「椿三十郎」…いまふう時代ドラマ

リメイク流行りのこのごろである。
わたしが若いときの
映画や音楽が
キャストや歌い手を変えて
上映されたり街に流れたりしている。

たとえば「三丁目の夕日」、テレビドラマ「点と線」
子供の頃の風景は懐かしく
違いをみつけてひそかによろこんでみたりする。
知らないこともあるけれど
テレビがなかった昔だから、空白になっている部分に
こうだよ、と差し出される映像は新鮮だ。

超大作と評判の高い
「椿三十郎」を見る。
出演者が気に入っているのと、
監督が森田芳光であること。
どちらかと言えば、年の近い監督が、どんな風に
名作を作り直すのかが興味あるところだ。

そして決定的なのが
「台詞は原作のまま」だということ。
黒沢監督のそれは、リバイバルで見た。
音声がよくなく、会話がよく聞き取れなかったからだ。

面白かったのが客層。
わたしの両隣は、ほぼ同年代の男性がひとりで来ていた。
カップルもちらほらだが全員シルバー世代、
明るくなってからわかったのだけど、
若い人は二人か三人だった。
ほぼ八割の入りだったのに、である。

ロビーには家族連れも若いカップルもあらゆる年代が
揃っていたので、
この映画は「団塊世代」向けなのかな、と思った。
しかしそれでは大ヒットにならないじゃないか、とも。

原作が山本周五郎である。
今回のほうがコメディタッチだから原作に近い。
主役はまったく違うタイプだから
比べる気もないが、織田裕二はけっこう喜劇が似合う。
なんとなく勘違いな雰囲気がそう見えるのだろう。

ちっとも強そうではないが、めげずに明るくていい。
時々「踊る…」の青島刑事風の顔になってしまう。
その顔とセリフが合わないときがしばしばある。

で、わたしはセットの出来やカメラワークを
自分なりに楽しんだ。
若侍役の若手俳優の立ち居振る舞いが
様になっていたので感心し、
中村玉緒の奥方がとぼけてていいなあ、と笑いしていた。

「間宮兄弟」のときと同じで
穏やかななかに細やかな神経が行き届いていて
なかなかに素敵な風情がある。
椿の花はみっしりと咲き、
登場人物の着物はいつもぱりっとしている。
総じて、古風だが時代劇「風」になっているところが
新し味かもしれない。

ライバル役の豊川悦史、
前作の仲代達也が、ものすごく印象的な悪役だったので
どんなに激しいかと思えば、
飄々とした感じなど、織田よりよほど三十郎の雰囲気が出ていた。
仲代はぎょろりとした目が精悍だったが
もっと知的な狡い感じに作っているのがよかった。
着物も彼はよく似合うのだ。

その割には悪役の三人組が軽くて物足りなかったが
中では西岡徳馬が、むかしの東映時代劇に出てきそうな
太い眉にくっきりした目張りで似合っていた。

楽しめる娯楽作品に仕上がっていたと思うが
「HERO」に比べれば
ずいぶんと興業収入は少ないそうだ。
リメイクよりお洒落な現代もののほうが成績が
あがるのかな。

台詞の間合いがゆったりしているのが
とても心地よく、時代劇だから風景がたっぷりで
目もちかちかしないし、
五十代以上なら楽しめる、と思うのだが。

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ヘア・スプレー&クワイエットルームにようこそ

映画がいつも千円で見られるようになって、
さあ、どんどん見に行こう、と意気込んでいたが
だからといって毎週とはいかない。
せいぜい月一本、
この記事は先月と先々月に見たぶんである。

ことしと来年はミュージカルの当たり年
(わたしにとって)
夏は「レ・ミゼラブル」を見たし
お正月には「テイク・フライト」
二月には「ベガーズ・オペラ」

「…怪人」や「ネコ」を見ていたころは
はやりものだから、という気分で
でかけたものだったが
「レ・ミゼラブル」に行ったあたりからは
ふつうの芝居と同じ感覚で気楽に楽しめるようになった。

映画「ヘア・スプレー」、これはブロードウェイミュージカル。
舞台を観に行くほどの熱意は無かったが
千円デイにはもってこいなので出かける。

そしてこれが大当たり
イントロからダンスの楽しさがいっぱいだ。
ちびデブちゃん、トレイシーのキュートさが全開で
リズムとメロディは六十年代の懐かしいもの。

時期的にはわたしの子供時代である。
アメリカのホームドラマやショー番組、
西部劇にオールデイズ、たくさん見たっけ。
懐かしいったらありゃしない。

自分のおデブを気にせずに、
明るく前向きなトレイシーの姿に
不器用なパパも、太りすぎで自己嫌悪のママも
(ママ役があのジョン・トラボルタである。
女装して肉襦袢着てても存在感がある怪演)

ダンスとミス○○選出のエピソードだけなら、
ほんに青春ものなのだが
アメリカ映画の底力、なのかな、
しっかり時代の流れをつかまえている。
「黒人差別問題」
今では当然の権利が、むかしは一切許されていなかったことを、
さらりと描いてあるのがすごいところ。

デモに参加するトレイシーは
難しいことなんて何にも言わず、
「だって友だちだもん」と、にこにこ笑って歩いてる。
その自然さがすてきです。
ドタバタと喜劇仕立ての部分と
この真面目さが相補って、
見た後の爽やかさの底にしっかりと苦味がベースになっている。

いま、現実のニュースを見ていて
萎えてしまいそうな「希望をもつ」気持ちを
しっかり支えてくれる映画だった。
ちなみに、サントラは入手、DVDも多分購入予定。


もう一本
松尾スズキ監督作品
「クワイエット・ルームにようこそ」
「静かな部屋」とは精神病院の隔離室のことである。

「大人計画」の芝居、見たのはDVD「キレイ」のみだが
映画「ユメ十夜」でスズキ氏の短編をみた。

“いまどき”を描いたこの映画、
風景や背景より、人物像に焦点が当たっている。
セリフが時々どきっとするほど切ない。
主演は内田有紀
年を重ねてほどよい感じ、といっても
わたしはこの人のドラマをあまり見たことがないのだけれど。
スタイルもいいし声もきれいだ。

脇役陣では、主人公の同棲相手の
しょぼくれた構成作家がとてもいい。
(演じるのは宮藤官九郎)
気弱でつまらぬ男にみえるが
じつは主人公のことをよくよく理解している。

手違いから入院することになった彼女が
数日の間にそこで出会ったことがらと人々を描いている。
患者や関係者に、
大竹しのぶ、蒼井優、妻夫木聡、りょう、など
豪華な役者をたっぷり使っている。
くっきりと陰影があって派手な色彩は、以前映画でみた
松尾スズキの世界とおなじだ。

おどろおどろしい雰囲気で始まるが
最後には主人公は、彼氏とも別れてひとりで退院する。
ラストシーンは
それまでの陰にこもった院内の風景をぬぐいさるように

自転車で疾走する患者(いい味わい・筒井真理子)
と、それを車中からみかける主人公の明るいまなざしが
みているこちらをほっとさせる。
旅は暗く深かったね、とねぎらいたくなった。

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「コリオレイナス」…英雄のなかみ

舞台をテレビ中継で見る機会が増えた。
去年からしばしば舞台に足を運んだから
少し雰囲気に慣れてきたようだ。

お能は舞台中継に向いてない、と思う。
橋がかりから出るときの
シテの風情がわかりにくいことや
お囃子と演者の距離感が変だったりすると
やっぱり、能楽堂に行かないと、と思うのだ。

能楽堂だと比較的こじんまりとした空間だから
たとえ後方の席でも
充分に謡も舞もお囃子も堪能できるからである。
(歌舞伎も文楽も生で見た方がずっとよい)

しかし
お芝居となるとちょっと違う。
特に大劇場だと、
座った席によって、感動が大幅に違うからだ。
わたしの経験では
劇団新感線の公演は
一度は劇場で、細かい部分はDVDで
楽しむのがGOOD。

登場人物が多いのと、舞台が広いので
一度に全体を見渡すことは無理だからだ。
小劇場系の芝居でも、
役者の表情まで見たいと思えば
DVDやテレビ中継に頼るしかない。

衛星放送では、伝統芸能や芝居の
専門チャンネルがあるらしいが、
地上波しか受けられない我が家では
デジタル放送まではガマンなのだ。

前置きが長くなってしまった。
蜷川さん演出の「コリオレイナス」
これを生でみようと思えば
埼玉まで行かなくてはならないところだ。
近くの大劇場でも多分上演されただろうが
公演日がすくなく
都合がつくとは限らない。

