« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »

2007.12.29

「椿三十郎」…いまふう時代ドラマ

リメイク流行りのこのごろである。
わたしが若いときの
映画や音楽が
キャストや歌い手を変えて
上映されたり街に流れたりしている。

たとえば「三丁目の夕日」、テレビドラマ「点と線」
子供の頃の風景は懐かしく
違いをみつけてひそかによろこんでみたりする。
知らないこともあるけれど
テレビがなかった昔だから、空白になっている部分に
こうだよ、と差し出される映像は新鮮だ。

超大作と評判の高い
「椿三十郎」を見る。
出演者が気に入っているのと、
監督が森田芳光であること。
どちらかと言えば、年の近い監督が、どんな風に
名作を作り直すのかが興味あるところだ。

そして決定的なのが
「台詞は原作のまま」だということ。
黒沢監督のそれは、リバイバルで見た。
音声がよくなく、会話がよく聞き取れなかったからだ。

面白かったのが客層。
わたしの両隣は、ほぼ同年代の男性がひとりで来ていた。
カップルもちらほらだが全員シルバー世代、
明るくなってからわかったのだけど、
若い人は二人か三人だった。
ほぼ八割の入りだったのに、である。

ロビーには家族連れも若いカップルもあらゆる年代が
揃っていたので、
この映画は「団塊世代」向けなのかな、と思った。
しかしそれでは大ヒットにならないじゃないか、とも。

原作が山本周五郎である。
今回のほうがコメディタッチだから原作に近い。
主役はまったく違うタイプだから
比べる気もないが、織田裕二はけっこう喜劇が似合う。
なんとなく勘違いな雰囲気がそう見えるのだろう。

ちっとも強そうではないが、めげずに明るくていい。
時々「踊る…」の青島刑事風の顔になってしまう。
その顔とセリフが合わないときがしばしばある。

で、わたしはセットの出来やカメラワークを
自分なりに楽しんだ。
若侍役の若手俳優の立ち居振る舞いが
様になっていたので感心し、
中村玉緒の奥方がとぼけてていいなあ、と笑いしていた。

「間宮兄弟」のときと同じで
穏やかななかに細やかな神経が行き届いていて
なかなかに素敵な風情がある。
椿の花はみっしりと咲き、
登場人物の着物はいつもぱりっとしている。
総じて、古風だが時代劇「風」になっているところが
新し味かもしれない。

ライバル役の豊川悦史、
前作の仲代達也が、ものすごく印象的な悪役だったので
どんなに激しいかと思えば、
飄々とした感じなど、織田よりよほど三十郎の雰囲気が出ていた。
仲代はぎょろりとした目が精悍だったが
もっと知的な狡い感じに作っているのがよかった。
着物も彼はよく似合うのだ。

その割には悪役の三人組が軽くて物足りなかったが
中では西岡徳馬が、むかしの東映時代劇に出てきそうな
太い眉にくっきりした目張りで似合っていた。

楽しめる娯楽作品に仕上がっていたと思うが
「HERO」に比べれば
ずいぶんと興業収入は少ないそうだ。
リメイクよりお洒落な現代もののほうが成績が
あがるのかな。

台詞の間合いがゆったりしているのが
とても心地よく、時代劇だから風景がたっぷりで
目もちかちかしないし、
五十代以上なら楽しめる、と思うのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.12.25

赤地の錦…「実盛」

会場はぎっしり満員で
酸欠になるかとおもうくらい。
大丈夫かなあ、と体調の悪さを心配していたが
虫の知らせは当たるもので、演能中ずっと息苦しい。

脇正面の橋がかりそば、が指定の席で
救いは揚げ幕から舞台まで、友枝さんのハコビを
手の届く近さで拝見できること、だったのだが…

後ろにパイプ椅子を並べるだけでは足りなかったとみえて
わたしと橋がかりの間に、さらに丸椅子が置かれ、
シテの衣擦れの音しか聞こえなかった。

静かに歩みをすすめる老人は
ほんのりと微笑しているように穏やかな面差しである。
最初のうちは声が低く、
その響きは、この世の者ならぬ気配を感じさせた。
いつもの友枝さんより小柄にみえ
それが武者の老いをあらわしているようだった。

