が
リングの下に住んでいる。

プロレス団跡継ぎの若いレスラー、ヘラクレス・ノブナガが
藤原竜也くん。
ヒール役(グレイト・今川)が宇梶さん。
(織田信長と今川義元のパロディ)

ひきこもりのノブナガくん。
レフェリーのサラマンドラ。
もうひとりのレスラー、カメレオン。
プロレス団はこの三人。

対して
ディレクターD氏が野田さんでその奥さんが渡辺さん。
AD役が三宅さん。
この三人はいつも一緒に行動する。

さて、コロボックルと自称する少女「タマシイ」
(とても野田さんらしい命名)は、
たったひとりで暮らしている、らしい。


お話は軽妙に始まる。
ノブナガとタマシイは出会うけれど
会話は行き違ったりとんちんかんになったりする。

タマシイに隠し撮りの現場を見つけられた、
テレビチームは、自分たちも「コロボックル」だと
嘘をついて、彼女に隠しマイクをつけさせ
試合を実況させる。

グレイト.今川が重傷を負うという
残酷な結果になった試合だったが
その実況の視聴率が「好評だった」と
チームとレフェリーは知らされる。
どちらも「ユダヤ人社長」から。

次の試合は、“社長”の指令に従って、
今川は「覆面」を被って、顔を隠すて登場する。
(そうすればみんなに愛される、と思いこまされて)
顔が無いことはこわいことだ。
マスクをつけた一団がリングにあがるだけで不気味である。

ノブナガとカメレオンがジャージを脱ぐと
その下から迷彩服があらわれる。
さらに怖さの度合いが増す。
はっきりと戦いを予想したから。

タッグマッチはエスカレートして
ついに銃が登場する。
知らない内にひとりがこっそり弾丸をこめ、
違うひとりが引きがねを引く。

そのあたりから、リングの上には鉄条網が下りてき
ヘリのエンジン音が、会場を揺るがす。
見えない敵と戦う恐怖。
戦いをやめようと呼びかけ合うが
頭を出すと的になる。
ついに、ノブナガもカメレオンも、
マシンガンを乱射しつつ絶叫する。
「やられる前にやれ」
「ベトコンを皆殺しにしろ」と。
(そこはもう、ベトナムで、戦うふたりは
米軍のコマンドだ)

わらわらと、舞台に走り出てくる人々は
アオザイを着ている。
彼らは「名前」を持ったひとたちだ。
タマシイは実況する。
「ミライ村」(ソンミ村)の虐殺を。
4時間でこの世から消えた村のことを。

次々に繰り出される言葉は確かに
プロレスの実況風だが、内容は聞いているのが辛い。
人間の仕業とはおもえないほどの残酷さ、

それをしているのが、
ふだんは気の良い男のカメレオンだというのがかなしい。
(じゅんさんは迫真の演技、どう感じればいいのかとまどう)

目がくらんで殺し続けるカメレオンにくらべ、
ノブナガはすこしづつ醒めてゆく。

彼は戦場から離れ(リングから降りて)
そこで、ベトナム人の若い母(宮沢りえの二役)と出会う。

この劇の中で一番美しく哀しい場面。


二人の言葉は通じていないのだけれど
その掛け合いは
お能のシテとワキのように音楽的だ。
声の響きと見交わす目と目。

産み落とした赤児を託す手から力が抜ける。
命が喪われてゆくときに女(タマシイの母)は
花がしおれるようにくずおれた。

一瞬茫然とした青年だが、
託されたものを胸にかかえて、旅に出た。
故郷には帰らずに。

その青年がタマシイの父だと、
入国管理官のボラは言う。

はたしてそんな兵士がいたのか、
タマシイは本当に存在したのか。


再び舞台が明るくなる。
みんな憑きものが落ちたように屈託がない。
チームは視聴率を見誤っていた、と
もとの和気藹々な雰囲気に戻って次の対象を探しにゆく。

サラマンドラとカメレオンは
「ユダヤ人社長」の紹介で、
新しいプロレス団に参加するために、
荷物を抱えて旅に出る。
「最後までやり通した褒美だよ」とサラマンドラは
得意そうに言う。それでいいのか、本当に、と
わたしは心の中で思う。


