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2007.08.14

岩洩る水の…「たまかづら」

前シテが橋がかりを歩む
若くて美しい女である。
白い水衣が清らかで、左手に水慣れ竿を持っている。
こんな山あいに、と驚くが
女は川舟に乗ってきたのだと言う。
小袖に散る花の模様は、ざっくりとおおぶりである。
水衣からこぼれるのは白と金の模様の下の衣。

長谷寺に詣でる僧は森さんである。
朗々と謡い上げる声は健在、さらに貫禄充分になられたようだ。
お囃子がすごい。
「笛吹童子」の一噌幸弘さん
亀井広忠さんはきりりと高い音を出して応える。
小鼓は年かさだが力強い曽和正博さん、
地元ではあまりお目にかからないので
熱心に耳を傾ける。
お囃子の音楽が織る編み目が太いので
逆に耳を加減して聴いていたくらいである

このセルリアン能楽堂は渋谷駅からすぐ、
一流ホテルの地下という恵まれた立地条件
残響が大きくてコンサートホールのようだ。
照明が明るめである。
わたしの座った席からは、面がへんにてかってみえる。
照明の関係なのか、よくわからないが
面の表情が見づらい場面があった。

前シテがすうっと見所をみわたす。
紅葉した初瀬の山々を眺める所作である。
この一瞬は、いつもどきりとするほどうつくしい。
声はつややかでやや強め。

水衣を着て川舟に乗っているのは
彼女が九州から早船でのぼってきたことと
関係しているのかもしれないと思った。
そのくだりは地謡がさらりと謡い過ぎる。


長谷寺は春は牡丹で有名である。
冬は寒さのきびしい山里、
だからこそ、観音の霊験はあらたであろう。

僧をお堂に導いて女は傍らで手を合わせる。
ゆるやかなに合掌する手、真摯な祈り
懐に挿した扇の紅が白い水衣に映える。
面から若々しさがこぼれんばかりだ。
切れ長の目の愛嬌のあることはたとえようもない。
「我が名は…」と僧に告げて女は帰っていく。
この女人の真の姿はいかばかり輝かしいかと
思いつつ背中を見送る。

里人の長めの語りが終わり
高野さんが狂言座に戻る。

少しうつむき加減で現れた後シテは
前シテよりいくぶん年かさな感じがする。
しっとりと落ち着いた顔立ち
面が変わったのだろうか、と思うほどの変化である。
着けている花模様の小袖、
前シテのときより、花はみっしりと咲き連なり
地色は穏やかな銀色にみえる。


「源氏物語」の中で、
玉かづらというひとは、とても理解しにくい女性だった。
母の夕顔は、はじめのほうに登場するので
よく名前もきき、一生懸命に読んでイメージも
膨らむのだが、その娘が本編に姿を現すのは
光源氏が中年になってからである。
少し興味が出たのは、田辺源氏を読んでからで、
「鄙に育ったけれど美しく
母よりはよほどしっかりと手応えのある」ひとなのだ
とは田辺さんの本から得た心象なのである。
そんな賢い彼女が「狂乱」するとは思えなかった。
さいわい、この公演には
馬場あき子さんが解説をしてくださり、
光源氏と玉かづらの情の行き交いを
わかりやすく教えて下さった。


彼女は源氏に対する仄かな思いに蓋をしたままで
養女として、宮仕えに出ることとなる。
しかしその前に髭黒大将の強いもとめによって結婚した。
結婚した後も源氏との絆は切れることなく
「若菜」では娘分として源氏の「賀」を祝った。
想像するなら紫の上に後れた晩年の源氏に
何くれとなく心配りしたのは、彼女だったのかもしれない。

おとなになった玉かづらが我が身を振り返ったとき
自分の地位も教養も名誉も
つまりは現世の幸福は、
あれほど一時は厭っていた
源氏に負うところがほとんどだったと知るのである。
都の上流階級のなかで人交わりするためには
六条院の後ろ盾と、源氏の教え(歌も楽も)が
あってこそだったということを。
六条院の暮らしのなかで磨かれた結果として、
彼女は幸せになり、たくさんの子を産んだ。

この物語では
薄幸なひとは不思議に子どもにめぐまれない。
(夕顔、葵上、六条御息所、秋好中宮、そして紫上
…子どもの数はすくない、かいないのだ)

また夕顔の娘の玉かづらは
ほんとうなら紫上と並んで
源氏の最愛のひとであっってもおかしくない。

ただそうなるには源氏は年が行きすぎていたし
若すぎる妻として女三宮がいた。
だから彼女の居場所は
“理想的な娘”だったのだ。

しかし血の繋がった親子ではない。
そこには微妙な揺らぎとずれがある。
長い間かかって凝った想い
そのむすぼほれが彼女の「妄執」ではなかろうか。
たとえるならば、はげしくはないがぼうっと
熱を出さずに輝く、蛍に似たものに。

彼女が繰り返し思い出したのは
あの「蛍」の巻の情景なのだろう。
青いあかりに照らされて
几帳に浮かび上がったじぶんの影。
黒髪のひとふさを左手に持ち、彼女は歩む。


後場はたいそう短い。
舞わずカケリで舞台をひとまわりし、
すぐにキリに入ってゆく。
強く美しい詞章と舞いがたいそう印象的である。
激しいこころを舞ってのち
左手に持った扇で顔を半ば隠す。
「かげもよしなやはずかしや」と。

ほのかに語られる「よしなや」という言葉
まるで式子内親王の歌のようだ。
それにつづけて「恥ずかしや」と謡い止めて
彼女は妄執から自由になるのである。

ひとたびだけ、秘めた想いを口にだすことによって
彼女の心は悟りの静謐に包まれる。
一度だけでよかったのだ、聴いてくれる人があるならそれだけで
こころはまるい玉のような穏やかな輝きに満ちる。


ゆるやかで、情趣を舞うようなこの曲は、
地の底にあるこのように現代的な能楽堂より
深山の神さびた神社の舞台でこそ見たいものだ。

初夏には山吹が黄の花をつけ
藤の花房が枝垂れているであろう
そんなところで 観たい。

2007年7月28日(土)
セルリアンタワー能楽堂 定期能7月公演-喜多流-
第1部午後1時00分開演

解説:馬場あき子

狂言『昆布売り』
大名:野村 萬斎
昆布売:破石 晋照

能『玉かづら』

里の女/玉かづらの内侍の霊:友枝 昭世
旅僧:森 常好
里の男:高野 和憲

笛:一噌 幸弘
小鼓:曽和 正博
大鼓:亀井 広忠

後見:中村 邦生/佐々木 多門

地謡
粟谷 能夫
粟谷 明生
長島 茂
狩野 了一
大島 輝久
金子敬一郎
友枝 雄人
内田 成信
※喜多流と観世流では曲名の表記が違うので
その部分は仮名にしました

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