ところがわたしは、
ワキの上人とのやりとりが続くうちに
激しい眠気に襲われて
必死にこらえたがうまくいかず。

アイが語りを終えて立ち去るあたりまでの舞台は、
切れ切れにしか覚えていない。
さすがにシテが幕に入るときには
不思議にぱっちりと目が開いたのだが。


篠原で遊行の上人が説法をしていると
そこに余人にはみえぬ老人が毎日やってきて話しを聞く。
気になった上人は、ある日人払いをして
その翁と向かい合い、
「あなたはいったい誰なのか」と問う。
彼はほのかに微笑んで
「むかし、ここで戦があったとき、討ち死にをした
斉藤実盛というものでありますよ」と答える。
木曾義仲との合戦で、命を落としたかれの
華麗な出で立ち、勇壮な戦いぶりを語った後、
「後世のとむらいを」と頼んで消え失せる。
ここはかれがの首を洗った池のほとりであった。


後場のシテは、白髪を肩に梳き流し、
陽光を集めた色合いの法被を肩脱ぎにしていた。た
まるで若武者のように美々しい装束だった。
小袖の袖に波うち返し、大口はおちついた浅緑。 

小柄で柔和な顔つきは変わらないが
さすがに戦場に赴くすがたであるので
姿勢も型も打って変わってきりっと鋭い。

蔓桶にかけて物語る、その背中も腰もすこしも動かない。
わずかの動きに微妙に面が照りくもる。

討たれた首は義仲の前に差し出される。
「坂東なまりの武者なれば、
さだめし斉藤別当であろう」と義仲は思うが
幼すぎ記覚えがない。
郎党の兼光を呼び首をあらためさせる。
このくだりの謡が圧巻である。

実盛なのは当然として
義仲にも兼光にも、さらには討った男にも、と
どの人物にもシテはなるのだ。
その目眩きがまぶしい。

すらりと扇をひろげ
立てて静かに水を注ぐ。
するとみるみる黒い水が流れて
黒髪は白髪に変じる。

なんとうつくしく手先が伸びるのだろう。
その一瞬を切り取る所作が、消えずに眼の中に焼き付く。
これまで見た友枝さんのお能の光景を
大切におさめてある場所に。

去年の「三輪」をみたときにも思ったことだが、
お囃子は遠くに引いてしまったようなのだ。
笛だけが、天空を舞う鳥の遠いすがたのように
ゆるやかに漂って、おりおりに降り下ってくるのだが。

シテがきわ立って、そこに光が当たっているようだ。
みごとなお能だからそれでいいのかもしれない。
「三輪」のシテは神であったし、
彼実盛は、鮮やかに、華やかに、死ぬことだけをめざして
この篠原で、たたかったのだから。

ならば彼がたましいとなって
かくも長い間、この篠原にとどまっていたのは
いったい何のためだったのか。

義仲に会いたかったのだと告げるためなのかしら。
それは誰にも語られなかった、彼のひそかな思いだ。
主命に逆らって乳飲み子を
しるべの男に預けたときは
ただ哀れみからだったのかもしれないが。

時は流れ、二十数年の後に
立派に生い立った義仲の、武将としての姿を
ひとめ見てみたいと願ったのだろう。
たとえ首をとられても
若やかに染めた髪と髭のために
義仲が見るのは、若いときの自分の姿。
記憶にはなくても、わかってくれるはず…と。

戦の次第を語るしての、老いてはいてもきっぱりとした
すずやかさに宿る生き生きしたものを、
友枝さんはみごとに描き出していた。

世阿弥は義仲が好きだったのだろうか。
巴に思われ、兼平が殉じた男、
平家物語でもひときわ
あわれにもかなしい主人公のひとり。
その名を伝える後嗣はなく、
たたかいのさまを知るには平曲を聞くほかはなかった。

また、後世に生きて彼を愛したひととしては
松尾芭蕉が居る。
義経よりも義仲を身近に思い、
墓を義仲寺は木曽殿の塚の隣に定めた。

その彼が実盛のことを詠んだ句に
「むざんやな、兜の下のきりぎりす」がある

兜の持ち主であった実盛は、
温顔のままで橋がかりを帰ってくる。
その面からうける感じは「頼政」とは違って、
悔いのない明るさに満ちていた。


 2007年11月24日 午後2:00始め
      於 大槻能楽堂

能『実盛』

シテ   友枝 昭世
ワキ   福王 茂十郎
ワキツレ 山本 順三
     永留 浩史
アイ   茂山 忠三郎

笛  赤井 啓三
小鼓 横山 晴明
大鼓 河村 総一郎
太鼓 三島 元太郎

地頭 粟谷 能夫

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007.12.18

ヘア・スプレー&クワイエットルームにようこそ

映画がいつも千円で見られるようになって、
さあ、どんどん見に行こう、と意気込んでいたが
だからといって毎週とはいかない。
せいぜい月一本、
この記事は先月と先々月に見たぶんである。