無人の舞台にノブナガはひとり立っている。
かれは「タマシイの思い」を抱いて旅立つ。
いままでと違った生活へ。

最後にリングの下に差し入れられた食器は
ノブナガが去ってのち、
静かに舞台上に返される。
受け取ったよという合図。
わたしはここにいると言う印。


みごとな、反戦メッセージである。

ただ、くっきりと戦争の悪を示すシーンよりもわたしは
日常にひそんでいるもののほうが怖かった。

(視聴率のためなら何をしてもよい、とか
自分の考えを持たずに他人に預けてしまう“善人”とか)


そんなふうに思うのはわたしが
ベトナム戦争当時、すでに大人だったからだろう。
毎日のようにテレビや新聞でそれを見聞きしていた。
あの日々を思い出すのはつらい。

時代の空気を伝えるのは難しい。
終わって長い時間がたってはじめて
語られることも、わかってくることもある。

毎日、何気なく単調にみえる暮らしを続けていけることが、
とても大切だということを、
あらためて確かめた舞台だった。
もう少し、穏やかなものいいのほうがよかったかなとは思うが。

若いひとたちには、はっきりと「言葉」で
伝えることが必要になっているのかもしれない。
いま このとき。

【キャスト】
タマシイ ・        宮沢 りえ
ヘラクレス・ノブナガ  藤原 竜也
JHNDDT          渡辺 えり子
カメレオン         橋本 じゅん
グレイト・今川       宇梶 剛士
AD              三宅 弘城
入国管理局ボラ      松村 武
明美姫           明星 真由美
レスラー北         明樂 哲典
レスラー南         AKIRA
D              野田 秀樹

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2006.12.08

「父親たちの星条旗」

イーストウッド監督のインタビューを見て、
第二部「硫黄島からの手紙」の前売り券を買った。
そしたら、
やっぱり第一部も見ないとな、と思って
平日の人少なな時間をねらって見に行った。
観客の年齢層は、先日の「椿山課長の七日間」と
同じくらい高い。
千円デイならもっと若い人も見るのだろうが。


色調が地味でほとんどモノクロに近い。
特に「硫黄島」での情景は、
惨たらしい場面を緩和するためにか
赤の色は暗い。


空から撮られた硫黄島の全景が
何度も何度も繰り返し映る。
スリバチ山はまるで恐竜の目のようだ。

スポットライトに浮かび上がるような主人公はいない。
兵士の日常のなかから
ごく普通の三人の兵隊が、取り上げられるそのさりげなさ。
上官の軍曹はいいひとで
命が助かる確率の高い、後方勤務の昇進を断って、
「約束」だからと兵たちと一緒に上陸する。
彼の年齢が二十歳代半ば。
兵たちはもっと若い。
十八、九の若者たちが、上陸用舟艇から、わらわらと
走り出し来る。

それに続いて、日本軍が彼らをねらい打ちにする
シーンが、長く続く。
島の内部に巡らされているトンネル。
木の根もと、草の陰から兵隊をねらう銃口。
あっというまに波打ち際は死体で埋め尽くされて。
艦砲射撃も空からの爆撃も効果がない。


「衛生兵」と闇の中から声がする。
彼は、穴の中でそれを聞く
すぐに走っていって、負傷した兵を看取ってやらねばならない。
だから親友を置いて声のするほうへ走った。
負傷兵は助からず、
帰ったとき穴の中には見知らぬ兵が居た。
親友はどこへ行ったのだろう。
彼は後々まで後悔する。

なぜかは後でわかる。
それまでは見ている私たちにも何が起こったのかわからない。
(※地中に掘られた日本軍の
トンネルの出口がその穴で
親友は地底に引きずり込まれ、拷問を受ける。
死に顔は映されない。それほどのひどさか、と)

三人とは
衛生兵のドク、インディアンのアイラ、
ちょっと気取りやのレニー。
三人がたまたま星条旗をあげなおしたときに、
(戦況が有利になったからではなく)
撮られた写真は、戦意高揚のための記事となり、
彼らは一気に英雄にまつりあげられた。