国営放送の「芸術劇場」枠は
その点でとてもありがたい。
難を言えば、エンターテインメント系が少ない。
暗く、どっしりしたものが中心で
くたびれている時にはちょっと苦しい。

ここ最近
蜷川さん演出シェイクスピアを二本見た。
どちらも喜劇だったから
悲劇も見たかった。
まったく知らなかったこの作品、
のっけから暗そうで、不安だったがとにかく録画した。

まるでお能の「序破急」のように、
前半の密度がゆったりと濃い。
ひとりひとりの人物が
初めの部分でしっかり描かれている。
役者も達者揃いである。

母親役は白石加代子。
粘っこい演技が
この劇によく似合っている。
「国盗人」のときは、主な役が全部彼女で
さすがに参った。
ユングの言う“グレート・マザー”タイプ。
この母ののぞみは自分の育てた息子を
自分の思うように操縦することだ。

ロボットのようなコリオレイナス、
驚くほど強く
戦いには常に勝利する。
しかし元老院議員になるために、
民衆の支持を得ようとするとき
彼の強い「エリート」意識が
市民の反感を買う。
追放された彼は、なんと敵国に飛び込むのだ。

母から離れて
ひとりだちできるよい機会のはずだった。
ところが、自分を追った市民たちを憎むあまり
彼は感情にまかせて、
自分のふるさと、ローマを滅ぼそうとする。

敵国で将軍になれたのは
ライバルのオーフィディアスが
ふところ深く彼を迎えたからだった。
その恩人にさえ高慢に命令し
あと少しでローマに迫ろうとしたとき。

ローマを攻めないでくれ、と頼みに来たのは
妻と子と母だった。
わが子と妻の哀訴は退けることができたが
母だけは、彼の「情」に訴えかけることができた。

悩んだ末に彼が出した結論は
今度はローマに戻ってローマのために戦う、だった。
敵国ヴォルサイのために戦って得た勝利を数え上げ
「これだけの仕事をしたのだから」と
あっさりと言いきり、別れを告げる。
彼の心のなかでは矛盾のないことだから。

オーフィディアスはコリオレイナスに撃ちかかる。
このまま彼を行かせれば、
またこの国はローマに蹂躙されるに違いないから。
長い年月、お互いに戦っていたから
コリオレイナスの性格(その純粋な高慢さ)をよく知り、
再びの寝返りを危ぶんでいたのだ。
もちろん、彼自身の地位を保つ必要もある。
ここで勝負を挑むのは
オーフィディアスにとっても賭けだったのだ。

大階段での長い戦いの末に
オーフィディアスの剣はコリオレイナスの喉を貫く。
血しぶきの中に倒れる彼を
しっかりと抱きとめるオーフィディアス。
息が絶えたときはじめて
彼はコリオレイナスを讃える。
その比類ない強さと高潔さ、
純粋な軍神ぶりを。

そう、確かに彼は強かった。
でも心は、母によく思われたい子どものまま。
人と人の関係についてもよくわからず、
思いやりをまだ持たない子どものまま。

こんな人が身の回りにいたとするなら
父親代わりのメニーニアスのような、
優しい心で接することができないければ、
ただ迷惑で腹立たしいだろう。
賢く、家柄もよい彼は、
貧乏で愚かな「市民たち」をしんそこ馬鹿にしていた。
ひとを馬鹿にすれば
その結果は自分にかえってくる。

だから、彼の死は自業自得としかいいようがない。

役者たちの熱演と、演出の妙、
舞台のほとんどを占める大階段。
暗い灰色が、この劇を象徴している。

ビデオテープを
全部見終わるには三日かかった。
登場人物の関係は、なんとか理解できたが
何せむかしの話、しっかりセリフを聞いていないと
わからないことばかり。

テレビで見ても力強く迫力満点。
実際の舞台はすごかったに違いない。
蜷川演出のシェイクスピアを
もっと色々見たいと思うが
こちらでは公演日数が少なすぎる。
冬の間に、(夏より冬のほうが動ける)
見られないかな、と
舞台のチラシをながめている。

主な配役
 唐沢寿明 :ケイアス・マーシアス・コリオレイナス
 白石加代子:ヴォラムニア(コリオレイナスの母)
 勝村政信 :タラス・オーフィディアス(ヴォルサイの将軍)
 香寿たつき:ヴァージリア(コリオレイナスの妻)
 吉田鋼太郎:メニーニアス・アグリッパ(コリオレイナスの友人)
 瑳川哲朗 :シシニアス・ヴェリュータス(護民官)

 原康義  :コミニアス
 大友龍三郎:タイタス・ラーシアス
 手塚秀彰 :ジューニアス・ブルータス

 その他   市民、兵士、召使い、神官たち、など多数

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「ガリレオ」を見る

探偵ガリレオで
湯川助教授を演じるのは
てっきり佐野史郎さんだと思っていた。
だって、文庫本の解説に書いてあったもの。

月9でドラマ化されると知り
主役は誰か
おおいに気になった。

発表されたのは福山雅治、
わたしにとっては「ひとつ屋根の下」の
ちい兄ちゃんの印象しかない。
彼の出ている番組はあんまり見ていないので
まじまじ顔を見るのは今回が初めてかも。

ワトソン役は小説とは異なり
若い女刑事、柴咲コウ
熱血な彼女と、変人福山の間に
何かが芽生える…と期待させるキャスティングである。

ところが
始まってすぐにびっくり。
犯人が割れている。
ゲストの唐沢寿明がそのひとだ。
進行にしたがって違和感は募る。
もともとこの小説は
湯川と草薙、ふたりのつかず離れずの関係と
謎解きの両面を
3分7分で描いている。
あり得ない謎を解く湯川の頭脳、
オカルトか、と思われる事件を
ていねいに「解題」するその手際がきもちよいのだ。

ドラマでは、福山ガリレオと、柴咲刑事、
二人の関係にかなり力点が置かれていて
その間に謎が挟まる、という具合だ。

実験の場面は
さすがに映像見ると面白いが
興味深いのはその部分だけ、と言ってよい。

視聴率はいいらしい。
これからは
ゲストが良ければ見ることにしよう。
と決めた2回目は
小市漫太郎が登場で
結局最後まで真面目に見た。


ちかごろドラマがつまらなくて困る。
映画や演劇のほうが面白いのだ。

テレビ局は
このドラマで「踊る大捜査線」のような
おいしい泥鰌を狙っているようだ。
このコンビで
映画「容疑者Xの献身」を映画化する、と予告があった。

湯川ガリレオシリーズの長編で
発表された年
ミステリーの賞を総なめにした話題作。
映画向きに見えるだろうなあ。
場所(東京の川べり)
アパートの二つの部屋
豊富なトリックなどなど。
しかし東野さんの小説の底のほうに流れる
かすかな苦味は
映像化されるだろうか。

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「魔笛」

団塊の世代がリタイア時期に入り
生き生きしているのはもっぱら
四十代のような気がしている。

演劇でも映画でも小説でも
演出や監督や作家はいったいいくつなんだろうと
調べてみるとこの年代が多い。

私からは一回りより少し下
うなずきながら世界を共有できるひともあれば
わかるんだけどちょっと難しいじゃないか、と
思うこともしばしばだ。

わが町には、“芸術的な映画”専門の
ミニシネコンがあって
長い伝統を標榜している。
このシネマでは、座席は予約できず
売り場で買ったチケットに番号がついていて
上映十五分前にその順番に入室するしくみである。

映画館の周辺はオフィス街なので
早めに購入して時間待ち、をするにはやや不向きだ
十五分もあるけば繁華街なのだが
また戻ってこなければいけないのは面倒
シネマのあるビルは
高くてファッショナブルな店ばかりで
中年以上の我々がちょっとひとやすみ、とはいかない。

客層は、かなりの「映画通」や、
割引があるので見に来ました、と
はっきりわかる夫婦連れだったりする。

前おきが長くなったが
オペラ映画「魔笛」を見たのはこの映画館の
一番小さい会場だった。
一時間半前に購入して一ケタの番号を確保
集合時間に会場前に行くと
売り場からのアナウンスが
「満席ですのでこれからの方は
立ち見になります」と叫んでいた。

こんな地味な映画が「満席」とは、と
びっくりして首を捻った。
たぶん、一日に二回しか上映しないからだろう。
あとは夏休みのため、一般のシネコンに
かかっている映画がほとんど子供向け、というのが
主な理由かもしれない。

