「室温」…月の裏側を読むような

戯曲を読むのは久しぶり。
第三舞台の鴻上さん以来だ。
「謡」も“戯曲”と言えなくもないが
劇のシナリオとはちょっと違う。


芝居を見に行って彼の作品を“読みたい”と思った。
「噂の男」を演出した、
ケラリーノ・サンドロヴィッチがその人である。

「室温」(夜の音楽)を図書館で借りる。

主人と客のごく普通の会話から話は始まる。
五人の主要人物たちは身もともはっきりしていて
なんの不審な点もみつからない。

とぼけたやりとりの間に来客がある。
この家族の秘密が少しづつ明らかになっていく。

【登場人物】
海老沢十三(作家・心霊相談もしている)
間宮(その娘サオリの恋人)
キオリ(サオリの姉)
下平(警官)
赤井(海老沢のファン)
木村(タクシーの運転手)

少年、老人、ヴァーニャ。

少年たちに監禁されて殺された娘を持つ父親、と聞けば
「被害者」だと思うのが普通だが、
海老沢は怪しげな心霊相談所を開いて高い金をぼったくっている。
ガンで余命がいくばくもないことが途中でわかる。
そして 亡くなった娘のサオリを犯しつづけていたことも。

娘のキオリは父にひそかに薬を飲ませている。
彼女は父を恨んでいるのだ。
男達とつきあって金を巻き上げ、
心を病んだ母の治療のために使っている。

間宮は、サオリの恋人でありながら、同時に彼女を
虐待、監禁、焼き殺した犯人グループのひとりだ。

警官の下平はキオリが目当てでこの家に
入り浸っている。
へらへらしているが実は
目下捜査中の「連続少年殺人事件」の犯人である。

まともそうな木村、偶然に飛び込んできた彼は
窃盗犯である。
ちゃちだがトリックスター役だ。

このお話にはサブストーリーがある。
死んでしまった少年は、
はるかな空からドラマを見下ろしている。
あとふたりの死者、老人とヴァーニャさん、
彼らの話はみんな哀しい。
ただ見ることしかできない彼らにひきかえ
主人公「たち」の自我の強烈さがあぶりだされる。


そしてこのドラマは
キオリに憑依したサオリと間宮が
愛を確かめ合った瞬間に、
炎に巻かれるシーンで幕を閉じる。

すべてが 焼き尽くされる。
跡形もなく、浄化もされず。
救いのないように見えるのだけれど
私はこの劇が大好きだ。
「噂の男」と同じように。

字だけだから動きは見えない。
しかしセリフのひとつづつに
後になってわかる意味が含まれていて
ジグソーパズルのピースのように、ぴたりぴたりと
はまって絵ができあがっていく。
その過程が何とも言えず心地よい。

題材や人物描写は残酷で冷たいし、
ひとりを追いかけてゆく展開でもない。
笑っているうちにふと背筋が凍るようなセリフもある。
赤井(実はサオリを殺した少年達の主犯の姉)が
「どんなにあなたが間違っていても
わたしはあなたの味方だから」というとき。

間違っていて自分勝手なこの言葉に胸を突かれる。
同じような愛が「噂の男」にもあったから。


その「噂の男」のDVDが来た。
表情がはっきり見えて、劇場でみたときより
樂に見られる。
一度みたからでもあり、
テレビだと、距離が遠いからでもある。
この劇も主に絡まる人物は五人だ。
それに絡まるふたり、「骨なしポテト」の
二人組の存在感を大きく感じた。

収録が東京での公演のせいか
関西弁が微妙に共通語っぽい。
アップになると
じゅんさんが遠目より若く見える。

小さな悪さしかできないアキラのしょうもなさや、
ボンちゃんが一番善人らしいとか、
支配人のじっとりした目つきがよくわかるなど、
舞台のときは見逃していた部分が
はっきりと像を結ぶ。

だからといって受けた印象が変わることはない。
よくこなれた五人のせりふの受け渡しは
息つく暇もないし、
「室温」と同じように後半、一気に話が走り出すと
それにつれて痛いような気分になるのもまったく同じだ。

見終えて浮かぶ疑問も。
なぜアキラの霊ははモッシャンの味方をするんだろ、
とか。
私の答えもかわりなく
アキラはモッシャンが自分を思っているのを
よくわかっていたから、
自分が手を下さずに
(つまり彼との関係を壊さずに)
コンビを解消しようと思ったんだろう。

支配人の思慕をはねのけるのも、
かれが「正直」なためである。
でもそういう正直って何になるのだろう。

もうひとりまっ正直なひとがいる。
モッシャンこそは、どこをとっても気持はひたすら
アキラと居ることにかかっている。
だから人を殺しもした。
アキラに死なれた後の彼はまったくのうつろ、
奈落の底の暮らしがぴったりだ。

アキラのためだけを思って行われる殺人の数々、
純粋な輝くようなその心は反面とてもおそろしい。
劇の終わりに舞台に残っているのは、
正気ではないモッシャンだけだ。
彼の心はアキラでいっぱいだから、

輝いていた時を「止めよう」と
してはいけなかったのだ。無理なことをすると
そこから悪いものがうまれるから。
この舞台での関係は網の目よりもっと細かく、
そこから逃れることのできるものはいない。。
原因と結果が、めぐりめぐって、
感情が蒸気みたいに噴き出して、
そして結末へなだれ込む。

DVDには特典がついていて、
役者さん全員のインタビューがある。
どの人も楽しそうに話すのだが、
涙ぐんでいたのがふたりの橋本さんたちだ。
さとしさんは、先輩のじゅんさんと芝居ができるのが
とっても楽しそうだ。
じゅんさんも嬉しくてたまらないようだ。

みんながよいチームだったと口々に語る。
それを見ているだけで、
そんな舞台の時間を共有できて
ほんとうによかったと思う。

いつか、
KERAさんが演出する他の劇も見てみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

図書館と本屋さん

本を置くスペースが無いので
最近はたいてい図書館を利用している。
インターネット予約の制度ができ、
新しい本が回ってくるのはたいそうありがたいが、
図書館に行っても
新刊が棚にあることは非常に少ない。

「読みたい」本を読むには、この予約システムは
有り難いのだが、
ずらりと並んだ本を端から手に取り、
装幀や活字の大きさを確かめる喜びは、ない。

ちょうど、電子辞書と書籍の辞書の違いと同じだ。


小説に気持ちが動かない時期があって、
しばらくやさしい「経済」本を読んでいた。
書いてあるこれからの日本経済の予想は、
明るいものではなかったけれど、
お金の流れや、景気の変動についての
“現実的”な話を読んでいると、
同じことがらに対してまったく違った見方が
あるのだな、と妙に安心した。


この二、三回は、若い作家の本を集中的に借りた。

山崎ナオコーラ「浮世でランチ」
荻原浩 「押入のちよ」
朱川湊人「水銀虫」

そして戯曲だが、ケラリーノ・サンドロヴィッチ
    「カフカズ・ディック」「室温」
これについては、芝居「噂の男」との関連で
感想はまた今度。

ナオコーラさんは、うちで取っている新聞にコラムを
連載している。
毎週一回のそれで、少しづつ文体に慣れ、
彼女のものの見方の優しさを楽しめるようになった。

ここに書かれている、リアルタイムの「いま」の
感覚は、もう私にはわからないものだが、
活字になればかろうじて、
頭のどこかの受容体は活きているらしくて、
さらっと楽しく読めた。

荻原さんの短編集は、書評が好評だったので
かなりの予約待ち。
時期を置いて借りた。
確かに、面白いし
内容も年齢を問わない。
できのばらつきも少ない。

しかし、よく出来すぎていてそこが
私には物足りない。
きちっとツボに嵌ってはくるが、
以前に読んだあれこれを乗り越えて、
記憶がとどまることがすくない。

「あの日にドライブ」もそうだったし、
「明日の記憶」も同じだった。

その中で、リストラに遭った青年と、
ぶさいくな少女の幽霊、「ちよ」との
ほっこりした付き合いぶりを描いた「押入のちよ」は
ひとあじ違って面白かった。
少し過去の歴史の味付けがふりかけてあるのも
よく効いている。

朱川湊人の本は、棚にあったもう一冊も借りた。
題名は「わくらば日記」。
特殊な能力を持った病気の少女の物語。
彼女がその超能力(千里)で、
次々と謎を解いていくものである。
登場人物が、そのままドラマにできそうな
しあがりで、まだシリーズとして続くようだ。

「水銀虫」はかなりSFっぽく、
人の悪意をじわっと描き出す趣向になっている。
そのにじみ出しかたと表現のテンポが
わたしの好みと微妙に合わない。


最後は「買った」本。
「グレート・ギャツビー」村上春樹訳。

むかし、映画「華麗なるギャツビー」というのがあって、
主演がロバート・レッドフォードだった。(1974年)
映画は見そびれてしまったが、原作を読もうと
したが、数ページで断念した因縁の作品である。
何回か挑戦してみたが、読み終えることができなかった。

それが、春樹さんの訳だと、
すらすらとつっかえずに読めた。
語り手ニックと同化した訳者の視点は
何十年も待って熟成したもので
かすかな苦みが混じっている。
若いときにであい、
読みこんで自分の中にとりこんだ本。
春樹さん固有の文体を薄めて
作り上げた、愛情深い本である。

フィッツジェラルドは若くしてこの本を書いたが
若い時に春樹さんがこれを訳したなら、
きっとこの、やわらかでかなしげで
すみずみまで精緻な光景や人物を
表現することはできなかったのでは、と思う。

「六十歳」
それは、過去を余裕を持って
振り返ることができる年齢であり、
起こったものごとをかみしめることも出来る年齢である。
若さの意味がはっきり分かり、
「愛情」について
めちゃくちゃな思いこみもしないし
自分で自分の位置を修正することもなんとか可能。

そうなってはじめて、1920年代の話を
いまの言葉になおして
訳することができるのだろう。


好きな本としてあとふたつ、
春樹さんはあげている。
「カラマーゾフの兄弟」と「長いお別れ」
ドフトエフスキーはともかく、チャンドラーの
翻訳はとても読みたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「黒木和雄とその世界」