そして彼らはアメリカに召還され
戦費調達のための人寄せに使われることになった。
けばけばしいパレードや、旗を揚げる「実演」、
締めくくりに「国債を買ってください」と彼ら“英雄”が
お願いする筋書きだ。

波に乗ろうとするレニーと
酒浸りになるアイラと。
ちらちらとかいま見える「先住民」に対する差別。
ドクは黙々と、自分の務めを果たす。
「衛生兵」と呼ぶ声にしばしば脅かされながら。

島とアメリカ本土をドラマはいったりきたりする。
物資の豊富さで、アメリカ軍ははるかに勝っている。
あるときひとりが地下で起こった鈍い音を聞く。
それは生き残っていた日本兵が、自決した
手榴弾の爆発音だった。
血まみれのその壕の中がさっと一瞬映される。
そしてあっさり、
言い残すこともなく死んでいく兵士達。

“猿芝居”が終わって作られた英雄たちは忘れ去られる。

レニーは清掃人として(彼は学歴が無かったので)
一生を終わった。
有名人の名刺をためてあったが、
何の役にも立たなかった。
アイラは、故郷の居留地を離れて、
たったひとり行き倒れて亡くなる。

ドクだけは、映画のはじめの部分で
自分が語った夢のとおり、「葬儀会社」を経営し、
成功者として一生を終わった。

しかし彼は生前、
島で起こったことだけでなく
戦争に関する一切のことを
妻にも子にも話さなかったという。

ただひとこと、ドクが息子に語るエピソードがある。

「泳いでもいい」と許可が出て、
分隊は全員海に入ってぱちゃぱちゃとはしゃぐのだ。
みんなわかくて上官でさえ二十歳半ば、
戦闘の合間に、
まるで故郷の川に居るように
みんな楽しげに遊ぶのだ。
いそいそと靴を脱ぎ靴下を取り去って。


彼らのほとんどはそこで死んだ。


ドクの死後、残された遺品から息子ははじめて
父が、「英雄」だったことを知った。
戦友たちに話を聞き歩き、一冊の本にまとめた。

その本はベストセラーになり、
映画の権利をスピルバーグが取り、
クリント・イーストウッドが監督したのがこれである。

戦争を知り、分かることのできる最後の世代の彼は、
これを「感動的なお話」にせずに
ドキュメンタリーのように淡々と描いた。

くりかえし硫黄島は空から映される。

波打ち際に白い波
スリバチ山はこんもりと、
かって星条旗が翻った地点に、
今は記念碑があり、
一束の認識票が
吹きすぎる風にカラカラと鳴っている。

こころに残るのはその音と、
「衛生兵」と闇からたすけをもとめる声と。

終了後、
予告編で「硫黄島からの手紙」が数分。
こんどは、この島を要塞と変え
「5日で落とせると思った米軍を
1ヶ月の余も釘付けにした」
日本軍の物語である。

こちらは日本の俳優さんたちだから
どの人も顔を知っている。
イーストウッド監督が
どのようにもうひとつの「島」の
ものがたりを物語るのだろう。

今年中に見にゆきたい。

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2006.12.07

図書館と本屋さん

本を置くスペースが無いので
最近はたいてい図書館を利用している。
インターネット予約の制度ができ、
新しい本が回ってくるのはたいそうありがたいが、
図書館に行っても
新刊が棚にあることは非常に少ない。

「読みたい」本を読むには、この予約システムは
有り難いのだが、
ずらりと並んだ本を端から手に取り、
装幀や活字の大きさを確かめる喜びは、ない。

ちょうど、電子辞書と書籍の辞書の違いと同じだ。


小説に気持ちが動かない時期があって、
しばらくやさしい「経済」本を読んでいた。
書いてあるこれからの日本経済の予想は、
明るいものではなかったけれど、
お金の流れや、景気の変動についての
“現実的”な話を読んでいると、
同じことがらに対してまったく違った見方が
あるのだな、と妙に安心した。