一番前は遠慮して
四列目に座る。
二時間半以上なので、そうっと出られるように
通路側の席にする。
みるみる内に席は埋まりきっちり満員。
隣と腕がふれあいそうなこの感覚は
あきらかに何十年も前の記憶だ。


常連らしいひとが
始まる前から映画評を話し合っている。
見る前から評判を聞いてしまうと
ちょっと引きずられて困る気がするので
なるたけ聞かないように、する。


監督はケネス・ブラナー
娘に尋ねてみたら知っていた
まだ四十代で、役者もやれば監督もする
演劇出身の才人だとか。

モーツァルトの有名なこのオペラ
と言って名前を覚えていただけだけど…。


オペラなんてほとんど見たことはない。
(後にも先にも一度だけ)
第一次世界大戦の兵士の服装で
主役のタミーノが登場する。

広々とした野原を俯瞰したカメラが寄ると
入り組んだ塹壕の中。
これがどのように「魔笛」に繋がるのだろうか。

心配することはなかった。
音楽がなり出したとたんに
不安は吹っ飛んで、画面にちゃんと集中できた。

寓話のようなお話だから
つじつまが合わなくても平気
むっちりと胸を強調した看護婦たちは
もともとは“女王”の侍女だし
その女王は戦車に乗ってどうみても戦いの女神
びしっとしてて怖い。
堂々と劇的なソプラノである。

女王が反発しているのが
帝王ザラストロ
でもこのふたり、もとは夫婦だったみたい。

場面は突然お城に移り
これはまあ、
ここはまた別の世界
戦いなどどこに行ったか、と首をかしげるほど
暮らしの雰囲気に満ちている。

その頂点に居るこの男は
撫で肩で生真面目な風采
それほど貫禄はないのに
声がすごいのなんの
聞いたとたんにひとめぼれしてしまう。

若い人より中年に
最近は親近感を覚えるわたし。
彼ザラストロはまるで
キリストのようにも見えるから
怖い顔している女王よりも
ずっと惹かれてしまうのだ。

歌詞は難しいし抽象的だしするけれど
音楽の軽やかさと
歌手の存在感と
若々しい恋人たちの愛らしさで
楽しいと言ってもいいくらいだった。

実際に舞台をみれば
また違った感想になるかもしれないが
生のオペラを見たいな、と思ったので
映画としてはよかったんだと思う。


延々と続く戦いの中
立ち並ぶ墓標をずっと映していく場面が
たいそう印象的だった
駆け抜ける迷彩服の戦士たちと
嘆く家族の大写し
いまでもこういう光景をよく見る。
見るたびに、つらい。

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「東京タワー」(リリー・フランキー)

原作は友だちの薦めで読んだが
「泣ける」ところまではいかなかった。
だからあまり期待しないで見に来たのがよかったのかもしれない。

淡々とした話の進み方がとてもよい。


東京タワーができたとき
わたしは小学生だった。
「…三百三十三メートル」という
フランク永井の歌を覚えている。
実際にタワーに登ったのはつい最近だけど


高層建築が少なかったのでひときわ立派にみえた。
トウキョウの象徴としてニュースで
しょっちゅうみたっけ。

そういう懐かしさがいっぱいだ。
暮らしの中にはなくても
テレビの中にあったものたち。

「炭坑節」は盆踊りで聞いていたし
三池炭坑は小学校でも習った大炭田
子供のころ覚えたことは忘れてないものだ。


主人公のボクは三人が交代して演じる。
子供のころのリリー、可愛い。
中学高校のリリーも上手い。

過去を見る主人公の目が優しい。
内田屋也哉子が
若さに溢れるオカン役、太めでむっちりとして
並みの女優さんより遥かに存在感があった。
年取ってからのオカン、樹木希林とは親娘だから
骨格がそっくりで声もそっくり。
何の違和感もなくすいとお話に入れる。

大人のボクを演じるオダギリジョー、
優柔不断で結構遊んでいて
どうしようもない感じがよく出ている。
「芸術」系だから服装の感覚が派手だ。
赤やピンクのシャツに
ぴちぴちのジーンズをはいてひょうろひょろしている。

マフラーやコートなどのきざっぽさも
都会にすっかりなじんだ「地方」の青年らしさを
よく計算したファッションだ。

そう思うのは
昔風の(昭和三十年代)服装のままのオカンやオトンが
驚くほどの存在感だから。
飲み屋もその客も流れている有線も
細部まで、しっかり時代を映しているのが嬉しい。

それなのに
時代によりかかったストーリーではなくて
親と子のドラマであることが
気持が伝わる理由だろう。

オカンもボクも言葉に出しては
過剰に”親子の情”を語らない。

べったりとした
関係は省き、
エピソードの間あいだに
ボクの静かなモノローグの語りが入る。
オダギリの声が落ち着いていて聞きやすかった。

時があちこち行き来するから
あたまからのお涙ちょうだいに
ならなかったのかもしれない。

すごくはまり役なのがオトンの
小林薫さん。
めちゃくちゃ…だけど
ええかっこしいだけど
ちゃんとオカンに会いに来るくらいの
優しさはもっている
もう、いまの東京には似合わないオッサン。

「『リアップ』で毛が生えてくるで」とオトンは言い
オカンはもじもじ指輪をいじりながら
「そうね」と受ける。
気の利いたことが言えない不器用なふたりの会話だ。

ウサギを膝に乗せて長いことなで続ける場面。
オカンの葬儀のときに
「挨拶はせんから」といっていたけど
泣き続ける息子を見やって
しかたなく「喪主挨拶」を代わったあげくに
やっぱり泣いてしまったところ
(映像では少しだけしか映さないが)

なれそめのころ、オトンとオカンが
二人でダンスを踊る場面がある。
曲は「キサスキサス」
歌はザピーナッツ
それだけで歌を知ってるわたしには充分だった。
也哉子さんがとても美しく見えた。

脇役が粒ぞろいで
ワンシーンしか出ないのに
有名な役者さんだらけなのは
脚本が松尾さんだからかな。

感情を抑え気味の脚本で
間がゆったりしていて、年よりにも見やすかった。

ほとんどの場面は“ボク”が見たことだけれど
唯一オカンが、炭住を出て新幹線に乗り
東京に行く場面だけは、違う。
彼の知らないオカンの気持は
仮面のような化粧にあらわれている、と思える。
バックに炭坑節が流れる。
それは挽歌に聞こえる。
生まれ育った故郷を後にする母の
また寂れていく炭坑の
過去に捧げられたうたなのだろう。

二人の関係がぎくしゃくしていたこともあると
本のほうには描かれているが、
映画ではさらりと
「生返事するボクと遠慮がちなオカン」との
会話で済ませていて、心憎いばかりだ。

最後に、東京タワーに登る、ボクと元の彼女。
張りつめた葬儀のシーンとはがらっと変わり、
画面いっぱいにタワーの中から見える
いまの東京が広がる。

街並みのうえに夕映えの空、
東京の自然はこの空なのだろうな、
オカンもこの光景をみているのだろう。

もらい泣きしてしまった場面がふたつ

うわごとをいうばあちゃん(渡辺美佐子)とボク、
病院での最後の日々を過ごすオカンと見ているボク。
大事なとき、ひとはごく当たり前なことしか
言えないのだね。

やたらに字の多いパンフレットも
年配向けかもしれない。
中年、ないしはそれ以上の客が目立った。

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どんな夢を…「ユメ十夜」

子供のときに読んだきりの「夢十夜」
今回の映画の題名は「ユメ十夜」。
十人の監督が一話づつ撮る、という惹き文句が魅力で
でかけてみた。

毎度おなじみの単館系シネコン、
早めに行って番号札を貰ってから、ゆっくりすればいいのだ。
ちょっと困るのは
周辺がビジネス街だから、
時間をつぶしにくいということ。

本屋があればわたしはOKなのだが、
デパートの書籍売り場ではちょっと物足りない。

会場は三つある。
同じくらいの年齢の
女性がロビーに山盛り。
韓流映画「夏の扉」を見に来た人たちのようだ。
「ユメ十夜」は一番小さい会場で、
椅子の数は六十席、二列目に座ってみたが
少々前過ぎで首が凝った。