黒木監督の映画は、たった一本
遺作の「紙屋悦子の青春」しかみたことがない。

しかし、この本の著者の佐藤忠男さんは
映画評論家としてしょっちゅうお目にかかる名前だった。
おふたりが同い年だとは知らなかったし
生年月日にちゅういしたことも無かったが、
1930年生まれということは
戦争が終わった年に15歳、
はっきりと記憶の残る年代なのだ。

私は戦争を知らない。

母からも祖母からも、
戦争の話を聞いたことがない。
亡くなった父は、戦死ではなく病死だった。
親戚の伯父さんも、「内地勤務」だったそうだし。

戦争の「記憶」はまだ明らかだった時代だから
ラジオで聞いた「尋ね人」、
漫画雑誌や映画やテレビにまだまだ残っていた
底流のような何かを呼吸して育った。

新聞やテレビ、ラジオの戦争記事や
ドラマもいまとは違っていた。
体験した人が描く戦だから、
曖昧なところが少なかった。
描かれないものもあっただろうが、
歴史としてではなく近い過去の事実として、
戦は美化されていなかった。

まりつき歌に軍歌が残り、
「傷痍軍人」の格好をしたひとが
アコーディオンを弾いていたころだ。

少し大きくなってから、
あたりまえの与えられた平和の中で
「おとなたちは、
なんで戦争に反対しなかったんだろう」と
思ったこともあった。

そうして今、
戦争に対する見方が
子供の頃とは違ってしまった景色の中で、
この本に出会った。

黒木監督の作品は、どの映画も
わたしの若いときとぴったり重なっているので、
作品の名は記憶のなかにはっきりある。

難しそうだし芸術的すぎてと思い
一度も観なかったそれらが、
いまは懐かしくて涙が出そうになるなんて
ほんとうに不思議だ。

特に「TOMORROW明日」や「父とくらせば」
は、なぜ観に行かなかったのだろう、と悔やまれてならない。

佐藤さんの文章には
同じ年に生まれて同じ時代を生きたひとへの
エールがある。
むかし書かれた評論より、いまに近いものには
さらに色濃く。

ひとつづつの作品につけられた
丁寧な文章は、
先に逝ったひとへ贈る念入りな別れの言葉のようだ。
彼らの年代のひとたちが次々に、
時代の記憶を持ってあちらに行ってしまったら
世の中が
ぐるりと回転するような気がして
めがくらみそうになる。

何か覚えておかなければ、
せっかく残った映像だけでも、
自分の中に残しておかなくては。
そんな気がしてならない。

ひとの一生を季節にたとえれば、とは
とてもよくある陳腐な例だが、

秋が深まって寒さが身に、
じわっと沁みてくる夕暮れの
それでもまだ薄明るい山ぎわに
仄かな明るみがみえているような、

寂しいけどくっきり澄んだ風景が
とても親しく思える。
その中に、知らなかった戦争を知っておきたいと
思う気持ちがたしかに 、ある。

「黒木和雄とその世界」
  佐藤忠男著 現代書館発行

| | コメント (0) | トラックバック (2)

楽しいミステリ

ひらがなで「しゃばけ」、これは
いったいどんな意味、と不思議だったが
世にも珍しい、妖怪までも活躍するお江戸ミステリーである。
漢字で書くと「娑婆気」。
014himekingyohunsui


この本は娘が見つけてきて
あっというまに私もはまった。
作者は畠中恵さん、わかいひとだ。
図書館で既刊分をみつけて、
いまんとこ四冊読みあげた。
新聞広告に新刊の案内があった。
「うそうそ」
全巻ひらかなの題である。
「ぬしさまへ」「ねこのばば」「おまけのこ」
ここまでくると、立派だね。

筋がまたすっきりと読みやすい。
短編の連作だから、一区切りついたら、
「残念だけどきょうは寝よう」と思えるのがよろしい。

ここしばらく、宮部さんの江戸ものの短編の新作がなくて、
さびしかったところだから、
気分にぴったり合ったのだ。
解説を読んでみると、
なんと都筑道夫さんの“お弟子”さんだと。
「砂絵師」シリーズその他で、
若い頃せっせと読んだっけ。
軽やかで明るいところが似ているかも。
017derumizuiro

設定がいい。
主人公は病弱な若だんな、彼は一応人間だが、
脇役のふたり、人間のふりをしているが
実は「妖怪」なんである。

ひとり(一匹かな)は凄いような色男で
ふむふむ、絵面がうつくしいなと思う。
私の気に入りは犬神であるもうひとり(一匹)
「いかつくて力もち」の番頭、佐助さんだ。

畠中さんのこのシリーズ、明るいけれどそのなかに
ぽっちりと泣かせるセリフがそこここに見え隠れ、
その配分がほどほどで快いのである。
“名前は呼べば呼ぶほど、そのものにしっくりぴったり
してくる”というフレーズなど、ファンタジーっぷりが
生きている。

いかつい顔つきの癖に涙もろい、
犬神くんの居場所があって、
読んでるこちらもほっとする。
何せ、弘法さんのころから、自分の落ち着き先を
探していたという妖怪だもの。
いいひとに巡り会えてよかったね、と
読んでいるこっちも安心してお茶を啜れる、ってもん。

後は妖怪のオンパレードで、「明るい」怪奇ものが
好きな人にはぴかぴかのお薦め本だ。

人間のキャラでは、
岡っ引きの「日限りの親分」さんがいいな。
若だんなに外の風を持ってやってくるこのひと、
実は大店が振る舞ってくれる菓子も目当てだが
やっぱり自分の手柄や困りごとも言いたくて、
067gazania

病弱ゆえに時間があって
気持ちのやさしい若だんなのとこで
楽しい居場所をみつけているみたい。

それぞれの妖怪たちも、この長崎屋の若だんなが
けほけほ咳している離れが
一番おちつくみたいである。
ぎしぎしと古家をきしませて人を驚かす鳴家(やなり)も、
猫又も屏風覗きもあれもこれも。
居つけなかったのは、貧乏神くらいのものだよ。
 ※画像は無関係です※

| | コメント (0) | トラックバック (0)

本ときどき

本を読むにも波がある。
今回、ゴールデンウィーク用に借りた本たちは
どれもなかなかだった。
季節の変わり目は、体調が定まらないし
それでなくとも、最近、目が不調で、
長時間活字を追うのは、つらい。
活字「中毒」になってからずいぶん長い長い。
たばこはやめられたが、字を読むのはやめられそうにない。

☆ハヤカワミステリ「あなたに不利な証拠として」
    ローリー・リン・ドラモンド
アメリカの女性警官を描いた短編集

映画と同様、外国文学も、読み込むのに苦労するが
この本は短編だから、
わりとはやく読み終わることができた。
どのお話も少しづつ関連しており、
鮮やかすぎる結末ではないのが好感が持てる。

映画や本でしかわたしはアメリカを知らない。

そのアメリカと日本の関係を軽やかに書いた

☆街場のアメリカ論
  内田 樹

内田さんは最近になって出会ったひとで、
難しいことばを使わずに、
いまあることがらたちがさらっと解読されている。
押しつけてくる熱っぽさがないのが
おしゃれ。
ブログで書かれたことや、講義などが
本にまとめられているが
横書きのブログより、縦書きの書籍のほうが
頭に入りやすいので、図書館で予約した。
人気が高いこの本、三ヶ月待ちだった。

第二章 ジャンクで何か問題でも?…ファーストフード
第八章 アメリカン・ボディ…
      アメリカ人の身体と性

が特に印象的だった。
視点がちょっと斜めなのも、世代的なものか。
(彼は1950年生まれ)

ブログはその時々のニュースへのコメントや
趣味についての言及がまたたいそう面白い。

☆終末のフール、 魔王
  伊坂 幸太郎

「死神の精度」に続けて2冊読んだ。
どれもすらすら読めて「面白」かった。
共通テーマは“終末”のようだ。

ジャンルとしてはSFに入るのだろうか。
どこかひやりとした読後感である。
三十代だから若い。
歴史の話をしたらとても合わないだろうな。
(私が出会ったことがらは彼にとってはすでに歴史だから)

終末のフール、はあと三年で「小惑星が落ちてくる」
という設定。
限られた時間の中で人はどうふるまうか。
あるマンションの住人“たち”を取り上げた連作短編。
最後にほのぼのとした景色ができあがる。

いっぽう
「魔王」は憲法改正、アメリカ離れ、ファシズム、といった
“硬い”題材を使っての近未来もの。
かなり怖い書き方である。
とても興味深く読んだが、
ひとりのカリスマが権力を握る未来が
この国ではあり、だろうかな、とちょっと疑問。

退屈な小さな事実の積み重ねの結果、
現れてくる現実および近未来のほうが、怖いと思う。
(ただ、過程は生々しくリアルに描かれている)

第二次大戦の後、
世界は資本主義国と共産主義国に分かれた。
もう今となっては遠い過去の話と思われているが

☆文盲
  アゴタ・クリストフ

歴史に必ず出てくるはず、ソビエト連邦の指導者
スターリン圧制下に起こったハンガリー動乱。
(わたしでさえ、その時は子供だったから、
ただ「言葉」として知っていただけの)

その混乱の中、「国」を捨て、言葉も通じない異国で暮らし
新たに「言語」を手に入れて
書き続けた作家の自伝物語だ。

ページ数も少ないし、一時間あれば充分読める。

難しくも気取ってもいない。

だからといって軽くはない。

際だって「面白」いわけではないが
この小説は、重い。
淡々として重いこの本を解題する鍵は
“年表を頭の中でめくること”
内田さんの本にもあった。
このとき、他の場所で何が起こっていたか、を
知っているのと知らないのでは、受けとめ方が違う
という内容のことが。

何もかも、「済んだこと」にしてしまわない
安易に流れないつよさがこの本にはある。

番外
☆平安京散策
  角田 文衛
昔(主に平安時代)の建物は、どのあたりに在ったか、を
詳細に解き明かした「京都」本。

歴史と地理、両方の好奇心が満足させられる。
いまは、むかしをしのぶよすがは、ほとんど残っては
いないけれど、
京都の町なかの表示(○○通り○入下がる、または上がる)
といにしえの邸宅の場所を重ね合わせるだけでも
時間のたつのを忘れて楽しめた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

たっぷり(橋本「平家」を読む)