ことしと来年はミュージカルの当たり年
(わたしにとって)
夏は「レ・ミゼラブル」を見たし
お正月には「テイク・フライト」
二月には「ベガーズ・オペラ」

「…怪人」や「ネコ」を見ていたころは
はやりものだから、という気分で
でかけたものだったが
「レ・ミゼラブル」に行ったあたりからは
ふつうの芝居と同じ感覚で気楽に楽しめるようになった。

映画「ヘア・スプレー」、これはブロードウェイミュージカル。
舞台を観に行くほどの熱意は無かったが
千円デイにはもってこいなので出かける。

そしてこれが大当たり
イントロからダンスの楽しさがいっぱいだ。
ちびデブちゃん、トレイシーのキュートさが全開で
リズムとメロディは六十年代の懐かしいもの。

時期的にはわたしの子供時代である。
アメリカのホームドラマやショー番組、
西部劇にオールデイズ、たくさん見たっけ。
懐かしいったらありゃしない。

自分のおデブを気にせずに、
明るく前向きなトレイシーの姿に
不器用なパパも、太りすぎで自己嫌悪のママも
(ママ役があのジョン・トラボルタである。
女装して肉襦袢着てても存在感がある怪演)

ダンスとミス○○選出のエピソードだけなら、
ほんに青春ものなのだが
アメリカ映画の底力、なのかな、
しっかり時代の流れをつかまえている。
「黒人差別問題」
今では当然の権利が、むかしは一切許されていなかったことを、
さらりと描いてあるのがすごいところ。

デモに参加するトレイシーは
難しいことなんて何にも言わず、
「だって友だちだもん」と、にこにこ笑って歩いてる。
その自然さがすてきです。
ドタバタと喜劇仕立ての部分と
この真面目さが相補って、
見た後の爽やかさの底にしっかりと苦味がベースになっている。

いま、現実のニュースを見ていて
萎えてしまいそうな「希望をもつ」気持ちを
しっかり支えてくれる映画だった。
ちなみに、サントラは入手、DVDも多分購入予定。


もう一本
松尾スズキ監督作品
「クワイエット・ルームにようこそ」
「静かな部屋」とは精神病院の隔離室のことである。

「大人計画」の芝居、見たのはDVD「キレイ」のみだが
映画「ユメ十夜」でスズキ氏の短編をみた。

“いまどき”を描いたこの映画、
風景や背景より、人物像に焦点が当たっている。
セリフが時々どきっとするほど切ない。
主演は内田有紀
年を重ねてほどよい感じ、といっても
わたしはこの人のドラマをあまり見たことがないのだけれど。
スタイルもいいし声もきれいだ。

脇役陣では、主人公の同棲相手の
しょぼくれた構成作家がとてもいい。
(演じるのは宮藤官九郎)
気弱でつまらぬ男にみえるが
じつは主人公のことをよくよく理解している。

手違いから入院することになった彼女が
数日の間にそこで出会ったことがらと人々を描いている。
患者や関係者に、
大竹しのぶ、蒼井優、妻夫木聡、りょう、など
豪華な役者をたっぷり使っている。
くっきりと陰影があって派手な色彩は、以前映画でみた
松尾スズキの世界とおなじだ。

おどろおどろしい雰囲気で始まるが
最後には主人公は、彼氏とも別れてひとりで退院する。
ラストシーンは
それまでの陰にこもった院内の風景をぬぐいさるように

自転車で疾走する患者(いい味わい・筒井真理子)
と、それを車中からみかける主人公の明るいまなざしが
みているこちらをほっとさせる。
旅は暗く深かったね、とねぎらいたくなった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.12.01

みやまに棲む“もの”…「山姥」

数年前に観た「伯母捨」は
山の中に置き去りにされた老女のはなしだった。
こんなにうつくしい媼が居るのか、と驚いた記憶がはっきりとある。

「山姥」も山の中で起こるはなし
しかしこちらのシテは“人”ではない。
大曲で長いと聞いていたので、
始まる前から緊張気味だった。

席は最前列の右端、目を挙げると揚げ幕の中まで見通せる。
地謡とワキの背中を見る位置だ。

  都の遊女「百万山姥」が供を連れて旅をしている。
  信濃の善光寺へ参ろうと。
  山の中で急に日が落ち途方に暮れているところへ
  中年の女が宿を貸そうと呼ばわる。