パンフレットには、予算は一律、とあった。
ざっと監督の名前を見て、
おや、わたしの知っている人はたった四人だな、と
ちょっと淋しい気分だ。

上映時間は二時間だが、次の話は…と期待して本の
見ていたらすぐに終わってしまった。
ひとつの話が十五分程度。

漱石が「本人」として出てくるのと来ないのと
監督によって二通りに分かれる。
わたしは漱石が出ないほうが面白かった。
どうしても、写真で知っている漱石と
画面の俳優を比べてしまうからである。

一夜と二夜は、わたしも知っている
ベテラン監督、実相寺昭雄と市川崑、
画面のつくりが他の若手と全然違う。
実相寺さんは、見事にシュールで派手(色合いはSF風)
時間の扱いのめまぐるしさが枠をはみ出していて
それなのに、明治の味わいもあって面白い。
一方、市川さんは「無声映画」のしつらえ。
白黒画面の中、色は、主人公の武士が持つ、
短刀の鞘の朱のみ。
筋立ても原作に忠実でいたってシンプルだ。

この二話を別格として
面白かったのは六夜(松尾スズキ)
九夜(西川美和)、十夜(山口雄大)の三つだった。

六夜は“運慶が仁王を彫る”話。
運慶役がTOZAWAさんで彼のダンスが圧巻である。
アニメの中でしか見られないような動きの連続だ。
たくさんの観客が不思議な衣装で見守っている。
主役は阿部サダヲさん、
真似をするダンスの様子が可愛らしくエネルギッシュ。
結局彼のダンスによって、木の中から現れるのは
「仁王」ならぬ「鮭を捕るクマ」で実に可笑しい。
笑いが入るのが松尾さんらしい。
話自体を 石原良純さんの「ユメ」とくるくるっと
纏めてしまうラストも後味がよい。

十夜は“豚に舐められた男”の話。
主役の松山ケンイチさんが雰囲気のある美形で
元の話を思い切り改変して、
アニメ風に仕上げてあり、オチまで変えてあるのだけれど
それが無理なく続いているのがよかった。
若い監督の作る話には必ずと言っていいほど
おどろおどろしく画面に作り物が登場するのだが
山口さんのこれは、
常にくすっと笑いたくなる部分があって、
わざとらしさを相殺している。

本上まなみさんの美しい着物姿と、豚に変化していく過程の
あられのなさの差が、たいそう面白い。

前後したが九夜の監督は西川美和。
“お百度を踏む母”の話。
オダギリジョー目当てにみた「ゆれる」の監督さんだ。
始まった瞬間、「あ、この画面に見覚えがある」と思った。
母役の緒川たまきさんは姿のきれいな女優さんで、
神社の石段を上り下りする裸足の足もとさえ風情がある。

危なげな女と屈託のない男のちょうど真ん中に、
健気な子供が居る。
少年が開けるお宮の扉ははるかな南方で
楽々と暮らす父の姿を見せ、
張り詰めた顔の母の手から
お百度を数える碁石が落ちる。

暗い境内から海の向こうへ、かかった橋の上で
身を揉んで悲しむ女がおり、
それを見上げる子供がいる。
暗めの画面なのに鮮やかだ。


アニメーションの作品がひとつ。
七夜の“船から身を投げる男”の話。
西へ西へと向かう船は、
どうみても西洋の帆船である。
監督は天野喜孝と河原真明。
天野さんのイラストと言えば、
栗本薫や菊池秀行の小説の挿絵でなじみである。
この世のものとは思えぬ妖しさ美しさ、が
短すぎてどうしようもないほど単純な話に
味わいを添えている。
巨大なアゲハチョウの羽根が蓋になっている
ピアノを弾く妖精みたいなヒロイン、ウツロ。
ここでのソウセキは、
目だけ出した覆面につばの広い帽子を被った
アンニュイな美形の青年なのだ。

アニメだと、突飛なデフォルメも
異形のあやかしも、少しも違和感がない。

この話の最後は
赤い夕焼けに照らされて海を走る船の姿で終わる。
漱石の描いたものとは別ものかもしれないのだが
充分に切なく儚い夢の中の船であった。

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「硫黄島からの手紙」

冒頭、空からの硫黄島が映り
スリバチ山の全容が見える。
カメラが近づいたときに見えたのは
この島で戦死した人たちの記念碑だ。
山の見え方は前作の「父親たちの星条旗」と同じである。

この映画で「目」の役をするのは、
元はパン屋の西郷という兵士だ。
彼が出会ったできごとが次々と映し出され、
書き続ける手紙が読まれる。
もうひとり、司令官の栗林少将、
彼も家族にたくさんの手紙を書き送っていた。


栗林の下で指揮を執る対照的な二人。
国粋主義の伊藤中尉と
バロン西と呼ばれた西竹一。
彼はオリンピックの金メダリストだった。

援軍をもとめる栗林に下った
大本営の命令は
「島の死守、援軍は無い」という苛酷なものだった。

アメリカに留学した経験のある、栗林と西は、
戦いは圧倒的に不利だと知っていた。
それなのに、配下の将校たちは、
陸軍派と海軍派に分かれて主導権を争い、
司令官を軽視するものも多かった。

硫黄の噴出により草木は少なく南の島なので暑い。
暮らすには困難なこの島を
大本営は本気で守るつもりはなかったのだろう。
制海権を握った米軍は、
空爆ののち、大艦隊で攻撃してきた。

たくさんの戦艦から次々と吐き出される米軍兵士たち。
この場面は前作でもあったが、
日本軍の側から見ていると
それは自分の生の終わりを告げる光景だった。
熱狂的に「天皇陛下万歳」を唱える士官や兵。
開明的な栗林でさえ、「万歳」を叫ぶことに変わりはない。
ただ、人間的に兵士に接しようとするところが違う。
西郷はいじめにあっている時に彼に助けられる。


西郷たちの居場所の近くに
清水という新兵が内地からやって来た。
彼は「憲兵」だったと知って、
スパイとして送り込まれたのではないかと
みんなは疑った。
隊の兵士がどんどん死んでゆき
生き残った西郷と清水は、やっとお互いの身の上を知る。
脱走計画をたて、
先に脱走した清水は、「首尾よく」捕虜となるが
米軍兵士のちょっとした気分(面倒だから)で
撃ち殺されてしまう。


ついに弾丸も無くなり、兵力は分断され、
「死に急ぐなかれ」という栗林の命令も届かずに、
次々に無駄な突撃が行われる。
生き残りを集めて最後の戦闘を指揮する栗林は
兵士たちの先頭にたって
「天皇陛下万歳」を三唱したのち斬り込む。
アメリカに留学し、かの国の力を知り、友人も持ち、
記念に拳銃さえ贈られた彼にして、
「家族を守る」ため、と自分に言い聞かせて
死におもむくのだ。

しかし彼は一方では、
死を選ぶことの愚かさも知っていた。
西郷に書類の処分を任せたことは、
戦闘に参加しなくてすめば、
彼には生き延びる機会があると
考えたのではないだろうか。
結果として、西郷が壕の地面に埋めた手紙の束は、
希望のない戦いをしいられた彼らの心のうちを
私たちに伝えてくれた。

もうひとりの典型
死ぬことを恐れないと豪語し、
栗林に反感を持つ「皇軍兵士」。
彼、伊藤中尉は戦車に飛び込むために
体に爆弾を巻き付けて、ひとり機会を待つ。
死体のふりをして何日か後、
戦車は通らずかれの緊張は一挙にほどける。
肉体は無意識に生きることを選び
隠れていた壕でアメリカ軍に発見される。
彼と西郷との距離は大きい。

戦うことに疑問をもっていた西郷と
戦うことを目的にしていた伊藤、

正反対のふたりが生き残るという事実。
自国のみが正義ではなく、
相手の軍隊の兵士たちも、
人の子であり親である、という
まったく当たり前のことが、
すなおに描かれている。

朝鮮戦争を体験した、
イーストウッド監督だからこそ描けるのだろう。

アメリカ軍にも日本軍にも、平等に降ってくる死、
どの画面も死体だらけだ。
前線の兵士が一番先に使い捨てられる現実は、惨い。
印象にの凝った場面は、
手榴弾で自決する兵士たちの光景である。

手榴弾のピンを口にくわえて抜く寸前の
何とも言えぬ彼らの表情、
次の瞬間、爆音とともに彼らははじけ飛び
後には肉片が散らばるだけだ。
「戦死」とはこういうことも含むのか。
画面を眺めながら、慄えそうになった。


「父親たちの星条旗」と共通しているのは
戦いをみつめている視線だ。
淡々とくっきりと事実が描かれ
積み重なって、伝わってくるものがある。
「戦とはなんと空しいことか」


これらを過去のことを思ってはいけない。
多くの言葉を費やされる
メッセージやスローガンより、
感動は、静かだが深く残った。
なんとすばらしい「アメリカ映画」だろうか。

【配役】
栗林忠道中将…渡辺 謙
西郷…二宮 和也
バロン西…伊原 剛志
伊藤中尉…中村 獅童
花子…裕木 奈江

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「父親たちの星条旗」

イーストウッド監督のインタビューを見て、
第二部「硫黄島からの手紙」の前売り券を買った。
そしたら、
やっぱり第一部も見ないとな、と思って
平日の人少なな時間をねらって見に行った。
観客の年齢層は、先日の「椿山課長の七日間」と
同じくらい高い。
千円デイならもっと若い人も見るのだろうが。


色調が地味でほとんどモノクロに近い。
特に「硫黄島」での情景は、
惨たらしい場面を緩和するためにか
赤の色は暗い。


空から撮られた硫黄島の全景が
何度も何度も繰り返し映る。
スリバチ山はまるで恐竜の目のようだ。

スポットライトに浮かび上がるような主人公はいない。
兵士の日常のなかから
ごく普通の三人の兵隊が、取り上げられるそのさりげなさ。
上官の軍曹はいいひとで
命が助かる確率の高い、後方勤務の昇進を断って、
「約束」だからと兵たちと一緒に上陸する。
彼の年齢が二十歳代半ば。
兵たちはもっと若い。
十八、九の若者たちが、上陸用舟艇から、わらわらと
走り出し来る。

それに続いて、日本軍が彼らをねらい打ちにする
シーンが、長く続く。
島の内部に巡らされているトンネル。
木の根もと、草の陰から兵隊をねらう銃口。
あっというまに波打ち際は死体で埋め尽くされて。
艦砲射撃も空からの爆撃も効果がない。


「衛生兵」と闇の中から声がする。
彼は、穴の中でそれを聞く
すぐに走っていって、負傷した兵を看取ってやらねばならない。
だから親友を置いて声のするほうへ走った。
負傷兵は助からず、
帰ったとき穴の中には見知らぬ兵が居た。
親友はどこへ行ったのだろう。
彼は後々まで後悔する。

なぜかは後でわかる。
それまでは見ている私たちにも何が起こったのかわからない。
(※地中に掘られた日本軍の
トンネルの出口がその穴で
親友は地底に引きずり込まれ、拷問を受ける。
死に顔は映されない。それほどのひどさか、と)

三人とは
衛生兵のドク、インディアンのアイラ、
ちょっと気取りやのレニー。
三人がたまたま星条旗をあげなおしたときに、
(戦況が有利になったからではなく)
撮られた写真は、戦意高揚のための記事となり、
彼らは一気に英雄にまつりあげられた。

そして彼らはアメリカに召還され
戦費調達のための人寄せに使われることになった。
けばけばしいパレードや、旗を揚げる「実演」、
締めくくりに「国債を買ってください」と彼ら“英雄”が
お願いする筋書きだ。

波に乗ろうとするレニーと
酒浸りになるアイラと。
ちらちらとかいま見える「先住民」に対する差別。
ドクは黙々と、自分の務めを果たす。
「衛生兵」と呼ぶ声にしばしば脅かされながら。

島とアメリカ本土をドラマはいったりきたりする。
物資の豊富さで、アメリカ軍ははるかに勝っている。
あるときひとりが地下で起こった鈍い音を聞く。
それは生き残っていた日本兵が、自決した
手榴弾の爆発音だった。
血まみれのその壕の中がさっと一瞬映される。
そしてあっさり、
言い残すこともなく死んでいく兵士達。

“猿芝居”が終わって作られた英雄たちは忘れ去られる。

レニーは清掃人として(彼は学歴が無かったので)
一生を終わった。
有名人の名刺をためてあったが、
何の役にも立たなかった。
アイラは、故郷の居留地を離れて、
たったひとり行き倒れて亡くなる。

ドクだけは、映画のはじめの部分で
自分が語った夢のとおり、「葬儀会社」を経営し、
成功者として一生を終わった。

しかし彼は生前、
島で起こったことだけでなく
戦争に関する一切のことを
妻にも子にも話さなかったという。

ただひとこと、ドクが息子に語るエピソードがある。

「泳いでもいい」と許可が出て、
分隊は全員海に入ってぱちゃぱちゃとはしゃぐのだ。
みんなわかくて上官でさえ二十歳半ば、
戦闘の合間に、
まるで故郷の川に居るように
みんな楽しげに遊ぶのだ。
いそいそと靴を脱ぎ靴下を取り去って。


彼らのほとんどはそこで死んだ。


ドクの死後、残された遺品から息子ははじめて
父が、「英雄」だったことを知った。
戦友たちに話を聞き歩き、一冊の本にまとめた。

その本はベストセラーになり、
映画の権利をスピルバーグが取り、
クリント・イーストウッドが監督したのがこれである。

戦争を知り、分かることのできる最後の世代の彼は、
これを「感動的なお話」にせずに
ドキュメンタリーのように淡々と描いた。

くりかえし硫黄島は空から映される。

波打ち際に白い波
スリバチ山はこんもりと、
かって星条旗が翻った地点に、
今は記念碑があり、
一束の認識票が
吹きすぎる風にカラカラと鳴っている。

こころに残るのはその音と、
「衛生兵」と闇からたすけをもとめる声と。

終了後、
予告編で「硫黄島からの手紙」が数分。
こんどは、この島を要塞と変え
「5日で落とせると思った米軍を
1ヶ月の余も釘付けにした」
日本軍の物語である。

こちらは日本の俳優さんたちだから
どの人も顔を知っている。
イーストウッド監督が
どのようにもうひとつの「島」の
ものがたりを物語るのだろう。

今年中に見にゆきたい。

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「紙屋悦子の青春」…あの時代を知る人からのバトン

舞台劇を映画化した作品だ、と聞き
また黒木和雄監督の遺作、という点にも興味を惹かれて
またまた“むつかし映画”上映館に足を運ぶ。

黒木さんの名前だけは知っていて、
映画はまだみていなかった。
重い題材が多かったし、若いころATG系で上映された
映画は、とっつきにくかったので
「つまらなかったらやだな」と思ったからである。

戦後はすでに六十一年、
戦争を経験したひとたちは年老い、
教科書でしか知らない若い人が増え、
わたしの子供時代には当たり前だったことが、
どんどん変化してゆく中で、
戦前に生まれた人が描く“戦争”を
みておきたかった。

主役のふたり、原田知世、永瀬正敏、ふたりとも
老夫婦の役のときは若すぎ、
昭和二十年当時のときは老けすぎている。
カメラがアップになると、
メークの下から若さが浮いてくる。

病院の屋上でじっと入り日を見つめる男とその妻の
映像から映画は始まる。

ふたりが使う言葉は鹿児島弁。
この映画は最後まで、
地言葉(方言)でできていて、
それが音楽のようにきこえてくるとき、
話の中にすっぽり入れたことがわかる。

セットはやや作り物めいている。
たとえば、この家の春を飾る桜の木。
花がほころびはじめる日からこの映画は始まり、
爛漫の盛りの夜に、ひとつの恋が終わる。
幹が太くてまっすぐで、
老いた桜木のようにはみえない。
また家の前は土手になっていて、
行き来するひとは突然来て、帰るときは瞬間に、
見送る人の視界から消える。
この不自然な起伏、はまるで舞台だ。

そして「家」
あの時代の家に何があって、どんな暮らしぶりだったかが
次々と映し出されるときに
激しい懐かしさで満たされる。
私は戦後生まれだから、少し時代が
ずれているのにかかわらず、だ。
丸いちゃぶ台、柱時計。
蠅帳に箒に紺絣。
その時代を生きた人が撮る映像は
ものたちが、このためにつくられて
少し綺麗すぎていても
はっきりと呼吸している日常を見せてくれる。

私の子供時代には、
まだここに描かれている暮らしの半分ほどは残っていた。
祖母の記憶とともに存在している。
配給、という言葉と通い帳はあったが
もんぺは誰もはいていなかった。
絣の小切れはたくさんあった。

もとは小劇場で演じられたドラマだとかで
主な登場人物はたった五人。

主人公…紙屋悦子・原田知世(つつましい) 
その兄…紙屋安忠・小林薫(うまい)
その妻…紙屋ふさ・本上まなみ(きれい)
永与少尉…永瀨正敏
明石少尉…松岡俊介

しみじみ見ると原田知世はその秀でた額といい
こまやかな雰囲気といい実に古風でいい感じだ。
髪を真ん中で分けて束ねているのが
昔の女学生のようだ。

彼女の両親は、ついこの間の「東京大空襲」で
なくなったのだ、という。
思い出話に、つい顔がほころぶこともあるが、
食事をしながら淡々と会話は進む。
いまはこの兄だけが、彼女の唯一の肉親なのだ。

兄は技術者だから、徴用に取られる。
妻は悦子と同い年で同級生
兄嫁というよりむしろ仲の良い友達どうしだ。
時には、義姉として、ちょっと大人ぶったりもする。
この役を演じる本上まなみの、うなじから肩の線が
プリマの立ち姿のように美しい。
さりげなくひっつめた髪も豊かだし
声が華やかで、明るい。
彼女の存在が、地味な兄妹のさびしい気分を
和らげているようだ。

悦子と見合いし、結婚する永与少尉(永瀨)は
真面目で野暮ったいところが好感が持てる。
悦子の思い人は明石少尉のほうなのだが、
戦争も終わりに近づいたこの頃、
航空隊の彼は「特攻」に行かねばならない。

その運命を知って、彼は事務方の永与に悦子を託す。
たった一通の手紙だけを残して、
明石は出撃して還らなかった。
残された二人は結ばれて、長い月日がたったいま
「自分が生き残った意味は何だろう」と永与はつぶやく。
彼に残された時間は、あと僅かなのだ。
あの戦争を体験したひとたちはそれぞれに
自分のドラマを持っているはず。

いまは穏やかに凪いでいる海のようでも、
突然荒々しくうねることがある。
悦子と永与を結ぶ風景は、
音を立てて砕ける波の音だ。
初めてであった昔にも聞こえ、
いのちの黄昏の病院の屋上でも、
ふたりはそれぞれ、うねって砕ける
波の音をきいている。肩を寄せ合ってただ黙って。


ある時代を生きたひとたちが去っていくと
消えてしまう数々のことがらがある。
ものすごい勢いで「進歩」し続ける時代の
表面には現れない流れが、
だんだん細くなって行く気がする。

子供にときはたくさんの「あの」戦争の話を
みたりきいたりした。
ラジオでは「引き揚げ者」の名前を毎日放送していたし、
戦災孤児のドラマがヒットした。
そもそもわたしたちが、「○○の世代」と言われるほどに
たくさん産まれたのは、
戦争がおわったからなのだ。

パンフレットで、悦子と永与が縁側に並んで腰掛けている。
とても幸せそうに見える。
過ぎたことはみな美しく見えるのかも知れない。

巻末にシナリオが載っている。
「愛国」という言葉を最近はよくみかける。
気持ちがざらついたら、それを読み、
主人公たちがしたように目を閉じて、「波の音」を
聞きたい。

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「ゆれる」

観たのはしばらく前だが、「間宮兄弟」と同じ映画館。
今度も“兄弟”ものである。
主演はオダギリジョー、今売れている。
ストーリーはさておき、
彼をみるだけでもいいか、と思って出かける。

兄役に、香川照之。
かれもまた、大好きな俳優さんで、
にかっと笑った顔がとてもすてきである。
わたしに言わせれば、「充分二枚目」な人だ。

兄(香川)はエキセントリックな父に従順に
家業のガソリンスタンドを継ぎ
脱力したような“しけた”地方都市で黙々と働いている。

弟(オダジョ)は東京に出て、若手写真家として
活動している。
髪を赤くメッシュに染めて革ジャン着て、
絵に描いたような芸術家スタイルである。

兄はいつもいつも「いい人」として、
鈍くさえ見える顔を、くしゃくしゃにして笑う。
父と弟の間をつなごうとする。
長い間、その役割を続けてきたので、
何か父や弟に言いたくてもそれを口には出さない。
あんまり頭をさげすぎたので、
感情が摩滅しちゃったんじゃないか、と思うくらいに。

弟は母の法事(それともお葬式だったか)に
いやいや帰ってきた。
兄が知らせてきたからだ。
彼が顔をみせたとたんに父親の顔がこわばり
雰囲気は険悪になる。
仲裁する兄のズボンに父が投げたとっくりの酒が
したたってしみになる。
カメラはそのしみを克明に映す。

交際相手も限られるこの小さな町で
一緒に働く店員の女性に寄せる兄の恋は
真剣なものだった。

しかし彼女が、帰ってきた弟の姿を見た瞬間、
「この町から出たい」という思いが
はっきりと現実のものとなり始める。
彼女は昔、弟と付き合っていたからだ。

彼に誘われてすぐに応じる彼女。
兄の心寄せを知りながら、昔の女を抱く弟。

深夜、帰った彼がふと見ると
襖が少し開いていて
兄がせっせと洗濯物を畳んでいる後ろ姿があった。
声をかけようかどうしようかとしばらく迷う弟に
くるりと振り返った兄が言葉をかける。

まるで昔話のように怖い場面だ。
「彼女はお酒が強いから困ったろ」という問いに
つい、「そうなんだ」と同意してしまう弟。
その瞬間、すべてを兄は知ったのだ。
この場面は怖くて少しかなしい。

つぎに印象的なのは、
次の日に三人が出かける近郊の吊り橋。
流れはけっこう速い。
昨日の出会いで、気持ちがこの町から離れた女は
兄に冷たくつれない。
そんな彼女をうっとうしいとおもう弟は彼女にすげない。
ささいな行き違いから女は兄をひどく罵り
かっとなった兄は女を突き飛ばす。
すぐに元の「いい人」に戻って、手を差しのべたのに、
女は後ずさって、朽ちた吊り橋のすきまから転落する。

ひとり離れてカメラを構える弟の向こうに
一直線に吊り橋がみえる。
美しい構図なのだが実は、
橋は朽ちていて、ひとりだけしか橋の上には居られない。
二人が乗ってしまったから、
橋はどちらか一人を落とさねばならなかった。
繋ぐものとしての橋の上で起こった事故は
黙ってひとの関係を繋ぎ、
繕い続けていた兄の心を激しく乱す。

支離滅裂になった兄の言動を支えきれず、
自分の背信を知っていた兄に対する恐怖もあって、
弟はぎりぎりのところで証言を翻す。
その結果兄は罪に問われる。

弟は逃げたのだ。
自分が信じられなくなって。
そして昔から決して動かないものとしてあった兄の像が
面会に行くたびに崩れてしまったことに
耐えられなくて。

「家」を支えることを拒否して都会になじんだ彼は
今はそれなりに安定して成功した写真家になっている。
もう髪は染めてはいない。
あれから七年経ったのだ。

兄が出獄することを聞いても、
かたくなに、かかわりたくないと言う。


過去をまとってあの町からやってきた青年は
働き手の兄がいなくなった後、
父のスタンドを支えてくれていた。
その間に結婚して、穏やかに生きていた。

断った後に、ふと思い出すこども時代の記憶の数々。
思いこみであの日の記憶を曲げていたのだと気づいて、
彼は車を飛ばす…しかし兄はもう出所した後だった。

必死で走りまわる車の窓越しにバス停が見える。
その手前に、
昔と少しも変わらない兄が歩いている。
やってくるバスの行き先は遠い「都会」だ。

彼は大声で兄を呼ぶ。
兄は顔を上げ、ゆるやかに微笑する。
その笑顔をやってきたバスが隠す。

映画はそこで終わっている。
監督がノベライズ本を出していたので立ち読みしてみたが
やっぱりさいごはそこで終わっていた。

さて、とわたしはおもう。
兄弟は抱き合って再出発したのだろうか。
それとも、と。
わたしは、兄はバスに乗るのだろうと思った。
行ってみたかった都会に出て、
弟だけが知っていたことを自分も体験したあとで
「自分」を待っている田舎に帰り、
父の世話をし、家業のガソリンスタンドを継ぎ
(噂ははじめは喧しいかもしれないけれど)
それから、訪ねてきた弟と
仕事のことをゆっくり聞いたり
思い出話をしたりするんじゃないか、と。

心底からの和解ができるまでには
やっぱり時間がかかるだろうし。

パンフレットを読んだら、
監督が若いので驚いた。
カメラがとらえるのが人間の関係である、という点に
若さを感じた。
わたしが四十代だったら、
この激しいドラマにもっと感動したろうと思う。

しかしいまは、風景のほうが好きだ。
吊り橋のシーンに惹かれるのは、
中心にあるのが風景だからだ。

川の流れと緑と橋と風と花、
いいようもなく美しいなかで起こる、
人間たちの食い違いが、ちっぽけで哀しい。
弟がカメラからみる光景は
この七年間で変わっただろうか。

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「ライオンと魔女」

「ナルニア国物語」第一弾「ライオンと魔女」
その前宣伝のすごいこと。
“指輪”に勝るとも劣らない。
なにしろ最後に残った大物ファンタジーだから。

ただ「ライオン」は獅子とは違う。
麒麟がジラフと違うように。
「ライオン」とされているが
多分動物園にいるあれとはイコールではない。
作者の想像の中で、キリストはライオンであらわされたのだ。

ずいぶん若いときから、と言っても
二十歳は過ぎていたと思う。
面白くて何度も読んだ。
だから、映画になるとわかったときは、がっかりした。
自分の頭の中にある「ナルニア」と
映画が違っていたら、いやだったから。

それでも前売り券を買ってしまったのは、
観ないでこきおろすことはできないもの。
そして観てしまえば決して悪くはなかったので
すこうし安心した。
シリーズで続くのだから、最初から観ておかなくっちゃ。

というわけで、平日に、わざわざ空いていそうな
シネコンに行ってきた。

「ナルニア」の優れているところは
この現実の世界からあちらの世界へ、たやすく渡れることだ。
行き方はその時々で違うが。
この物語では衣装箪笥がその通路である。

そのシーンは何度も予告編でみたが、
映画館で見ると、、
何も他にない空き部屋に白い布を被ったまま
どっしりと立っているこのたんすを見れば
ルーシーでなくても、隠れ場所にしたくなるほど魅力的。

兄弟姉妹の俳優はそれなりにイメージ通りである。
ルーシーは登場した瞬間に、「オーケー」だった。
まっすぐで純粋で、彼女は
このお話のなかで一番頼もしい女性である。
剣を取ることさえもためらわないが、
聞く耳を持たない少女ではない。

ほかのきょうだいたちもなかなかだ。
屈折したエドマンドはもちろん、
常識的なスーザンや
長男ゆえの優柔不断なピーターも
ほぼ原作どおりだ。

ただ、ライオンの「声」私の好みでなくて残念だった。
ポスターで目につくのがこの大ライオン。
CG技術の粋を集めて、このライオンは演技するのだ。
眉をつりあげたライオンなんてみたくないなあ。

アスランが出てくるとなんとなく居心地が悪かった。

タムナスさんはよかった。(顔は人間だもん)
ビーバーさんは作り物過ぎて、ちょっと興ざめした。
これこそCGで作れないものかな?
ダムも意外にお粗末で、奥さんはめがねをかけていないし。
と細かいことは言うまい。
ちょっと作り物っぽ過ぎたのだ。

魔女がエドマンドに与える菓子=ターキシュ・デライトの
実物を見られたのは楽しかった。
(日本語版では“プリン”だったんだもの)
砂糖の粉で口の周りを白くして
あたふたとルーシーにそれを隠そうとする
情けないエドマンドの慌てぶりは、
本で読んだそのままだった。

戦闘シーンは映画のほうが迫力がある。
天幕や盾や剣や、兵士たちや、
いかにもハリウッドらしいケンタウロスや
野牛や一つ目たち。

CGで感動したのは「ケア・パラベル」の城。
地形は実物だそうだが、
挿絵そのままだった。
四つの王座があるこの城は最初から言い伝えとして
「詩」の形で出てくる。
『アダムの肉、アダムの骨が
 ケア・パラベルの王座について
 悪い時世がおわるもの。』

そして雪降るナルニアの野に
ぽつんと灯る街灯。
この謎は原作のシリーズでも後のほうで
種明かしされるのだが、
中で燃えている火(ガス灯なのかな)がきれいだ。
そこは「街灯あと野」と呼ばれている。

いま本棚から取り出してみると、
ページはかなり変色していた。
発行は1968年だが、購入したのはもうすこし後のようだ。
読むといつも気分が晴れ晴れして、何よりの
エネルギー源だった。
翻訳は瀬田貞二さん。
やさしくてわかりやすくてユーモアもあって大好き。
指輪物語も彼の訳で読んだ。

映画を観たひとが本も読んでくれるといいな。

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「蝉しぐれ」

夏の終わり頃からテレビや新聞で、
「二十年、ひとを思いつづけたことがありますか」と
盛んに宣伝していた。
藤沢周平原作の「蝉しぐれ」である。
黒土監督が十五年間あたためつづけた企画だそうだ。

先に宣伝を見すぎると嫌になったりするものだが、
このお話は、私も“二十年”愛読してきたので

いったいどんな「海坂藩」なのか気になって
普段は買わない前売券も確保した。
012-isigaki-gyakkou



東北の小藩、海坂藩の下級武士、牧文四郎は
お家騒動に巻き込まれて父を失った。
剣を修業し、旧禄に復して村回りの仕事に励む。
ほのかに思いを寄せていた隣家の少女、ふくは藩主の
側女となった。
ふくの産んだ子を巡って
またしても藩上層部の争いが起こる。
文四郎はふくの子を護ってたたかい、父の仇の
家老にも一矢を報いる。
………
年月が経ち、出家を目の前にしたふくは
文四郎を呼ぶ。
であったふたりは昔の思い出を語り合い、
駕籠で帰ってゆく彼女を文四郎は黙って見送る。
長い間思いつづけてきたふたりの
美しくもかなしい別れであった

025-amenoyou



自分の想像と違っていたら嫌だな、と心配だったけど、
まったくそんなことはなかった。
この映画では、風景が<話す>

春の桜は言うに及ばず、川も海も山も
畑も坂も雨も、静かに語りかけてくるのだ。
人間だけが生きているのではない。

向かいあった親子の間にくっきりと山が浮かび、
仲良しの友人たちと語らう主人公たちは
太い木の幹にまたがって、川風に吹かれつつ話をする。

当たり前のことだけど、
ひとつのエピソードが終わって画面が切り替わるときに
まず映る山や田、畦や案山子、蛙や蝶。
そう、こんなに自然にこだわった映画は珍しい。
しかも、この風景たちは、饒舌ではない。
藤沢氏がそうであるように、静かに言葉すくなに語る。
ただそこに居るだけのときもある。

観客は平日の昼だから少なくて、
友達が取ってくれた席は真正面、
映画だとちゃんと画面が見えて良い気分だ。
年配が圧倒的なのは「SHINOBI」とは違って
若向けの配役じゃないからだろう。

主演は市川染五郎と木村佳乃。
助演に加藤武をはじめなかなかの芸達者連中。
(柄本明、大滝秀治、緒形拳、パンフレットに載っている
助演の人たちのなんと地味なこと)

子役のふたり、石田卓也と佐津川愛美。
文四郎の骨ばった少年から青年に変わる年頃の
熱っぽい感じ、おふくのまっすぐな眼差し、
本で読んだとおりだ、とすぐに引き込まれてしまった。
川べりの洗い場、文章から想像していたものとは
違っていたけど、でもこの草いきれ、川に入って顔を洗ったり
蛇がうねったり、
そうだったのか、と涙ぐんでしまう。
こんな場所だったんだと。

ずっと知っていたような気がして、なつかしくてならない
そんな場面が次々と続く。
台詞の少なさは気にならない。
頭の中で、次のページがめくられて、勝手に言葉を
付け加えているから。
016-aozora



主役のふたり、染五郎は目下のお気に入りなので問題ない。
難があるとすれば、着物姿が板につきすぎていて、
他の若い出演者との間に差がありすぎることくらいか。
頭を下げただけでさまになるのだから。

木村佳乃は、実はあまり見たことのない女優さんだ。
この映画に限っては、
やや古風な目がひたむきなおふくにぴったりだし、
りんとした姿に心がこもっていた。
くちもとの整った愛らしさも綺麗だ。
別れのとき、駕籠の格子から見つめる目の強い輝きが
思いの強さをあらわすようで、印象的だった。

また、麿赤児と加藤武が並んで居る場面や、
緒形拳、大滝秀治などベテラン勢の演技が
見ごたえ抜群だ。


この映画にはCGは使われていない。
全部、実景である。
それだけでも今の映画には珍しい。
妥協せずに全国各地、ぴったりな景色を探しつづけた
監督のおかげで、

私も自分の「蝉しぐれ」の風景を彩色することができた。
これはなによりの喜びである。

最後に主題歌が一青窈
やさしくて不思議な旋律が、ちょうどよいのだ。
途中はもちろん最後のタイトルバックでも
歌は流れず音楽のみ。
これもひとつの考えなのだろう。
歌を覚えたいととても思った。

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「妖怪大戦争」

神木くんは十二歳だそうだ。
少年期が完成する年齢。

小柄でくっきりした瞳が愛らしく、
「いじめにあう都会の子供」役がぴたりだ。

弱々しかった子供が危機に出あって、
強く変わっていく、これは成長物語の常道だ。

タダシ(神木)は祭で「麒麟送子」に選ばれ、
“人間が使い捨てた機械”を「機械妖怪」につくり変え、
人類滅亡をたくらむ魔人「加藤」と対決し、
おとなに なる。

「麒麟」と「妖怪」(天狗や猩々や河童‥など)
舞台は鳥取県の境港市、
水木しげる記念館のある場所だ。
「妖怪」は水木と京極夏彦の合作。
主題歌は忌野清志郎(ぬらりひょんでも出演)
加藤は「帝都物語」出身で
作者の荒俣宏(妖怪役で出演)、宮部みゆき(教師役)
などゲストが多彩で、
ワンシーンづつの出演。
パンフレット(七百円)を事前に買っておいて、
とてもよかった。(パンフの出来もよい。
なにしろ遊び心満点で、
妖怪一覧までついてる)

ちょっと残念だったのは、
神木くんのせりふが少なかったことだ。
驚いたり、怖がったり、喜んだり、を全部
「おおーーー!」で片付けてしまわれていて、
彼のせりふが聞けなかった。
(上手さは「ハウルの動く城」で知っている)

中盤から、桃太郎みたいに鉢巻を締め
「麒麟送子と刺繍されたマントを着、
幅広のつるぎを手に縛り付け、と
眼福な格好をしてくれて楽しかった。

この映画のメッセージは
ひとつは神木くんの言葉
「ぼくは真っ白は嘘をついた」
(自分の利益のためにつくのが、“真っ赤”な嘘で、
ひとを思いやってつくのが“真っ白”な嘘。
それができてひとはおとなになっていく…のだそう)

ふたつめは、わたしが選んだ言葉
「戦争は腹が減るだけだ」
(これは水木さんの言葉。戦争で片手を失い、
南方の島でしばらくを過ごした人。
私が彼のマンガを、はじめて
読んだのは「ガロ」でだった。
水木さんの戦争ものは、悲惨を突き抜けて、明るい。
その作者ににぼそぼそとこう言われたら、
「はい、そうですか」と納得するしかないな。)

妖怪は競うことも戦うこともしないのだそうで、
題名こそ「戦争」だが、
実際は“ええじゃないか”のように
妖怪の大群衆が踊るなかで、
偶然の出来事で「魔人」が自滅するのだ。

ウエーブしている妖怪たちの楽しそうな顔、顔、顔。
「いやいや、ええお祭やった」と言いつつ、
危なかったことに気づいてないのはほんとに幸せなことだ。

出演者がみんな楽しそうだから、見ているほうも楽しい。
小動物妖怪「すねこすり」が、作り物ってはっきりわかっていても
少しも減らない楽しさ。
これは水木ワールドなのだ。
慣れ親しんだ世界だから、少々の瑕も気にならない。
猫娘を探してみたり、ネズミ男はいなくてがっかり、と思ったり。

(子泣きジジイもいなくて残念だ。一反もめんは飛んでたが)

しっかりした世界の上に、
おとなになっていく少年の凛々しさと、
子供のころを忘れない大人の郷愁(宮迫好演)が
交叉する。

妖怪も魔人も、目にみえないだけで、いまも
わたしたちの傍に居るんだ、というラストは
人間が、捨てたもの(古びたものたち)に復讐される危険は
いつもある、ということを教える。

きっと
未来はこどもの視線の延長にあるのだろう。
おとなになったタダシには、
もう「すねこすり」は見えない。

こどもならきっと
「腹が減るだけの戦争をするなよ」という
妖怪からの呼びかけを聞くことができるのだろう。
そうあってほしい。

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「阿修羅城の瞳」

映画を映画館で
舞台の録画をDVDで…観た。

「阿修羅城の瞳」を。

このごろの染五郎さんの活躍を見ていて、
「悪くないな」と思っていた。
劇団「新感線」は、名前だけ知っていただけで、
舞台はみたことがない。
映画で楽しむのもいいかな、と思った。

監督が「陰陽師」の滝田さんなのも好感を持つ材料だった。
“いのうえかぶき”を滝田さんがどう表現するか。

行った、そして幸せになった。

いかにものお話で、はっきり言って「荒唐無稽」
きちんとした歴史ものではないことは「一目瞭然」

“恋をすると鬼(阿修羅)になる”がコピーで、
宮沢りえと染五郎、二人のショットが美しく新聞に出ていた。
設定は江戸時代、実在の人鶴屋南北が登場人物、となれば
劇中劇のだしものも「四谷怪談」にキマリ。
伊右衛門はもちろん染五郎だ(稽古風景だけで残念)。

歌舞伎役者としての染五郎の台詞回しはこなれている。
また殺陣が抜群に綺麗で
着流しで切り下ろした型が見事に決まり舞を見ているようだ。

どうも私はこの「型」なるものに惹かれるらしくて、
その時点でほれぼれしてしまい、
ささいなことはみんな気にならなくなってしまった。
自分が鬼であることを、まだ知らないが、
不審な予感におびえる宮沢りえの立ち姿は
哀しさを含んだ鮮やかさに色気がある。
椿の形の“痣”が浮き出る肩を見せようと
衿をずらすときに捻る体が浮世絵のようだ。

映画に対する満足度は高かったが、
この話を舞台でって、いったいどんなふうに、と疑問に思い、
台詞で説明すると大変だし、とイメージが湧かなかった。

しかし、
DVDなら、天海祐希さんの“つばき”(阿修羅)だと知って、
ためらわずに購入した。
(乃南アサの創造したヒロイン、音道貴子役は彼女しかできない)

舞台は、
素晴らしかった。
息をもつかせぬスピーディな動き、
歌舞伎とロックが合わさった音楽効果、
奥行きのある舞台装置。
レーザー光線も使われて、光は多量で鮮明。
天海さんが劇中歌を歌い、
夏木マリが尼鬼姿で踊る。

脇キャラが豪華だが、詳細に語っていると、終わらないから省く。
その中でひとりだけ書いておこう。
高田聖子(桜姫役)。
大阪のおばさんがお姫様の格好をしているっ、とびっくりする。
いや、台詞は標準語なのだが味わいが大阪人なのだ。
(実際に関西弁自由自在の人だった)

悲しい「恋」のはずなのに、
三時間の中にちゃんと、ほっとしたり可笑しかったりする
場面が挟まれて、疲れを忘れるうまい仕組みにできている。

ラストは、映画とは微妙に違う。
二人が死によってむすばれる、映画の恋も涙をさそうが、
阿修羅が死んで、病葉出門(染五郎)が生き残る舞台は、
つばきの運命の悲しさが濃く迫る。

天海さんがまるで少年のように清々しく
女王のように高貴なだけに、
死ねない出門もさびしいだろうが、
いつ結ばれるかわからずに、長い時間を
待ちつづけねばならない阿修羅は、
最後に見せる笑顔が印象的なぶんだけ
よけいにかなしい。

かなしいかなしいふたりのうた

“せをはやみ いはにせかるるたきかはの 

     われてもすゑにあはむとぞおもふ”

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「紅天女」

「ガラスの仮面」の作者、美内すずえさんが、テレビに!
友人がビデオ撮って送ってくれました。

1976年といえば、娘が1歳のとき。
それから延々続いている漫画。

天才少女“北島マヤ”の物語。いまや伝説の大河漫画。

その作者は意外にも、オオサカのおばちゃんだった。
(昔はオオサカのねえちゃんやってんね(笑))
年頃も同じくらいの美内さんにとても親しみが増す。

「このごろは外へ出て、人に会うのが楽しくなりました」と笑うこの人を
みて、描く世界から始めていまや人間世界を取り込んでいこうとする

その情熱に打たれる。

いつまでも元気でいて下さいよ!美内先生。
読者として、私も最終巻まで読みたいです。

この「紅天女」が、ひょっとしたら、お能になるかもしれない、と
言う話を聞いた。

演じて欲しい方がひとり。
馥郁とした梅の香りを暖かく漂わせてくれるそのひとが
新作能のシテであればなあ。

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