十三巻目でやっと追いついた、
橋本治の「双調平家物語」に。

最初に一巻を図書館で発見したのはいつだったろう。
ずっとその巻だけしか棚にないの
連載が中断になっていると思っていた。

全市の図書館がオンライン化され、
ネット検索と予約が出来るようになった。
うまくできるかは別として、
新しいやりかたに興味があったので
ネット会員になってみた。
どこの館の本でも検索できるということは
一大図書館が出現したことと同じ。
取り寄せシステムもメールで通知なので、
朝のメールチェックを面倒がらなければすべてオーケー、
なんとすばらしい。

結果、新刊や、書評本はたやすく検索できて便利になった。
ただ、棚を眺める楽しみはない。
ネットで本を選ぶということは、あるかないかは即わかるのだが、
その周りの棚の未知の本には出会えない。

調べてみると、何年分だろうか、
「平家物語」は二巻から十三巻まで揃っていた。
次々読んでいく間中、予約は一件も入らないので、
ネット予約した2日後に確実に届く。
どの巻もで、しかも新品同様、ってことは人気がないのかなあ。


読み始めて、あらためて参った。
「平家」物語の話が始まるのが
十巻目くらいからで、
二巻は蘇我馬子から始まる。えらい古い。
古代から飛鳥時代、奈良時代へと続く歴史が
えんえんこまごまと描かれる。

おまけに系図が各巻に三枚から四枚付いていて、
私はこういうの好きだからいいけど、
でも誰が誰の子孫、いりくんでいてややこしい。
そのほかにしっかり人物紹介もついている。

はらはらでもわくわく、でもないし漢字も多い。
でもここらへんの歴史はわりととっつきやすい。
文体はいつもどおり、ねじれたり付け足したりだが、
その呼吸はだいたいわかっていたから
するすると十三巻読了する。
ほとんど斜め読みだけど。
以仁王の挙兵、源三位頼政の敗死までたどりついた。
最新巻の発売は今年の一月。
平家が滅亡し、源氏の巻を経て灌頂の巻に至るには
まだ二、三年かかるかもしれない。

あんまり「小説」的ではないような。
語り部のように橋本さんはものがたる。
ひとりひとりの心理すら目にみえるように。
だけど「心理」小説とは思えない。
この時代はいろんな小説で読んだけれど
私が読んだ限りにおいて、
物語の中のひとつの位置にカメラを置いて、そこから
ずーっと人々を映してゆくものが多かった。
(上からみおろして書く作者の眼)
ないしは、一人を中心に置いて、そのまわりの心理や
行動をクローズアップしていく方法もある。
(主人公の視点)

橋本さんのこれは「絵巻」なのだ、と思った。
彼は「ひらかな日本美術」も書いてるし。
ことのはじめから説き起こし、流れ流れて
くるくる過ぎてゆく歴史の場面を「観て」いる気がする。
十分な時代の説明と細やかな風景描写がある。
たくさんの人物が、淡々と登場し消えていく。

絵巻では、誰を好きになってもいいのだ。
小説には人物の遠近軽重があるが、
絵巻のどの場面にもいるからと言って、
それが主人公とは限らない、一時のあいだに主客は変わる。

いまのところふたりの挿話が印象的だ。

ひとりは藤原頼長
保元の乱の当事者である。

私が彼と出会ったのは、歴史を素材にした子供向けの本
「むかしむかし」シリーズでだった。
題はたぶん「菊酒を飲まず」だったと思う。
王朝人のならいとして彼も重陽の節句の菊酒を、
渋々飲む、という記述、これは日記にあるらしい。
「菊酒を飲む、ただ唇を潤すのみ」
かなりのひねくれものが、この時は
まわりに合わそうと無理していたありさまである。

簡略にそれから後の王朝の推移、摂関家の争いが
書かれ、
彼が孤立していった、何年かさきの同じ節句、
「菊酒を飲まず。長生きしようとはおもわないからである」
と終わっていた。

とてもかわいそうな人だ、と当時の私は思った。
物語の主人公として。
歴史上の人物だと思わなかった。

学校の歴史でも、彼は系図に名前が載る程度の扱いだったし、
ずっと忘れていたようなものだ。
この本で出会ったとき、
橋本さんはこの人をどんな風に書くのだろう、と
寝るのを遅らせて読んだ。

その時代の信じられないくらいややこしい親子関係に驚く。
養子や猶子が当たりまえで、系図は点線や波線で
指でたどらないと、訳わからなくなりそうに複雑怪奇。

身分の低い母から生まれて、父の忠実に溺愛された彼、
子供のいない兄の養子となって身分を受け継ぐが、
頭でっかちで現実がみえてないから、
自分の希望がすべて叶うと錯覚して、
ずるずると乱に巻き込まれてしまう。

男寵が盛んな時代(と橋本さんは言う)
位のある男たちと情を交わし、捨てられ
敗けた後、彼につき従うのは、数人の身内のみ。
会いたいと願った父にも拒否されて、
苫小屋で生涯を終える。

うまく世渡りできなかった彼を、
そのとき私はかわいそうに思った。
人の気持ちを察することができない、
へそまがりで不器用でひとりよがりな彼を。

王朝とは雅びな世界と思っていたが、なんのなんの
「世間」はいつも渡りにくいものだ。
橋板を踏み外したものは真逆に落下し、
以後誰もその人を覚えていない。
先例を尊ぶとは平安の昔からあったと見え、
よりどころとしてこじつける故事来歴にはことかかぬ。
しかしそれをうまく利用するためには、
釣り合いを取り、根回しもしなければならない。
さらには損得勘定も必要だ。
ただめったやたらに「我が正しい」と主張するだけでは
誰もついてはこないのだった。

「菊酒」は縁起ものであるのに、
あえてそれに背を向けて、結果として彼は若死にした。
もし生き延びていても、穏やかな余生はなかったろう。
父忠実は、兄忠通に幽閉されたまま、なお十年以上生きる。
都の北の外れの紫野にて。


原文では読み難いものを色鮮やかに仕立て直す、
職人芸とも言える橋本さんの技。
ゆとりのあるときに原典を借りてきて読んでみよう。
さて、もとの文章に歯が立つかどうかは大いに疑問だけど。

もうひとりは「有名な」俊寛僧都の話。
能にも文楽にも歌舞伎にもある。
鬼界ヶ島に流された僧の話。
なぜ涙が出るのか、少し考えてみる。
橋本さんの書き方は決して「泣かせる」ものではない。
にもかかわらず、泣いてしまった。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

古代の輝き「白鳥異伝」

荻原規子の「勾玉三部作」
日本のファンタジーとしては出色との評価を得ている。
この「白鳥異伝」はその第二部。

千ページの大長編だ。
読み始めてすぐ、どこかで出会った気がした。
第一部の「空色勾玉」という題名を見たような。
本がまとめて置いてある棚をひっくり返してみると
文庫版が、あった。

そういえば、何か読むものを探して、
買い物のついでにスーパーの本屋に寄って、
表紙絵が綺麗だなあ、と気に入って買ったのだった。
一巻めは、神と人との話だったが、
この二巻目は、大王の時代である。

モチーフは“ヤマトタケル”
主人公の少年は「小倶那」と呼ばれ、
実は捨てられた大王の皇子小碓命(オウスのミコト)であることがわかる。
彼が振るうのは魔力を秘めた太刀。
実母は巫女である百襲姫。

いづも…伊津母 ひむか…日牟加  かげひめ…加解姫
すがる…崇流 まとの…真刀野 などと書かれた
文字から遠い昔が立ち上がってくる。

「空色…」でも主人公は、少年と少女だった。
この巻でも、小倶那と共に育った遠子という名の少女が居る。
ふたりの運命が、「まほろばの国」(ヤマト)が諸国を従えてゆく
戦いの中で激しく変転する。

剣の魔法に対抗するのは勾玉の力である。
登場人物の数は多い。
人物紹介があればもうすこしわかりやすいのだが…。
  

「孤笛のかなた」の上橋さんの作品が“童話”なら
これは少女ファンタジーだ。
人と人との関係がまるで織物のように詳しく描かれている。
そう、王子さまとお姫さまの物語だ。
これでもか、というほど二人をわかつ溝は深まる。
それでもなお、小倶那を慕う、遠子の情熱は引かない。
イヅモからヒタカミまで、勾玉を探して
遠子は旅をする。
剣の魔力に捕らえられた小倶那を救うために。

大王の皇子の身分は腹違いの兄に渡し、
剣を操る魔力(神の部分)は母の亡霊にくれてやり、
本来の小倶那だけが、蘇って遠子と結ばれる。
成長したふたりは新らしい出発をする。

これはファンタジーの王道ともいうべき結末だ。
読み終わったときの感じは悪くない。
美しい少年少女、優しい姉、きっぷのいい青年、
なぞめいたおばば、等々魅力的な人物がいっぱいだ。

ただ、風景が足りないのが(国ごとの違いが見えてこないのが)
わたしには少し物足りない。
ストーリーのスピードが速すぎて
国々のなりたち、祭る神々の違いもわかりにくい。

物語としては面白いが、と「が」がついてしまうのは
背景の「古事記」のイメージがわたしの中で
あまりにもはっきりしすぎているせいだろう。

古事記から取られているエピグラフを読むだけで
勝手に自分のタケルが立ち上がってしまって、
それが、このお話とうまくかみ合わなくて
きしんでしまうのだ。

もう一巻「薄紅天女」が残っている。
すぐに借りてこよう。
このひたむきなドラマを最後まで
読みきってみよう。
ほんとうに、気に入るかどうかは、
それからゆっくり決める。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

読書の春

インターネット予約のちょっと困ったところは
まとめてどっと配本になることだ。
図書館に行って借りるときは
重い本と軽い本を混ぜて借りる。(中身も、装丁も)

「来ましたよ」とメールがあって取りに行くと、
これはまたお気に入りの作家のそろい踏みだった。

「関与と観察」中井久夫著
わたしより一世代以上上のこのかたは
精神科医であると同時に、“詩”の翻訳家でもある。
その訳詩を読んだことはない。
わたしが読んだのは彼のエッセイを集めた本だけである。

何番目かのエッセイ集だが、
新聞に連載されたもの以外にも、
今の世界情勢について思うことや、はるかむかし、
もう三十年以上前に書かれたものも収められている。

ひとは成熟しるものだなあ、という思いと同じくらい
変わらないものでもあるらしい。

彼の本を読んで感じるのは、
「このように良心的なひとを失ったら、この国は
どうなってしまうだろう」という危惧である。
戦争を体験した世代の中で、倫理的にもゆるがず反対の論を
語れる数すくないひとだと思う。
静かな声で静かな話を。
それが、心に泌みる。

翻訳ということは橋を架けることだと中井さんは言う。
須賀敦子の訳詩に触れて、
彼女はイタリアと日本の間をつないでいる、と言う。
「彼女は小説を書かずにエッセイを書いた。
自分を強く押し出さず、
さりげなく奥にいて、人と人、国と国との架け橋になっている」と。
須賀さんのエッセイは、読んだ瞬間にわたしを惹きつけた。
その端正な古風さで。

言及される本は他にもある。
「日本書史」石川九楊作
書からひもとく日本の歴史。
思わず読んでみたくなる。
読めなくとも、「絵」として理解すれば、良いのでは、と書かれている。
それなら、歴史上の著名人の、
服装のセンスを楽しむようにに読んでみたいものだ。

中井さんの本の中で
優れた訳詩者と紹介された
池澤夏樹著 「異国の客」

この間まで彼はオキナワに住んでいた。
写真入りのエッセイ集も読んだ。
このたびはフランスに移住して、その記録をリアルタイムで綴っている。
「旅人として生きてきて、はじめてヨーロッパに住む」のだと。

中心が好きじゃないと池澤さんは言う。
フランスなら「パリ」と誰でも考えるところだが
彼が選んだのはフォンテーヌブローという、パリ郊外の小さな町だ。
歩いて生活できる場所で、
そこから見える「客」としての発信。
はるか離れた日本に対して思うことを。

メルマガで読んだときよりずっと落ち着いて読めるのは
縦書きだからと、「本」だからだ。
パソコンの画面で横書きの文章を読むのは
昔人間には疲れる。
またなぜかこの本の中にも「須賀敦子さん」が登場する。
風景の描写と詩の言葉。
池澤さんの文はいつもくっきりとしていながら音楽的だ。
実はまだ、半分しか読めていないのである。

そのわけは橋本治の本が二種類やってきたからである。
「ひらがな日本美術史」と「双調平家物語」
「双調平家…」は、前に第一巻だけ読んだ。
そのときは中国の話から始まったので、
「これはちょっとした導入部だろう」と思っていた。
ところがそれは大違いで、
蘇我氏のころから延々と物語が続く。
もちろん歴史の教科書よりはずっとずっと面白いのだけれど。
時々、橋本さん特有の、ちょっと捻った辛口の人物描写もあるし。
四巻でやっと聖武天皇にたどり着いた。
全十五巻の予定のうち、「平家物語」の部分は、三巻分くらいのよう。

「平家…」と一緒に、「ひらかな日本美術史」も届いた。
こちらもしっかり橋本節で、さまざまな美術の解説および紹介。
写真が大きくて綺麗で、
絵や庭や、の説明ばかりでなく、歴史にまつわる記述もたくさんで、
とにかく「よみごたえがある」本だ。
彼の本は好きな人と嫌いな人がはっきり分かれるタイプだが、
長年の間に文章の調子を体が覚えているので
わたしには苦にならない。
それでもこれだけ冊数があると、その濃厚さを緩和するために
軽い読み物も必要だ。
おりよく伊坂孝太郎の「死神の精度」も届く。

おいしい饅頭ににお茶は必需品である。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

男と女…「憑神」と「ハルカ・エイティ」

最初に読んだ短編が面白かったので、
書評で◎印のこの作品「ハルカ・エイティ」を読んでみた。
図書館のインターネットサービスを利用すると、
目当ての本が、あちこちの図書館から運ばれてくる。
まるで“ア○ゾン”で本を買うときのようだ。
現場に行かずに本を探す、その欠点を補おうと
新刊案内を見たり、人気ランキングを見たり、
いろんな検索方法を試している。

作者は、姫野カオルコさん。

お話は、
「ハルカ」という八十歳、大正生まれの女性の半生の記だ。
肩の凝らない読みやすい文体、(作品ごとに文体と傾向を
変えている、と評にある。)
姫野さんは滋賀県の出身で、作品には故郷とおぼしい
「鶉市」や「鳰の海鉄道」などが登場、ことばも関西ことばで
そういうところも読みやすい一因だ。

滋賀県で育ったハルカの少女時代は面白い。
テンポ良く戦前の女学校を描写し、お見合い、結婚、
「へえ、昔はこんな感じでお見合いしたのか」
「女学校って、高校って、いまとは違うのね」
などなど。
グループを組むのに、貴族のお嬢さん、素封家の娘、大学教授の令嬢、と
ジャンルの違う階層からピックアップされた人たちも
バラエティに富んでいてどんどん読める。

生活のあれこれ、身近な友人との交際などがすらすらと語られていて、
この時代を描いた作品によくある、
“戦争の影”という部分が少ない。
すべてがハルカを基準とした「フツウ」の中に圧縮されているようだ。

違和感を感じるのは後半の部分だ。
ハルカは幼稚園の教諭になって、夫の事業を助ける。
子供は娘がひとり。
夫はちょいちょい浮気をし、
ハルカも、同僚たちと、「家庭を壊さない程度のほどよい」
恋愛をする。
夫に先立たれてからも、若い男に“なんぱ”されてお茶を飲むし。

とてもエネルギッシュでべっぴんなハルカさんは、
「淡々とした普通の女性の戦前から現代を描いて秀逸」という
評者の言葉とはちょっと違っているような気がする。
八十歳でハイヒールが似合って、肌には艶があり、
口紅は珊瑚色。
自分の半分の年の男性と話が合う気の若さ。

少し点が辛くなってしまうのは、私個人の事情がある。
貧乏から脱出できなかった同年代の母を思うと、
「ハルカのどこがフツウやねん」とつい口に出る。

まあ、それはさておいて、痛快な物語であることは確かだ。
これは他の本で感じたのだが、姫野さんが
ふるさと滋賀を描くとき、微妙に屈折した感がある。
遠メガネをさかさにしたような、
はっきりしているのに、奇妙に遠近感が狂っているような、
そんな感じを受けたのだ。

その奇妙さが前面に出た作品を読むときのほうが、
読んだ快感がする、のは困ったことだ。
「いろんな顔を持つ人」らしく、読んだ小説、みな
題材や描き方が違う。
でも共通しているのは、すっぱりしているところ。
男女のことを描くときの、即物的で変に湿らないアカルサが
持ち味のようだ。
私としては、性や恋愛より、彼女のファンタジーが読んでみたい。


もう一冊は、泣かせの「次郎さん」こと浅田次郎さんの新作「憑神」
めちゃめちゃ不運な男の話。
時は幕末、ところは江戸、
貧乏御家人のさらに次男坊、
悪い運をまとまって背負った男。
名を彦四郎という。

年代を持ち出すならばまるきり同年代の次郎さん。
団塊の男の理屈っぽさに、人情の衣をかぶせて
存分に泣かせる術は天下一品だ、と思っている。
でもだんだん泣かなくなってきているけどね。

そもそもは、彼が冗談で拝んだ社が、悪神たちのもので
三人の恐ろしい神にとり憑かれてしまう。
その名は、貧乏神、厄病神、死神。
三という数字はおとぎ話によくでてくる。
みっつの試練を乗り越えると主人公は力を得たり、
困難を切り抜けたり、幸せになったりする。

では彦四郎は幸せになったのか。

たぶん彼個人としては、「自分の運命を自分で決めた」
その時点で充分に満足だったと思う。
神にさえ哀れまれる、何の希望もない次男坊の生活。
いくら能力があっても一生日陰の部屋住みで、
多くの才能が腐ってしまっただろう。
抜け出す道は、「婿養子」か町人身分になることか、
さもなくば出家か。

三つの試練に彼はよく耐えた。
と言っても自分が真正面から受け止めたのではなく、
一度目は自分を離縁した、養家の義父に不幸を「宿替え」(振り替え)し、
二度目はお役目もだらだらしか務めないダルな兄に、
病気を振り替えたのだ。

貧乏神も厄病神も、それをもっともと思うほど、彼個人は
まっすぐで能力のある青年だった。
なにしろ、座右の銘が「かえりみてなおくんば一千万人といえども
われ往かん」なのだがら。(論語の中にあるそうな)
この律儀というか頑固な男のあたまを柔らかくするためには
勝海舟であろうと榎本武揚であろうと、無理な相談なのだ。

しかし最後の「死神」
愛くるしい小娘の姿をとった神には、
彦四郎は心から頼む。いや拝むと言っていい。
自分の納得できる死に方がみつかるまで待って欲しい、と。

彼が見つけたのは、
現代からみると馬鹿馬鹿しい限りの解決だ。
官軍に恭順して逼塞してしまった
徳川慶喜(最後の将軍)の影武者として、
彰義隊のたてこもる、上野の山に死にに行くなんて。

命を捨てることは問題ではない。
捨て方が問題だ、というのは、
ちょっと疑問だけれど、一生懸命考えたあげくに、
己の利を一番にしなかったのはすごい。
つまり彼は、呪われた祠を拝んだことを
最後にみごとに自分の運命を自分できめることによって
ひっくり返したのだ。

彦四郎の便宜を図ったために
閻魔さまに怒られた疫病神と貧乏神は
彼の門出に立ち合う。

お能で言えば「ワキ」として、彼を見つづけてきた
そば屋の主人に、あっさりと軍費の小判を与え、
社会生活では無能だが、
「修験道」(役にたたない分野)では並み以上の
能力を持ったいじめられっこ小文吾をサンチョパンサとして、
キホーテ彦四郎は去っていった。

読後の気分はとてもいい。
「自分」探しの好きな世代としては、
彼の潔さが魅力的だ。
「ぱっと散る」のを変に美化さえされなければ、
死神を胸の内に抱いた馬上姿は、
人の生そのものだもの。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「容疑者Xの献身」

このごろ流行らないのがブンガクらしいが、
芥川賞と直木賞はいつもテレビで結果が放映される。
次の日の新聞に、作者についての記事が出る。
すると大きな本屋の平積み台にPOPが立ち、
あっというまにベストセラーに、なる。

かなり以前からこういう状況で、
マスコミがとりあげる本は(本だけ)よく売れる。
私が本を探すときは、
「書評」を参考にするし、ベストセラーは
図書館で予約する。

若かったときは、なんでも読めたものだ。
理解できるかどうかは二の次で。
しかし最近は慣れない文体や題材には手がでない。
勢い、少し年齢が高い作家の本が中心になる。
そういう本は、現代とじかにリンクしていないぶんだけ、
しみじみと回想を誘い、読んでいて気持が落ち着く。


今回の直木賞、受賞作は「容疑者Xの献身」
作者は東野圭吾。
なぜか彼が乱歩賞を取ったときから知っている。
年代的には一世代下のひとだ。
本が出るたびに買って読んだ記憶はないが、
ふと気がつくと文庫本が増えていたり、
図書館に行くと新刊がでてないかな、と
棚を覗きに行く作者だった。

写真はずいぶん老けて写っていた。
可愛らしい青年の東野さんはどこかに行って
渋いおっさんが囲み記事で笑っていた。

いまテレビドラマ化されている「白夜行」も
その迫力に唸った小説だったが、
「容疑者…」は最初から高いテンションで始まる。
その緊張感は最後まで続き、
ミステリーだからトリックも素晴らしいのだけれど、
書いてある文章のどこにも、“嘘”がないことが、凄い。

その行間に降りていくと
ひとつの大きな問題が浮かんでくる。
人と人の係わり合い方、という問題。

謎解きをするのは、短編で探偵役をしたガリレオこと
湯川助教授、ワトスン役は草薙刑事、
おなじみのこのふたりが出てくると、いつもは
軽妙なやりとりが始まるのだが、
この本ではそうではない。

ガリレオはいつもの皮肉さを失っており、
刑事は必死で職務と友情を両立させようとする。

最初から、犯人は読者には知らされている。
それなのに置くことなしに読み進んでしまうのは、
細やかな気配りがすみずみにまで行き届いているからだ。
たとえば、冒頭の川べりの光景。
いまにも今風にホームレスの小屋とその住人の描写から
始まるが、そこに詳細に描かれるのは、いまの社会が
抱える矛盾の一面である。
声高には語られないが、小説を流れる低い音は
「ひとの生きる意味」ではないかと思う。

「人間が書けていない」という審査員の評が新聞に載っていた。
主人公は「X」だと思われているのかな。
それとも湯川助教授?
あるいは、「靖子」?
娘の美里だろうか。

確かにひとりひとりの心理を“細かく”書く、というふうには
なっていない。
そのかわりに、人間「関係」の外側がきっちりと
これ以上ないほど詳しく説明されている。
情緒に流れない東野さんの筆だと
人物の輪郭ははっきりするが、
彼らの内面を「見てきたように」語るシーンが少ないので
肩透かしをくったような気になるかもしれない。

ミステリーと銘打たれているからには、
この小説の主人公は意外な「トリック」なのでは。
登場人物はそれを成立させるために作者が作り出した
架空の人々である。

彼らの生活は、わたしたと大差ない。
ドラマティックな日々も送らず、
ささやかに暮らしているわたしたち。
自分は正しい常識人、と疑わない私たち。
(たち、ではなく「私」と言ったほうがよいだろう)
その常識をひっくり返す“問い”があったって
いいじゃないか、と思う。
ネタをばらす訳にはいかないせいが、
日常と非日常はそんなに遠く離れている訳でもない。


Xが為したことについて、
こういう「献身」は“あり”か、と
必ず問う人がいるだろう。
答える言葉を私は持たない。
ただ、ひとも風景も関係も、すべてがかなしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「信長が宿敵 本願寺顕如」

今回の作品には“笑い”がやや少ない。
それが少しだけ残念である。
テンポのよいかけあいから生まれる可笑しみが
よんでいていつも楽しいからだ。

鈴木さんの時代小説は、どれも切り口が面白い。
顕如という人物を彫り上げるために、
信長、秀吉、光秀、と豪華な三人が、
登場して「華」を添えている。
さらには足利義昭もだ。

なかでも、信長は、
誰もが「果断」で新しい時代を開くひととして
小説に描き、ドラマにしている。

その信長を、『細心で、強情で、戦下手』という
性格に描いてある。
また秀吉には、存分に名古屋弁を喋らせている。
鈴木さんの地言葉だから、
苦労人な秀吉像がいきいきと息づいている。
秀吉はあとで本願寺の運命に大きな影響をあたえるのだ。

この本に出て来る息子の教如は
かつて「忍者武芸帳」(影丸伝)白土三平作、に
苛烈な信長に対する若い門跡として
ほんのちょっとだけの登場した、のを覚えている。
※まだ歴史に興味がなかったので、
「石山本願寺」は滋賀県の石山にあると思っていたときだ。


教如が革新派で、顕如が守旧派、という分け方でいいのかしら。

なるべく戦を避けようとした顕如だが、
信長包囲陣を計画して実らず、
戦に明け暮れて10年余り、

ついに石山本願寺の兵糧攻めという脅しにより
女、老人、子供のために、
紀州へ動座(降伏)した。
平和を口にしても実際は戦い続けたのだ。

彼は、すでに古いものの権化の足利将軍制度、
ひいては義昭を理解した。
“新しい”信長の考え方、やりかたには
ついていけないものを感じていた顕如は
彼を滅ぼしさえすれば、と思ったのだった。

ところがこの新しい時代の申し子は、
めちゃめちゃ運がよく、
暗殺の試みは失敗、敵は次々と死亡、
光秀が裏切らなかったら、彼の天下は続いたろう。

かれの死んだあと、天下を取った秀吉は、
いったん隠居した顕如を門跡とし、
後継ぎは教如の弟の準如とした。


一方、教如は信長に徹底抗戦した。
ただし三月で降伏したが。
門跡を降ろされたことで彼は
生き延びるために家康に取り入った。

家康が本願寺の勢力を弱めるために
ふたつに分けたとき
東本願寺の門跡となったのである。

大きくなりすぎた教団は矛盾を抱えざるを得ない。
本願寺では、矛盾は親子の間で出た。

親の背中を見て子は育つというが、
血が繋がっているからこそ相容れないこともある。
顕如親子はついに歩み寄ることができなかった。

どちらが好きかと言えば
若いころなら多分教如に気持が動いたろう。
そのひたむきさがうつくしいと思ったろう。
でもいまは、親の哀しみがとてもよくわかる。
「親が自由になるのは子供の“幼な名前だけ”だ」と
顕如は述懐するが、
それがわかったから、彼は教如を許せたのだろう。

新しいことはかならず正しい顔をしている。
時が経たないと、よかったことと、よくなかったことの
区別はできない。

「ふるいことはわるいことではない」と
作者が言うのは、過去をみているのではなく
遠い未来をみていっているのだ。
ふるいことから生まれてくることは、
激しいときめきはともなわないが、
ゆっくりとたしかめつつ物事をすすめていけば、
その結論が、弱いものに仇なすことは
すくないのではなかろうか。

付記:作者 鈴木輝一郎

あらすじをまとめたいのだけど、膨大すぎて断念した。
中味はタイトルどおりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「海国記」上・下

大河ドラマが「義経」なので、そのころを舞台にした
小説も今年は多い。

標題の「海国記」は
平氏の歴史を、海から(宋とのかかわり)描写した話である。

平氏の栄華を書くのなら、清盛の時代が中心に
なるべきところを、
作者の服部真澄は、清盛の祖父正盛の自時代から書き起こしている。

この平家“前史”の部分(上巻)がたいそう楽しい。
正盛と絡むのが、
「渡しのもの」と呼ばれる、海上の道を知るひとたち、で
なぜ、受領階級が富を得たか、の疑問の答えとしている。

当時の中国(南宋)と日本を繋ぐ海上の道、
内海は言うに及ばず、大宰府から中国に至る航路を
自らの手の内に入れた男「水龍」を作者は設定した。

「渡し」のものたちが、瀬戸内の海を我が物としていたさまを
書き、狭い陸の上の細々した争いから、小説を明るく広い天が下に
引き出している。

水龍の養い子でありかつ彼を恋う女が、
白河法皇の寵姫「祇園女御」であるとされる。
「素性確かならぬ」女性だが、海と宮廷を繋ぐものとして
はつらつと輝いているさまが描かれる。

神社の神人、寺の僧、流通に携わるものたちはお互いに
競争して異国からの珍しいものや書物を持ちこみ、
公家や上皇、院がその宝を得る。

経済史は、面白くないから嫌いだったけれど、
年と取るとこういう、実は…という種明かしに興味が深まる。

流通の端と端、その間に数々の見知った名前が貫なり
平家物語の人々の別の顔が見えてくる。

貧乏学者の子「信西入道」
正盛の子忠盛、
二の君(祇園女御と水龍の子)を通じて
渡しの血が平家に入り、
「厳島」の神人の要請により
神を立派に祭りあげ、
西国に平家はゆるぎない足場を築いた。
(新しい神社の後ろ盾になることは、古いしがらみから
離れて、自分たちのよいように物を動かし利益を得られる)

下巻は、史実から離れられないので
話の速度があがりすぎ、残念だったが、
視点の闊達さは捨てがたい。

四十半ばの服部氏。
「巴御前」の鈴木輝一郎と同年代。

新潮ケータイ文庫、に書き下ろしだそうで、
ケータイでこの本を読む人たちが居るんだ、というのも驚きである。
「字」でないと遡ってよみ直せまいと危惧するが、
この勢いのある文章なら、ざざっとおしまいまで引っ張って
いけるだろう。

一冊ではわからないから、と借りてきたもうひとつは
「GMO」(遺伝子組み替え植物)

こちらは、ハードボイルド系。
目の付け所が面白いのは同じ。
遺伝子組み替えの植物は、
「大豆」などで、お馴染みといえばなじみ。
どこに問題があるおかさほど気にしていなかったが、
「タネ」をまかなきゃ実はならない。

もうかるならばどんなことでもする企業や国。
(麻薬であれタネであれ)
小説仕立てだからわかりやすい。

お話だと思っていることは、しばらくすると
現実になる…と私は思っている。
そのときが来たら、日本のコメはどうなるのだろう。
こちらはすこし寒気のする物語。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「狐笛のかなた」

ふりがなながついていてまことに読みやすい
子供むけファンタジーだ。

舞台はたぶん日本のどこかで、
隣国との争いに巻き込まれた少女の運命は…。

彼女は術者(白魔術と言ったほうがわかりやすいかな)の母と
領主の間にできた娘で、
記憶を消されたままひっそりと[産婆]に育てられる。
ある時であったのは、領主の隠し子、つまり彼女の兄弟、
同じ時にもうひとり、それは子狐。
狐は使い魔で、隣国の呪者の手下、助けられた少女に恋をする。

狐の野火が、間諜としてやってきた城に、
隠し子にかけられた魔術に気がついた小夜がやってくる。

小夜の危機に野火は悟る。
自分を縛る呪いより、小夜を愛していると。
そして自分の命と引き換えに、
隣国の陰謀を暴く

読後の気分が爽やかなのは、
幸せな結末だからだ。

二人で生きることを
諦めなかったから、のぞみはかなった。
ただ二人は、
現世の人には[狐]としか見えない“あわい”
(時のはざま)の世界で生きる。
子供は可愛い子狐、だとすれば、
これは、悲劇を克服した異類婚だ。

ややこしそうだけど読み進めると素直でわかりやすい。
気取った言葉や斜めの表現がないもの。
まっすぐなストーリーに、気持がするりと乗る。

泣いたり、どきどきしたり、ほっとしたり、
理屈っぽくないこの話を読んでいると、元気になる。

さまざまな生活の枝葉にとらわれて、かちかちにこわばっていた
きもちが、緩やかにほどける。
その糸口はたぶん無数にあるのだが、目に見えることは多くない。
この本はそのうちのひとすじのようだ。

かいたひと 上原 菜穂子 しゅっぱんしゃ 理論社

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「東京奇譚集」

離れていても、ずっと気にかかっているひとがある。

そのひとの本を読んでいなくても、
新聞にコメントが載ったりするとつい
読み進んでしまう、そんなひとのこと。

本を増やさない私が久々にもとめた「東京奇譚集」
作者の村上春樹。

彼の本を余さず読んでいるわけではない。
同年代だから懐かしい、と言っても
そんなひとはたくさん居る。

彼に会ったのは、
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が
賞を取った、というので読んだとき。

これはファンタジーだと思った。
静かな雰囲気の“世界の終わり”のほうが好きで、
そちらを選んで読み進め、エンディングで、二つの話が
ひとつになったのにびっくりして、
「ハードボイルド…」の部分を後追いしてまとめ読みした
記憶がある。

私にとっての彼は
「健康な作家」というイメージで、
ジョギングにしろ、パスタ作りにしろ、
生まれたまちが神戸であることすら、
おしゃれですてき、と思っていた。
ジャズ喫茶のマスターなんて人まわりにいなかったしな。

身近にジャズ好きが居るので、
しょっちゅう聞いてはいるのだが、
私にはジャズはわからない、というより
なじめない。

好きだというならむしろクラシックのほう。
特にピアノは好きだった。

でも、コンサートなんて大人になるまで行ったことがなかった。
雑誌に載った「レコード評」を読んで、
ああ、ステレオがほしい、と度々思ったわかいころ。

東京奇譚集の中で
いちばん印象に残ったのが「ハナレイ・ベイ」
ピアノを弾いて生計を立てている中年女性が主人公。
(ピアノBARを経営し、自分でも弾くのだ)

息子は遊び人で、サーフィン中に鮫に食われて命を落とす。
そこはハワイイ諸島のカウアイ島の“ハナレイ・ベイ”だ。

ハワイイといいたいのは、もうひとりの同年代作家の
池澤夏樹が描く「ハワイイ紀行」が頭にあるからだ。
女主人公が居るのが、池澤さんの本で読んだカウアイで、
とわたしは想像する。
その光景をバックに
春樹さんの淡々としたリズムと言葉で語られる悲劇は
読みやすいけどつらい。

彼女は自分の子供だから息子を愛していたが、そうでなければ
決して彼を好きにならなかったろう、と知っている。

それでも、毎年息子のなくなった場所で過ごし、
それを生きる目当てとしている…のに、
彼の幻は母には見えず、
ふらふらと日本からやってきた頼りないふたりのサーファー
(なぜか、彼女が面倒をみるはめになる彼ら)
に見えてしまうのだ。

起こった事をすべて受け入れて、
彼女はまだ日常に戻る。
あやしいことは、息子の幻だけで、
鍵盤に触れてさえいれば、
何も自分を脅かす事がないことを知っている彼女。
そして、島に居ないときは島のことを思い、
年に一度、三週間島で過ごすときは、
風にも波にも自分を溶け込ませて、
自然を受け入れようとするのだ。


もうひとつ、
「品川猿」という話がある。
「みずき」という女性が、がある日突然
自分の 『なまえ』 を忘れることから話が始まる。

彼女は名前を忘れないようにとブレスレットに彫り
しばらくやり過ごすが、名前の記憶は戻ってこない。
結局、「品川区」の区民向けのカウンセリングにおもむく。

ここまでは、変じゃない。
さてここに、ちょっと変わったカウンセラーが登場し
カウンセリングのなかで、「みずき」のありふれた過去が
もういちどおさらいされる。

カウンセラーは
「名前に関するなんらかのエピソードがないか?」と尋ねる。

「みずき」が話すのは
高校の女子寮時代にあった、『名札』に関する話。
とてもかわいい女の子が嫉妬に苦しんで命を絶つ。
その直前に「みずき」は彼女から『名札』を預かるのだ。
「猿にとられないように…」と彼女は言い残した。


カウンセラーが探し当てた「原因」は、
「猿」=名前を盗む猿で、
品川区の下水道の中に住んでいたのだった。

猿は自殺した少女の『名札』がほしさに、
何年も探しつづけ、 みつかったそれと「みずき」の
『名札』を持ち帰っていたのだ。

それで「みずき」の名前忘れの原因がわかった。

猿は語る
「あなたのお母さんもお姉さんもあなたを愛していない。
ていよく遠方の学校に厄介はらいされたあなたは
充分な愛情を受けないままにいまに至った。

このままだとあなたは夫にも
これから授かる子供にも愛を感じないだろう」と。

これを聞いても、「みずき」は落ち込みはしなかった。
自分の名前を取り戻し、
とりあえずその名前で生きていかなければならないのだと、
受け入れていかなければならないのだと、
決心するところで話は終わる。
彼女のかたわらには、摩訶不思議なおばさんカウンセラーが
困ったときには
「一緒にサルを捕まえましょう」と言ってくれるのだから
おそれるものはなにもないのだ。

ふたつの話の共通の言葉は「受け入れる」である。
苦痛をともなう
「運命を受け入れること」を、
作者が語りだしたのはいつのころからだろう。

ひそかに風の歌を聴いていた昔とは
かなり変わって、しわが増え
中年で四角くなった顔が新聞に出ていた。
「ダンカイの世代」も年を取るのだ。

コミットメントすること。
自分の歌を歌い続けること。
つらいことも「受け入れる」こと。
でも諦めるのではない。
それらの話は別の長い物語に書かれると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「孤宿の人」

宮部みゆきがはじめて“お江戸”を出た。
この物語の冒頭は瀬戸内のきらめく海から始まる。

「丸海」と名付けられた藩はたやすく現実の○亀に
オーバーラップするが、
主人公は誰なのか、は読み方によるだろう。

ひとりは「ほう」
阿呆の「ほう」だと言われ、厄介者扱いされ、
江戸の親戚から代参の身替りに追い出された少女。
病気になって捨てられ、さいわい藩のお医者に助けられて
手伝いをしている、そんなこども。

もうひとりは、生まれ育った漁師まちから離れ、
「引手」の下働きを目指す娘。
男ばかりの職場に乗り込んで懸命に、「ひと」のために
尽くそうとするがそれは何故なのだろう。
憧れの人は身分違いのお医師の若先生。
彼女の名は「宇佐」(うさ)

いままでの宮部さんの小説に、はっきりと権力そのものがでてきたことは
なかったとおもう。
主人公たちはささやかな市井の人であったし、
商売人も岡っぴきも、金持ちも貧乏人も、
ひとしく江戸のまちに住む生活人として登場した。
(回向院の茂七親分や、ぼんくらの井筒平四郎など)

ところが今度は、
大御所家斉公が、直接ではなくとも登場する。
地方の藩とはいえ、跡目あらそいがあり、身分の格差があり、
海で生業をたてるもの、名物の織物に賭けるもの、と
暮らし方はさまざまである。

縦糸に、「ほう」の成長と宇佐の恋、
もう一本、お家に降ってきた大事(おおごと)、流人の受け入れ。

後半少しの部分にしか登場しないが、
「加賀さま」が女性ふたり以上に
不可思議な魅力をもつ人物として描かれる。
多くのページが割かれているから、理解できるというものでもない。
分からぬ部分は、語りで説明されるのが物足らないが。

不条理な罪を犯し(妻子の殺害)、責任をとりたくない上のもの(将軍に
象徴される権力)により、丸海藩に預けられた元勘定奉行。
同じ藩に流された歴史上の人物として、
「鳥居耀藏」の名があとがきにあった。

その名から連想されるなまなましいものが、この話に
渋い裏面を与え、とあるどこかの話がふいに、
過去にあったかもしれない色彩を帯びる。
「名前」の魔術といえるだろう。

宮部さんは「魔術」に長けていた。
超能力ものやファンタジー、
時代ものでも、見えない世界との
架け橋になれる「女の子」たちが、活躍の場を与えられていた。

しかし、「ほう」はただびと、宇佐とて同じである。

悪霊の化身と恐れられた「加賀さま」の用を足すには
みよりのない「ほう」が適当と思われて、まるで拉致どうように
お屋敷に放り込まれた「ほう」
知識がないので愚かと思われるが、「ほう」は
思い込みに曇らされぬ、真っ直ぐなこころをもっていた。

この世の権力の頂上(将軍家)さえも
見極めた「加賀さま」にとって、悪業をなした自分、ではなく
たったいま、彼を主人とさだめひたすら仕える「ほう」と、話すことが
どれほどこころやすまることだったろう。

交流によって気持が通い、「加賀さま」の心が“洗われた”とか
“癒された”などとは言うまい。
ファンタジーが良質なものであればあるほど、決まりきった言葉は
使われないし、決め付けた描き方もされない。
「殺される」と知っており、自分が死ぬ以外に丸海藩を
ジレンマから救う道は無いことを、
当事者の「加賀さま」は知っていた。

だからこそ、
「ほう」だけは、生かしてやりたかった。
運命に任せて捨てておいては、きっと謀殺の騒動に巻き込まれて
命を落とすだろう。
ほんのわずかな日々、会話ともいえぬ手習いの時間、
「…この期に及んでおまえのようなものが、わたしに忠義立てするとは」
「ほう」の忠義は、まだ知らないことを教えてくれるひとに向けられる
素直な憧れだった。

丸海の夏は大雷によって終わり、
「加賀さま」は焼死と伝えられ、(本当は、藩の勢力争いの中で殺された)
以後は「御霊」として藩の守り神になった。

その激しい落雷で起こった火事に巻き込まれて、
宇佐は「ほう」の無事を願いながら、
避難する子供をかばって木に押しつぶされた。

仕事(火消し)にとても熱心で、女を越えて“にんげん”に
なりたかった宇佐は、
「ほう」をやさしくかばいながらも、
たぶんその気持を理解することはできてはいなかったろうが、
それでも、「ほう」とともに生きたいと願ったのだ。


あまりにも遠くを見たがり、望んだから、
自分の心をしっかりとつかむのは下手だった。
優しいが、あやうい彼女を「ほう」は
『おあんさん』と呼んだ。
すべてのものの「姉」としての呼び名だ。

物語の最後は、またはじめにもどり、
少し大人びた「ほう」は、
医師の家に戻り、織子の奉公ができる年までを暮らしてゆく。
たとえ、亡くなっても
心のなかに居るなら、ふたりは生きているのも
同じではないか。受け継がれる清冽な魂が
どうぞ、曇りませぬように。

「加賀さま」が「ほう」に贈ったものは新しい名。
あほうの「ほう」ではなくて、
遺書として書かれた名は「宝」(ほう=たから)
それをどうおもうか、意味は読み手にゆだねられる。


本を手にとって開いた一ページ目、
明るい海に立つ白波…「うさぎがはしる」光景が。

お稽古している謡曲に「竹生島」という曲がある。

【月海照に浮かんではうさぎも波に走るか、面白の島の景色や】

というくだりがあり、これは琵琶湖の風景だが、
“うさぎが走る”瀬戸内の海が、目の前にさっと広がった。
きらめく海に溶けるひとの想いのはかなさと久しさが
繰り返しこころに届く。

| | コメント (0)

「燃ゆる想ひを」

いつものとおり書評で見た本を探して借りてきていたら、
今風時代劇「巴御前」にぶつかった。

馬が喋ったり(テレパシーだけど)、巴は超能力者(いわゆるSHINOBI)だとか、
設定が時代劇だというだけで、
中味はおもいきりエンターテインメント。

プラス恋愛も(もちろん義仲と巴だが)、これがプラトニックで
なんとなくおかしい。

途中は笑わせて、「義経」や「服部半蔵」が登場したりする
味付けがあり、最後は、つらくはかない“恋”で締める。

一気に読めるので、次々に同じ作家の時代劇を借りた。
名前:鈴木 輝一郎 年齢:45歳

「幻術絵師、夢応のまぼろし」
信長対本願寺の戦いに巻き込まれる絵師(幻術師)の話。(短編集)

「中年宮本武蔵」
吉川英治の武蔵のイメージをぐわらりとひっくり返し、養子伊織の目からみた
強いけど社会性ゼロのはちゃめちゃ武蔵の物語。

柳生十兵衛、荒木又右エ門、細川三斎、など多彩な脇役が活躍。
現代語で書いてあるので、ノれれば面白いことこのうえない。
重みがないのが、ちょっと残念。(今後に期待)

そしてこの「燃ゆる想ひを」
テーマは…初老の女の“想い”
場所は、伊吹山。
時は「関ケ原の戦いの前後」

恋の相手は、豊臣方の大名「アウグスティヌス・小西行長」

切り口が、やや斜めで(主人公のおばさんがかっこいいわけではない)
笑いを取り入れて、という趣向は
他の作品と変わりはないが、

気に入ったのは「言葉」
『昨日のことを泣くよりも、明日笑えるように今日を生きなさい』

ちょっとかっこよすぎるのだけどね。

彼、落武者の王子である小西行長の「言葉」として
caritas=燃ゆる想い、が語られる。
この想いは決して燃え尽きることはない、と。

しばらく平安・鎌倉時代に凝っていて、
血の流れが緩やかだったからか、

活きの良い戦国時代の、若い作家のお話しが気に入ったようである。

タイトルは“かくとだに えやはいぶきの さしも草
 さしもしらじな 燃ゆる想ひを” 藤原実方朝臣 百人一首

おばさんの名は「とき=朱鷺」
むかしはこの薄紅色の羽をもつ鳥は、ほんとにどこにでもいたそうだ。

『心を通わせた相手でなければ「名」は聞かない。
彼がおばさんの「名」を聞いたのは、二人の間に通うものがあったからだ。』

       というのが、作者の設定。
名前をそれほど大切なものとして描かれたのが嬉しい。
実方の歌、お手札ではないが好きな歌である。
asibi-kannzekaikann

 さしもしらじな  とはつらいが、
朱鷺さんは、人を信じることができるようになった。     

| | コメント (0) | トラックバック (0)

坂に恋する

なぜか最近「源氏物語」に縁があるようで、
さきごろはずっとおせいさんのを読んでいた。
その彼女のあとがきに紹介されていたのが、

円地文子さんの「源氏物語」である。
図書館で借りたら、コンパクトなので、不審に思ったが、
何の事は無い、これは若い人向けの三巻ものだった。

出だしだけでも、文章の緻密さがくっきり出ていて
物語の運びも速い。
こういう読み比べのようなこと…をするようになるとは、
お能を観るようになるまで思いもよらなかった。

きょうは「源氏…」を離れて、
円地さんの本とであったときのことを少し。

10年くらい前、知人に指摘されたことがある。
「河合隼雄さんの“中年クライシス”に円地文子の「妖」って本のこと書いてあるけど、
その主人公があなたにちょっと似てるよ?!外見じゃなくてさ」と。


河合さんの本は好きで“中年クライシス”も持っていたが、
「?」としか思わなかった。

小説の主人公=千賀子は、金持ちで
家持ちだし、「総入れ歯」だったりするので(私は歯だけは丈夫なのだ)
なんで私がこの人に似てるん?と 不思議だった。

その章は「エロスの行方」と名付けられていて、
中年を迎えた女性の、根源的な「エロス」はどの方向に向かうのか?
などと、わかりやすい言葉でわかりにくいことが(笑)書いてあった。

千賀子さんと夫は形だけの夫婦で、彼女は自分の収入で中二階
を建て増し、そこで寝起きしている。
その部屋は「坂」のすぐ下で、
半地下のようになっており、夜など坂からいろいろな音が響いてくるのだった。

骨董収集が趣味の夫に対して
千賀子さんが思いを向けたのは「坂」だ…そうだ。

小説ではあるけれど、60代(?)の女性が、入念に化粧して、
梅雨時の夕暮れ、濃く化粧した白い顔をして、「坂」のうえに立っている姿を
想像するとちょっと怖い。

解説だから、全部は読んだ訳でなく、「似てる」といわれたことを
気にするでもなく忘れていたが、

おせいさんの「源氏」の解説のなかに
「つっかえたときには円地さんの“源氏”を読んで考えました」というふうな言葉があり、
もう一度、読み直してみるかな、と短編集を借りた。

どのあたりが自分に似ていると彼女が思ったのか、聞く術はないけれど
年齢が上がった分、千賀子さんの気持に近づく事はできたようだ。

「坂」が見せてくれる景色、気配、四季、心変わりしないものとして、
思いをかけるのにこれほど安全なものはない。
いっぽうで、
「坂」に対する礼儀として、化粧も盛装もあっただろう。

自分の中だけで自足してしようとするとそうなるのかもしれない。


小説の最後には、苦い結末がある。

無礼な深夜の訪問者、と思われたのは、
ただ、抱き合ってわれを忘れた若者たちが、うっかり
門の呼び鈴に触れただけだった。

けたたましい音は、澱んだ世界にうずくまっている
千賀子さん夫婦を驚かせる。

その後はまた同じ暮らしが続く…らしいのだが、
読んだ後、楽しくなる小説ではなかった。

時々はこう苦いものも読まないとな、と思うのは、
年取ることで備わったバランス感覚かもしれない。

「坂」といえば、
お能を観に行く時によくお茶を飲む半地下のティールーム。
見上げると坂の上を通るひとたちがよく見える。
またうえから軽くのぞきこむと、
会話している人たちが、小さく楽しげに見える。

年に何回か、お茶を飲んでから能楽堂へ行く。
私にとっての「坂」は、お能なのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「むかし・あけぼの」

おせいさんの「宇治十帖」を借りにいったら、棚になくて
代わりに借りたのがこれ=枕草子
「枕草子」といえば!
治ちゃん…橋本治のがかなり有名で、あちらは軽々とイマ風に
おネエちゃんの生き生きした感覚で、
景色や出来事をとらえている、それもとてもすてき。

おせいさんに惹かれるのは、
登場人物が身近に感じられるからなのです。
ここに居るのはまぎれもない関西人。
(源氏物語から採った短編は、この“関西弁”をしゃべる
源氏や花散里、惟光など出てきて楽しい)

清少納言は、好奇心いっぱいの女性。
教科書に出て来るしかつめらしさもなく、
「紫式部」が評した、「浮ついたでしゃばり」ともちがって、

一瞬の情景や感覚を美しく表現することにたけた、
きりっと前向きで、ちょっとしたことも楽しめる、明るいひと。
美人がどうかは、これはまた別のテーマです。

筋書きは「枕草子」そのものと、この時代のエピソード、歌集などなど
物語としてこなれていて読みやすい、これがたいそうありがたい。
(いまどきのひとのは読みにくいのです。言葉のつながりが読めません)

ふと、これを書いたときの作者の年齢を数えてみると、ひょっとすると
今の私くらい?かと思われます。
それでこのお話のあれこれが心に沁みるのでしょうか?