  女はなぜか遊女のことを知っており
  「山姥の舞」を見せてほしいと言う。
  山のことを語り、山姥であることも明かし、
  夜もすがら謡い続けてくれれば
  「まことの我」を見せようと言って
  しずかに姿を消し去る。

  待つ人々の前にあらわれたのは
  白髪で杖をつき、おごそかな姿の“もの”であった。
  ひとのようでいてひとではなく
  ゆるやかに舞った後…

まずはじめに揚げ幕からあらわれるのは、
ツレ(百万山姥)とワキ(従者)である。
都から長い道のりを旅してきて
やっとひと息というところのようだ。
さばさばとした閑さんの語りが演劇的。

前シテの出から、わけありげな感じがする。
装束は地味な色無小袖。
下の衣はしっとりとした茶で
襟の裏はそれより濃い。この二色の濃淡がいい。
小袖は寂びた青地と金地の段替わりで、
ひとつづつの方形が大きめ。
袖のあたりで四角が斜めに畳まれてとてもすてきだ。
すっと座るときの風情がゆかしい。

遊女が問いにこたえて話しているときに
女はずいと膝を乗り出して問い詰める。
あなたは「山姥の舞」を舞うけれど
山姥について何を知っているというのか、と。
きりっとした面差しの美しさにうっとりする。

その迫力に一行はのみこまれ
いずまいを正して夜を待つのである。


後シテが幕を出る。
輝く白の下の衣、
くっきり鮮やかな緑に白の線が入った上の衣
(長絹なのかそうでないのか)
ところどころにぽたりぽたりと
赤と橙の色が紋のように落ちている。
山々のみのりのように。

長い髪、雪白にして滝なす髪
その白さのなかの面ざしは、
威厳があるのに、またふと優しげな風情もある。
なんともつかまえどころがないうつくしさだ。
前シテのときよりも、はるかに背が高く見える。


謡は最初から最後まで強吟である。
情におぼれぬ謡であり、
舞もまたおおきくかつ端正である。
山姥が舞いすすめるにつれて能楽堂のなかに、
不思議な空間が広がる。
それに誘い込まれ、眠るでもなく起きるでもない時間が過ぎる。
いや過ぎるのではない。
つかの間でありつつも、永い時をさまようような
超越した「とき」のなかに居るのである。

鹿背杖にはみずみずしい色合いの木の葉が生えている。
山姥がふいと折り取ったままの姿だ。
やや短めの杖を、ゆっくり突いて歩む。
その音が、さらに眠気をさそうようにかつん、かつん、
と精確に鳴る。
強くも弱くも、自然のリズムに合った舞だ。
時おりかざす扇は金地に緑、深山そのものである。

ゆうるりと帰る後ろ姿を眺めて気がつく。
山姥のゆくて、揚げ幕の中には
さらに濃く深い山が続いている。


なのに、夢から覚めて、遊女の一行が踏みしめてゆくのは
つまり彼らが帰る揚げ幕の向こうは、
善光寺への山道なのだ。
あきらかにひかりも空気も違っている。


きょうのお囃子は年配者ぞろい、
とりわけ柿原さんの大鼓がよかった。
かぁん、かぁんと鳴る音色は山のこだまのようだった。

北村さんの小鼓も枯れ具合がなんともいえず
一噌仙幸さんの笛は、
やや肉厚な質感が山の不思議にふさわしい響だ。


風景と渾然一体となって、山の花を、月を雪を
その時々に楽しむ、
そんな山姥のこころもちに包まれて曲が終わる。

旅の一行の袖がひらひらとひるがえる。
彼らもわたしも同じように、放心して
うっとりと山姥の舞いを見ていたのだ。

山姥とは何なのだろう、という
見る前の疑問は、すっかりどこかへ行ってしまい
清らかで明かるいみどりの薫りが残った。

2007年11月4日(日)
於 国立能楽堂  午後一時開演
「友枝会」 『山姥』

シテ: 友枝 昭世
ツレ: 佐々木多門
ワキ: 宝生 閑
ワキツレ:大日方 寛
ワキツレ:御厨 誠吾

笛:一噌 仙幸
小鼓:北村 治
大鼓:柿原 崇志
太鼓:助川 治
地頭:香川 靖嗣

 ○能「巴」
  かっちりと武者振りの凛々しいシテだけに、
  鎧を脱いで落ちてゆくときの一変した哀れさが沁みる。

 ○狂言は野村萬さんの「杭か人か」。
  口ばっかりでこわがりで役に立たない、
  そこいらに居そうな太郎冠者、剽軽で憎めない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »