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2008.03.31

「リア王」…運命にあらがう老人

今回の舞台背景は松羽目
裾に秋草の模様が描かれている
丈がとても高くて開閉が自由
両側に扉がついていて、そこから出入りができる。

舞台の前面には砂盛りがしてありでこぼこである。
そのせいで
登場人物の歩き方はなめらかでなく、
それがかえって
自然のなかを歩いているような効果をあげる。

シェークスピア悲劇「リア王」
主人公を演じるのはは平幹二郎、
怪演としか言いようがない不気味さ。
善悪を越えた巨大な老人を、アク強く演じている。


こどものころ少年少女向け物語を読んだわたしは
優しい年老いた王は凶悪な姉妹にひどいしうちを受け、
末娘のコーディリアだけが
父を慕って迎えに来るのだ、と思っていたが。

蜷川演出のこの芝居はそれとは大違いで
この日わたしの前に現れた姉妹たちは
まったく違ってみえた。
上のふたり、ゴネリルもリーガンも
父リアの、権力欲、傲慢さ、頑固、偏屈、
カリスマ性を受け継いでいる。

ゴネリルの、
夫をないがしろにして、
何でも自分できめようとする男勝りな性格は
あきらかに父の一面だし、
リーガンは夫とかたらって
残酷な性格をあらわにする。
その夫はリアには及びもつかないが
我が儘で支配的なところは、妻と好一対である。

そして可憐なコーディリア。
彼女は自分の心に従って、
リアにおもねることを拒否するが
そのかたくなさと頑固さは
まさに父の縮小版である。
また彼女は、夫に「頼って」
父を救おうとするのだ。
愛らしく純粋ではあるが、夫に対する態度も
姉たちとはおおいに違う。

もし、もう少しもの柔らかに父の気持を
なだめられたなら、
その後の悲劇は食い止められたかもしれない。
自分のしたことは正しい、と思っている、
その部分ではやっぱり彼女も、
リアの娘であることにまちがいない。

こんな人たちに囲まれていたなら
並の男はどうしようもなく萎縮してしまうだろう。
オルバニー公爵はその典型だ。
頭はよいがぐずぐず屋。
とにかく波風をたてないのが彼の生き方のようだ。
自分への暗殺計画を知ってやっと腰をあげる。
その後はなかなかの粘り腰を見せる。
(もっと決断が早ければねえ)

重要な脇役、
エドガーとエドマンドの兄弟。
池内博之は、坊主頭が濃い顔立ちと相まってぴったり。
異常なまでの出世欲も、
姉妹の両方にいい顔をするのも、
それまでの育ち方からして、とても自然。
正当な嫡子である兄への対抗意識でいっぱいである。

「世間知らずのぼっちゃん」と弟に揶揄される
兄のエドガーには高橋洋。
蜷川演出の舞台にはほとんど登場する若手の芸達者である。
この人の演技がすごかった。

弟の罠に嵌められて、追われる身になった後の
彼が選んだのは
“『乞食』になってこの国にひそむ”ことだった。
それも気がふれた乞食に。
あわれなトムに変装して登場したとき、
彼は爪先だってすべての動作を行った。
かん高く調子外れな声、
ほとんど半裸のみすぼらしい衣装。
誰が彼をグロスター伯爵の御曹子と思うだろうか。

運命はエドガーに、父を先導する役目をあたえる。
よい人だが優しすぎて、
コーンウォール侯爵とリーガン夫妻に
目玉をえぐり取られて放逐された父。
その心は弱すぎて、生きていく望みを失っていた。

エドガーは辛い気持を抑えて、
父を励まし、リアの元に連れて行くことを約束する。
全編リアの狂気が支配するこの劇のなか
リアの登場しないこの場面が
わたしにとっては忘れられないものとなった。


ふたりの旅は、青色のスクリーンを背景に
まるで歌舞伎の道行きのようだった。
奏でられる楽は笛と鼓
ピアノの音がそれらを縫い合わせる。
杖を頼りの父と支える息子、
高橋洋と吉田鋼太郎の息がぴたりと合い
たたまれた背景に僅かに除く秋の草が
この情感に彩りを添えていた。


見ず知らずの相手と信じ
神の思し召しだと思い、
心を預けて「よきサマリア人」と旅した父は、
相手が息子だと知ったときに
安堵ではなく辛さを感じて息が絶えた。
そのできごとは幕の後ろのことだから
ただエドガーの語りでしか知ることはできないが、
老いた父の心根が哀れでならない。

試練を乗り越えたエドガーは
新しい世代を象徴している。
引き裂かれたものをもういちどつなぎ合わせる事で
善良だが弱かった父の過ちを、
繰り返さずに前に進めるはずである。


もうひとりのリアの「味方」ケント伯爵。
彼は強い意志を持った善人であり
間違ったことは何ひとつしていない。
しかし彼の不在が
間接的にリアを追い詰めたことは間違いない。
正しいことを主張して、皆の目を覚まさせたくとも
(皆の中にはもちろんリアも含まれる)
宮中から追放されれば
悪い方に転がっていく力関係に
なんの影響も与えられないではないか。

荒野をさまようリアは
ケントが付き添っていたからこそ
生きのびることができたと言える。
彼の行いは、立派としか表現できないが、
コーディリアの場合と同様
もう少し他に道はなかったのかしらと思ってしまう。

狂ったリアは、それゆえに
王座についていたときよりはるかに
優れた直感をしめす。
グロスターは神に頼るが
リアはそのようなものは不要として退け
天地に向かって反逆し、呪い、喚く。
そのものすごい形相、声音。
とつぜん雷鳴とともに
小型の爆弾のようなものが、
舞台の上にぼたぼたと落ちてくる。
あれは何だろう。
あきらかに不吉なそのものが立てる音のせいで
人びとは大声で叫ばないと聞こえない。
ここがわたしにとって二つめの
心揺れた場面だった。


リアは自分の不幸な運命を
はじめは怒り、ついで否認し、最後には受け入れる。
狂っている時間はどんどん長くなるが
その中で語ることばはより本質に近づく。
口調がだんだん道化めいてゆき
付き添いの道化は姿を消す。
王であったこの老人の変化の不思議さ、
その生命力の強さ。

運命に抗うばかりで
決して「神」にはすがらないのである。
そして最終最後に
「受け入れた」彼がしたことは
コーディリアを殺した衛士を殺すことだった。

「昔ならもっと簡単に…」
血まみれで登場する彼のセリフである。
年老いたいまは力も衰えてしまっているが
リアは自分手で、自分の肉体で決着をつけた。
もしもう少しの間命を長らえたなら、
娘の稚いかたくなさが愛情であることを
知ることができたろうに。
また娘ももっと素直に、父への愛を語れただろうに。


しかしながら、ひとときだけでも
コーディリアと再会したことで
リアは暴虐で尊大な王から
自分のたいせつなもの(ひと)を
かけがえがないと感じることができるようになった。


ただもう、彼の時間は終わったのである。


舞台には、ゴネリルとリーガンの棺が並び
リアは死んだコーディリの胸に凭れて息絶える。


あまりにも重く暗い話だ。
「老い」のもたらすさだめに押しつぶされそうになる。
生きることのはかなさ、つらさに涙がにじむ。

気づくとまわりは若いひとばかり、
彼女や彼には、これは架空のはなしにみえるだろうか。

いまのわたしには身につまされる。
認知症になった母がこのリア王のように
頑固さや、厚かましさや、おもねりなどを
知らず知らずに剥きだしにして暮らすようになっているので。

母は、受け入れるより、忘れるほうがずっと簡単だから
記憶をぼかすことを選んだのかも知れないと
幕が下りからそう思った。


緊密で素晴らしい舞台だった。
中でもひとり、とあげるなら
はじめてであったゴネリル役の銀粉蝶。

強くたくましく、他方はかわいくひたむきに
小柄な彼女は最後まで
自分の運命を自分の意志で選んだのである。
友だちにはなりたくないが、
その徹底的な悪の大きさと強さが印象的だった。
華やかささえその身に添うて…。

平成20年2月22日(金)
於:シアタードラマシティ 

「リア王」
リア王:   平  幹二郎
コーディリア:内山 理名
リーガン:  とよた真帆
ゴネリル:  銀粉蝶

エドマンド: 池内 博之
エドガー:  高橋 洋
道化:    山崎 一

グロスター伯:吉田 鋼太郎
ケント伯爵: 嵯川 哲朗

翻訳:    松岡 和子
美術:    中越 司
音楽:    阿部 海太郎

演出:    蜷川 幸雄

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2008.03.25

二週続けて落語漬け

落語のレポは書きにくい。
個人芸だからだろうな。
好きなひとの噺は何度聞いても面白かろう。
ただいまは、
「誰が好き」なのか手探りのさいちゅうである。

天満天神繁昌亭は二度目。
開演前にお参りに行く。
天満宮には梅の香が、
香りを吸い込んで手を合わせ、
それからおもむろに寄席の戸をくぐる。

チケットを取るのが一苦労だった催し。
「桂吉弥のお仕事です」…
名付けて“ちりとてちん寄席”
あっと言う間に完売したそうな。

ここ最近しばしば落語会に行っているが
一番客層が若くて女性が多い。
N○Kの朝ドラ効果はいよいよ増してるようだ。

二番手が万葉亭柳眉(字が違うかも)役の
桂よね吉、わたしはこの人、“かなり”お気に入りである。
じみな顔立ちにじみな銀ねずの着物がよく似合う。
芝居噺が得意で、本日の演し物は「七段目」。
上方演芸大賞新人賞を取ったときもこの噺だった気がする。
斜に構えたマクラが、ぴりっと効いている。

プログラムによると、次は染丸師匠のはずなのだが
めくりが消えている。
客席がざわめく中に登場したのは
徒然亭四草こと加藤虎ノ介

みんな大喜びである。
(もちろん私も拍手喝采)
テレビより洒脱な感じの関西風巻き舌で
“そつなく”と言って良いだろう、
短い噺だがじゅうぶんに聴き応えがあった。


中入り前の染丸師匠
テレビと同じ声、同じ顔。
華やかで楽しく親しみやすい声。
笑わせところはたいそう上手く、
引き付けてぱっと離すと、どどっと笑いがあがる。
私たちはすっかり「鵜」と化して
染丸師匠の手の上で笑い転げた。

確かにどこかで聞いた噺だが題名がわからない。
拗ねる旦那がおかしく、
迷惑ながらも浄瑠璃を聞きに来る
長屋の連中の右往左往も目に見えるようだ。
同じ噺でも演じるひとによって
たいそう受ける感じが違うのは、お能とおなじ。


短い休憩の後にもめくりが出ていなかった。
もう観る方も解っていて
今度は誰が、と見守るうちに
しずしずと徒然亭草々=青木崇彦の登場

「おおっ、今度は草々兄さんや」
「背(せい)が高いなぁ」
「今日来てよかった~」
周りの中年以上の女性客(わたしも含め)は
しゃべりながらしっかり手を叩く。

スタイルがいいなあとしみじみ。
顔がずいぶん上にある。
しかしこれでは落語会というよりも
まるで「スタジオ・パーク」のちりとてちん特集だ。


トリは吉弥さん
役者の顔と落語家の顔
どちらも明るく真面目でとっても陽気。
わたしが気に入っているのが彼の手。
ふっくらして感じよく表情豊か…手も顔と同じだ。

「ちりとてちん」でしょっちゅう出てくる
(草若師匠の十八番)「愛宕山」である。
賑々しく、ほんとに楽しそう。
最後には徒然亭一門のあとふたり、
小草若=茂山宗彦と、小草々=辻本くんも登場し、
大拍手の中での幕切れで、
落語じゃなくってお芝居みたいだった。

ハネて出るとひとだかり。
吉弥さんがお見送りしてくださる。
サインを貰う人、一緒に写真を撮る人など、
たくさんのひとたちが居残っていた。

この催し、たいそう話題になったようで
少したってから新聞に好意溢れた評が載った。

2008年3月6日(木)天満天神繁昌亭
       午後6時半始め
○ 桂  二乗   「牛ほめ」
○ 桂  よね吉  「七段目」

   徒然亭四草  「つる」
○ 林家 染丸   「寝床」

     中入り
   徒然亭草々  「道具屋」
○ 桂  吉弥   「愛宕山」

次の週、今度は地元の「市民寄席」へ
こちらは長年続いているが、でかけたのは、
今回がはじめてである。
兄弟分に当たる「市民狂言」には度々足を運んだけれど。


古い小学校を改装して作られた芸術センター
会場は「大広間」であると聞き
ひょっとして畳敷きかいなと心配したが
椅子だったのでやれうれし。

あいにくの雨、チケットは完売だが
座席はところどころ空席がある。

ここはいつもの落語会の風景。
年齢層がたかく男性客が目立つ。
男女比は半々くらいだろう。


年に数回づつの催しだが
こういうものは続けてほしい。
もちろん「市民狂言」もね。
予算削減の話がニュースになるたびに心配になるのだ。
隣の県では「お笑い」の展示施設が
補助を打ち切られるかも、と盛んに報道されているし。

落語家のメンバー、年配者が多い。
よね吉さんが一番手で最年少。
繁昌亭ではじみにみえたのに
ここでは声も大きくよく張っていて
若さ溢れるトップバッター振りだ。

演じる「米揚げ笊」ははじめて聞く。
久しぶりに演じる噺のせいかやや硬さがある。


どの噺家もそれなりに
面白おかしい話ぶり。
無理に笑わせようというところが見えないので
かえって気楽に笑える。

順が進む毎に
噺家が年よりになっていく。
自分との年の差が狭まってくるにつれて
噺が面白くなってゆく。


トリの松枝は「三十石」を語った。
いま住んでいる地の近くの噺なので
つい身が入り楽しさ数倍。


淀川をゆく船はもうとっくに無い。
港の後はすでに「史蹟」だが
せめて噺の中だけでも
のんびりと川を下ってみたいものだ。

適度な脱線とくすぐりがあり、
米朝一門とやや違ってそれも新鮮だった。


『市民寄席』第289回
  3月14日(金)午後7時開演
  会場:京都芸術センター

○桂   よね吉  「米揚げ笊(いかき)」
○林家  染二   「八五郎坊主」
○笑福亭 小つる  「へっつい盗人」
○笑福亭 松枝   「三十石」

※ 一気に四席、できれば休憩が欲しい

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2008.03.22

花の雪散る…「小塩」

お能をみていると
色々な業平に会える。
妻の嘆きを通して面影をみる「井筒」
すらりとした姿と色合いに
偲ばれるひととしての「杜若」
そしてこの「小塩」

前の二つは直接に業平本人は登場しない。
だからこそこのお能が楽しみだった。
国立能楽堂の催しは
パンフレットは別売りだが、詞章と解説
番組まで載っているのがありがたい。

ところは西山大原野、
花見にきた町の男たち、
群衆の中にみっしりと重たげに花をつけた
桜の枝をかざした老翁と出会う。
やわらかな黄味がかった上の衣(水衣?)
下の小袖は濃い茶色で、
しぼがある生地が深い色合いである。

始めから、お囃子が凛々と耳をうつ。
大小の鼓
大倉源次郎も亀井広忠もちから強い響きだ。
配する笛は、一噌仙幸
駘蕩としたやわらかな音色である。

群衆のなかできわだって品のよい老人だから、
都の男が「風流なかただ」と驚くのも無理はない。
ワキは宝生閑、
いつもの旅僧の姿でないのが新鮮、
かぶりものがないとごく普通の市井のひと。
さりげなさがふんわりといい感じだ。

なだらかな西山の山裾をのぼっていくと
その途中でふと出会うお社がある。
仰々しくないそれが、大原野神社である。
たぶんむかしはもっと社領も広かっただろうが
岡の高さはそれほど変わってはいないはずだ。

参道に入る手前で鳥居を左手に、東をながめると
遠くひろびろと都の景色がひろがる。
ここ西山はうらうらと明るく
足弱なものでも遊山に出かけやすい。
西行法師の庵もこのあたりにあったと聞く。
暖かいひかりが満ちているからだろう。


穏やかに緩やかに会話が弾み、
足取りも軽くそこここの景色を愛でる。
消え失せる前のなんでもないやりとりにも
春の心はずみが思われる。

不思議でならない都の男たちが
子細を尋ねる里人は
かっちりと長袴を着こなしている。
このあたりの郷士でもあろうか、
篤実で力のこもった語りである。
アイが登場すると常は、
ふっと見所の空気が緩むものだが
このたびはみごとに引き締まった彼の語りに
思わず引き込まれて姿勢をただす。

後シテの面は、澄み切って美しい。
業平だから「中将」の面が使われるとおもっていた。
しかしわたしの目でみても
なめらかな眉のあたりなどそれには見えない。
(後に知人から。あれは「十六」という名の
面である旨、教えていただく)

纏う狩衣は
ほんのりとあたたかみのある薄紫。
冠は武官のそれ
若々しい面は、微笑んでいたり、
神々しかったり、
また二条の后のように艶めかしくみえたりする。

そのどれもが一体となっているようにみえる後シテである。
序の舞はゆるくゆるやかに続き
足拍子さえもやわらかに踏まれる。
ふと脇を向くその面に花吹雪が散りかかる。

闇を裂くのはきりっと際だつ鼓の音色。
そのたびに細かな花びらが舞う。
胸紐は美々しい紫
玉留めの色合いはそれよりやや赤みを帯びている。

業平の歌尽くしにのって舞い続けるのは
桜の精と化した神である。
高きにいますそれではなく、
もっと人懐かしい神である。
うす紫の装束は「業平」の、杜若にちなんだものと
そのときは思っていた。

ところが翌々日の宵、春のはじめの淡雪が
街灯に照らされるのをみたときに
はじめて腑に落ちたのである。
細かな雪はあかりの中で薄く色づいてみえた。
春のあけぼのの
薄紫の雲と散る花を
ひと色であらわせばこの色に違いない、と。

その色こそは業平の色
あたたかな中にもかすかな苦味を含んでいる。
激しいこころは表にあらわさぬまま、
人が桜か、桜が神か、
ゆらゆらと絡まった糸がほどけるが如くに舞は終わる。

国立能楽堂定例公演
平成2年2月15日(金)午後6時30分開演

能「小塩」

前シテ・老人
後シテ・在原業平   友枝 昭世
ワキ・花見の客    宝生 閑
ワキツレ・同行の者  則久 英志
ワキツレ・同上    御厨 誠吾
アイ・里人      山本 東次郎

笛: 一噌 仙幸 小鼓:大倉 源次郎
大鼓:亀井 広忠 太鼓:前川 光長

後見:中村 邦夫・友枝 雄人
地頭:香川 靖嗣

※狂言「痩松」
シテ・山賊 山本 東次郎
アド・女  山本 則重        

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