この二、三回は、若い作家の本を集中的に借りた。

山崎ナオコーラ「浮世でランチ」
荻原浩 「押入のちよ」
朱川湊人「水銀虫」

そして戯曲だが、ケラリーノ・サンドロヴィッチ
    「カフカズ・ディック」「室温」
これについては、芝居「噂の男」との関連で
感想はまた今度。

ナオコーラさんは、うちで取っている新聞にコラムを
連載している。
毎週一回のそれで、少しづつ文体に慣れ、
彼女のものの見方の優しさを楽しめるようになった。

ここに書かれている、リアルタイムの「いま」の
感覚は、もう私にはわからないものだが、
活字になればかろうじて、
頭のどこかの受容体は活きているらしくて、
さらっと楽しく読めた。

荻原さんの短編集は、書評が好評だったので
かなりの予約待ち。
時期を置いて借りた。
確かに、面白いし
内容も年齢を問わない。
できのばらつきも少ない。

しかし、よく出来すぎていてそこが
私には物足りない。
きちっとツボに嵌ってはくるが、
以前に読んだあれこれを乗り越えて、
記憶がとどまることがすくない。

「あの日にドライブ」もそうだったし、
「明日の記憶」も同じだった。

その中で、リストラに遭った青年と、
ぶさいくな少女の幽霊、「ちよ」との
ほっこりした付き合いぶりを描いた「押入のちよ」は
ひとあじ違って面白かった。
少し過去の歴史の味付けがふりかけてあるのも
よく効いている。

朱川湊人の本は、棚にあったもう一冊も借りた。
題名は「わくらば日記」。
特殊な能力を持った病気の少女の物語。
彼女がその超能力(千里)で、
次々と謎を解いていくものである。
登場人物が、そのままドラマにできそうな
しあがりで、まだシリーズとして続くようだ。

「水銀虫」はかなりSFっぽく、
人の悪意をじわっと描き出す趣向になっている。
そのにじみ出しかたと表現のテンポが
わたしの好みと微妙に合わない。


最後は「買った」本。
「グレート・ギャツビー」村上春樹訳。

むかし、映画「華麗なるギャツビー」というのがあって、
主演がロバート・レッドフォードだった。(1974年)
映画は見そびれてしまったが、原作を読もうと
したが、数ページで断念した因縁の作品である。
何回か挑戦してみたが、読み終えることができなかった。

それが、春樹さんの訳だと、
すらすらとつっかえずに読めた。
語り手ニックと同化した訳者の視点は
何十年も待って熟成したもので
かすかな苦みが混じっている。
若いときにであい、
読みこんで自分の中にとりこんだ本。
春樹さん固有の文体を薄めて
作り上げた、愛情深い本である。

フィッツジェラルドは若くしてこの本を書いたが
若い時に春樹さんがこれを訳したなら、
きっとこの、やわらかでかなしげで
すみずみまで精緻な光景や人物を
表現することはできなかったのでは、と思う。

「六十歳」
それは、過去を余裕を持って
振り返ることができる年齢であり、
起こったものごとをかみしめることも出来る年齢である。
若さの意味がはっきり分かり、
「愛情」について
めちゃくちゃな思いこみもしないし
自分で自分の位置を修正することもなんとか可能。

そうなってはじめて、1920年代の話を
いまの言葉になおして
訳することができるのだろう。


好きな本としてあとふたつ、
春樹さんはあげている。
「カラマーゾフの兄弟」と「長いお別れ」
ドフトエフスキーはともかく、チャンドラーの
翻訳はとても読みたい。

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神も願いのあるゆえに…「三輪」

今年最後の友枝さんの公演は
大槻能楽堂自主公演
  70周年記念 特別公演「三輪」
去年もそうだったがきっちり満員だった。

都合で着くのが遅れてやっと仕舞に間に合う。
予定ではこの仕舞「雨月」は
粟谷菊生さんだったのだが。
先日、お亡くなりになったので
粟谷明生さんがなさる。

プログラムにはまだ菊生さんのお名前が載っていて
それがかなしかった。
しっとりした舞ぶりで、若さがある。
一番後ろで立ち見していたので
細かい部分がよくみえなくて残念だった。


堂々と立派な僧が登場して庵に入る。
毎日のように、樒を持ってお詣りに来る女が
何者なのか、と不審の言葉を述べる。

「今日、そのひとが現れたなら、
名を聞いてみなくては」と言う間に
橋がかりに女があらわれる。

みどりの「しきみ」と水晶の数珠を持ち
小柄で楚々としている。
装束は、銀と茶の段替わりで
地味な感じ。
面も静かで無表情にさえみえる。

女はしとやかに片膝をついて
僧に「寒い秋の夜になりました。
どうぞ衣を一枚、くださいませんでしょうか」
と頼む。
「たやすいことです」と僧は衣を与え
帰ろうとする女に、
「あなたはどちらのかたなのですか」と問いかける。

それにこたえて女は、
「お訪ねくださるなら、杉の木を目印にお越し下さい」と
謎めいた言葉を残して帰って行く。

歩みはいつものとおりの確かさと美しさだ。
脇正面から見ると面が顔になりきっているのが
よくわかる。
そしてこの日、
気がついたことがもうひとつあった。

女が片膝ついてワキに向かうときの
左足の上に体重を乗せていらっしゃらない。
立てた踵をおろしたときも、
わずかに体は浮いている。
それだから、背中はすっきりと伸び、
装束にたるみもでないのだとわかる。

「よく姿勢をごらんになれば
どうしてあんなにお綺麗なのかわかりますよ」
教えてくださったかたがおられた。
きっとこのことに違いない。


女が舞台の上の作り物の中に入ると、
アイ狂言が登場して、僧と長い問答に入る。


その間、装束替えに三人の後見は大忙しである。
そのようすが脇正面席なのでよく見える。
シテ本人は、作り物の幕の中だが
脱がれた装束がざざっと畳まれて、
引いて行かれるようす、
袴を広げたり、面の入っているらしい袋を
急いで持って来られたり、と
舞台の表で続いている語りよりも、
裏方のあれこれが面白く、
そちらをしょっちゅう見てしまう。

アイは退場するころに
無事装束替えも終了。
「杉のひと枝にかかる衣」、という思い入れで
僧の与えた衣が、ふわっと作り物の上部に懸けられる。


三輪の杜に来て、
それを見つけて不審に思う僧。
すると、
樹の中から声がする。
未だ姿は見えないが、ゆっくり伸びやかに
気持ちをうたいあげるのは、
「神」なのだ。

驚く僧の前に、神はやっと姿を見せる。
後見がするすると布を外すとそこには
金色の烏帽子をつけ、
白の衣に上の衣も白。
輝かしくも純な神が座っている。
玉結びの紐と袴は緋の色。
左の手は白い上の衣の端を軽くつまんでいる。

左右に入るときに、両手がすっと上がり、
ふうわりと袖が揺れる。
ゆっくりと地謡のほうを向いてひとあし、
脇正面に向きなおられると
すっと伸びた扇と微笑んだ面が目の前である。
天人のようにあどけなく
ふくよかな面である。

神楽のときは
天から、ひかりが降ってくるようだった。
ゆったりと眠くなるくらいの穏やかさで
舞は続く。

くるくると舞は急になり、
お囃子もどんどん早くなる。
笛も太鼓も鼓も、一斉にひびきわたる。

足拍子はたしかな音で、しっかりと
大地を踏みしめるおもむきがある。

わたしは一昨年、三輪神社のお祭りで
奉納能の「三輪」を見た。

その日の後シテ(神)の装束は今日とほぼ同じだった。
神とひとが出合い、
聖なる山の麓でお囃子は
空に散ってもなお明るかった、

能楽堂の中なのに、
友枝さんの神楽舞は
ひとびろと澄みきって
神に捧げる巫女の舞、
いや、神そのものがあらわれて
舞っているようだった。

舞うにつれて面の表情が変わる。
少女から、女のようにも、少年のようにも、
さまざまな顔になって神は遊ぶ。

神はひととであって楽しかったのだ。 

☆大槻能楽堂自主公演
  70周年記念 特別公演「三輪」
平成18年11月25日(土)
【能】 三輪~神遊
   シテ 友枝 昭世 ワキ 福王 茂十郎
   アイ 丸石 やすし

   笛  杉 市和  小鼓 成田 達志
  大鼓 白坂 信行 太鼓 前川 光長

  後見 高林白牛口二 中村 邦生
      佐々木 多門

  地頭 粟谷 能夫

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