何より気に入ってしまったのが、清少納言=海松子(みるこ)の彼氏
、えーと2度目の彼です。棟世(むねよ)さん。
50過ぎた男の人が魅力的、なんてね、思ってもみませんでした。
でも、ほんとに彼は、“可愛げ”があって、気持の豊かな人なんです。
彼がみるこに
「うねうね生きようね」と語りかけるとき、
私も心の中で肯いてしまいます。
(「そやね、うねうね生きなね、ゆっくり、楽しゅうに」と)

おせいさんは、作中の人物のあれこれの“可愛げ”を次々と
みせてくださいますが、むねよがみるこに
「家の用事など誰にさせても同じだ。しかし、お前でないとできない
仕事、というのもあるのだから…」とささやき
「お前に中にな何かしら面白い、魅力的なものがある。
そういうものは見る人が見ればわかる。」と寝物語するとき、

このページを読んだだけで、嬉しくてたまらなくなります。
きっと私はこういうことを言って欲しかったときがあるのでしょう。
でもみるこはむねよに先立たれてしまうのです。
最後は世の移り変わりをみつめつつ、中宮のお墓のそばで暮らします。
むねよの形見は残しません。(潔いなあ!)

図書館におせいさんの全集が入っていればまた借りてきましょう。
エッセイは何気なく読み飛ばしてしまってましたが、
“可愛い”男はん、はダンナさんのことやったのかしら?

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「ゆめはるか吉屋信子」

sakura-sitakara
今年の桜ももう終わり。
デジカメで撮影できて嬉しかった。
これは、我が団地の桜
(ちょっとした穴場(笑))

タイトルの本の作者は田辺聖子。
通称「おせいさん」やけど。
小説はあんまり読んでなくて、もっぱらエッセイでお目にかかっていたところは
治ちゃんと似たスタンス。

田辺版「源氏物語」の外伝が気にいったのと、タカラヅカが好きな
作家、という程度の認識しかない。

年取ると“重い”本には手が出ないので
勢い読みやすくて楽しい本が中心になる。

(読むのもやっぱり体力、それに視力)

おせいさんの伝記ものは三冊目
「与謝野晶子」「杉田久女」そしてこの「吉屋信子」
河合隼雄との対談で
「ゆめはるか…」を書き上げます!とあって、
あら、なんと古臭いひとを?!と思っていた。

ところがどっこい、
私が子供のとき、少女小説を買ってもらえたら…きっと
好きになっていたにちがいない、と思える作家だった。
当時の雑誌「女学生の友」=ジョトモには中原淳一風の
一枚絵がついたりしていたが、

そういう本は母のメガネに叶わなかったので、
家にはなかった。
(○年の学習なんちゅう勉強雑誌はあったけど)

一冊だけリアルタイムで、彼女の作品を読んだ事がある。
殆ど最後に近い作品。
「徳川の夫人たち」
「大奥」もので、日曜版に連載されていた。

毎週けっこう面白かった。
わかりやすくてタンジュンで。
この平明さが彼女の到達点だと、おせいさんは言う。

主人公は吉屋信子だが、
“女流の活躍も視野におさめ”とあるように、
文学全集に出て来る女性作家が続々と登場して
飽きさせることがないのはさすが。

それはおせいさんが信子のことが好きだからだ。
小説のストーリーも詳しく紹介され、これ一冊を読むだけで
信子の全作品を俯瞰できる。
同性を伴侶としたことでいろんな噂をたてられたり
「純」ブンガクでないから軽んじられたり、
信子の生き方は真っ直ぐで正直だ。
(時代に対する意見は別)

「おんなこどものおはなしやゆうて、あほにしたらあきませんで!」
とおせいさんが講釈しているようで
そこんとこも実にカンサイ風でよろしい。

暖かさに包まれて楽しく読み終わったあとで、
そういえば、「徳川の夫人たち」とよく似た感じの小説があったっけ?と。

宮尾登美子の「クレオパトラ」だった。
どちらも、たっぷりと華やかでまるで絵巻物。

老い木の美しさがあるとするならば、
物語世界を紡ぎだすこのひとたちだろう。

もう一作、
「花ごろもぬぐやまつわる…」わが愛の杉田久女。
これも傑作。いずれまた

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「百年の恋」

図書館の棚
普段と違う“通り”を通ると違う本に出会う。

短歌や俳句のコーナー。
標題の作者は道浦母都子
私と同い年。

9人の歌人の評伝。
○吉野秀雄
○山崎方代
○岸上大作
○大西民子
○大原富枝
○引野収、濱田陽子
○若山喜志子
○山川登美子
○津田治子

第6章の引野、濱田両氏に短歌を習った事がある。
特に「短歌」にこだわっていた訳でもなかったが、
偶然同人誌「短歌世代」を読んだ知人が、
「京都だし…どう?」と言ってくれたのだった。

習っていたのは1年半ばかりだったか、
記憶はおぼろげだが、
せっせと短歌の本を読み、
例会にも出席し、
先輩たちの歌をかしこまって聞いていた。

そのころ、好きだった歌人が、馬場あき子、山中智惠子、大西民子。

先に、引野師の話をしよう。
桃山の坂の中ほどにある小さな家で
ずっと寝たきりで歌を詠んでいる人。

挨拶に行ったとき、本の中にかかれているとおり手鏡の中から
顔を覗かせ、小さな声で励ましの言葉をおっしゃった。

そのころの私はまだ無鉄砲で、
遊びの気分もまだ多く、
毎号投稿はしたものの、
現実の転変(結婚、出産)で遠ざかってしまった。

実際に歌会で講評されるのは濱田師で、
化粧の濃さにびっくりしたけれど、
苦しい生活だと知ったのはかなり後のことで、

御髪は“鬘”だと漏れ聞いた(本当のことは知らない)

覚えているのは、伏見桃山公園に「歌碑」が立つので
そのお祝いの吟行に行った時のこと。
師の悲しみをわかる大人にはなってなかったが、
歌の響きはまだ覚えている。

「永遠と思えるながきときのなか
  樫たてり黄なる彩雲のはて」

もうひとり、忘れられない歌人「大西民子」
優しく穏やかなのに淋しい歌。

「短歌」誌上で出会った数々の“女流歌人”の中で
(何故か、女性の歌詠み及び小説家が大好きです。)
涙ぐむほど好きな歌がこの人の歌。

いま、一冊だけ持っている歌集。
「海の記憶」大西民子選
その昔、私がしるしをした歌たちを、この本で再び確かめる。

「離婚」が重いテーマとなっているのは知っていた。
なにほどのこと?と簡単に考えていたその時の自分、
いまになって深く感じ入ることが多い。

彼女はたったひとりで、誰にも看取られずに
急になくなったそうだ。
身寄りはすでに絶え、
歌の仲間が住まいを訪ねて初めてその死がわかったと言う。

「桃の木は 葉を煙らせて雨の中
  共に見し日は花溢れいき」
「藻の花の揺らぐと見ればいつの日も
  創(きず)持つ魚の遅れて泳ぐ」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

責任編集

松本清張の“ファン”である。
子供のとき、週刊誌に連載されていた「黒い画集」が出会ったはじめで、
飛び飛びではあるが、あれこれをつまみ読みして飽きなかった。

社会派リアリズムと評された長編よりも、短編のほうが読みやすかったので、
後になって需めて読むのは短編集だった。

今度、文春文庫から
「宮部みゆき責任編集」と銘打った三冊のシリーズが出たとき、
同じみの作品ばかりだしなあ、と買うのを控えていたけれど。

宮部みゆきは「火車」で出会い、
新刊が出るたびにハードカバーで追いかけてきた、
大好きな作家であったため、
ついつい店頭で手にとってみて、
「前口上」をちらっと見たとたんに…レジに走ってしまった。

買ったのは「中」巻。
第5章 淋しい女たちの肖像
 ○ 遠くからの声
 ○ 巻頭句の女
 ○ 書道教授
 ○ 式場の微笑
第6章 不機嫌な男たちの肖像
 ○ 共犯者
 ○ カルネアデスの舟板
 ○ 空白の意匠
 ○ 山

こうしてまとめて読むと、同工異曲のものもあるけれど、
とれも粒が揃っていると感じる。
清張の作品には女を描いたものは多いが
「悪女」と言われるタイプが華やかで目立つので

おやおや、こんなに物静かな雰囲気の短編が
結構あるのだ。

中でも
「式場の微笑」に言及した宮部みゆきの
何行かの解題だけで、この1冊を買った価値はあった。

“孤独な人間の善意と矜持”

学歴の有無に振り回される男の世界や
賄賂が横行する官僚の世界。
闇に隠れた部分に鋭い怒りを持ち続けた清張の
もうひとつの一面。

ささやかに生きているものに対する思いやり、
というのかしら。

彼女が口上を述べてくれなかったら、見落としていたかもしれない。
つつましく生きることは決して悪くなんかないってこと。

気をよくして、あとの2冊もそろえるつもり。
「巨悪」のことも多分、知っておいた方がよいのだろう。
自分を支える何本目かの柱として。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「花の脇役」

「芸づくし忠臣蔵」が気に入って借りてきた
関容子さんの本!第二弾(笑)

歌舞伎についてはまっさらに近い。子供の時のテレビ中継と
おなじく雑誌の歌舞伎評。

伝統芸能に関しては、どれも“ほんの少し”から始まる。

「花の脇役」は文庫本で、「虹の脇役」と対(こちらはまだ未読)
歌舞伎の主役は、家柄中心だけど、
ここに描かれている脇役たちの、

面白くも哀しい、粋で必死でな話10篇。
なだらかな語りの口調も気に入ったし、
知らず知らずのうちに演目が頭に入る気分の良さ。

読み終わったら、泣けてきてしまった。

そうか!何でも主役だけでは出来ないんだ。
脇役、囃し方、道具方…etc

どの人にも共通するのが「本当にお芝居が、師匠が、好きなこと」で
そのためには苦労をいとわないということ。

そうか!好きなら耐えられる、いややっていけるんだ。
そう思うとふと楽になれる。

いちど歌舞伎の舞台をみたいと望んでいたが、
この人に出会って、みどころが大幅に増えた。

何をみよう!?

| | コメント (0) | トラックバック (1)

橋本治(続き)

「蝶のゆくえ」のトップにあるのは
ネグレクトされて死に至った子供を扱った「フランダースの犬」である。

ついこの間読んだが題名を忘れてしまった本!
(某出版社のノンフィクション賞を取ったんだけど)
若い夫婦が、初めての子を育てかね(発達が送れていると思い込んで)
段ボールに閉じ込めて、食事もろくに与えず、死に至らしめる…という事件を

もう一度辿りなおし、親の生育歴、役所のかかわり方、医師や保健士から見える問題点
を細かく、情に流されずにルポしている。

この両親は、私の子供と同世代。
その親(祖母たち)が私とほぼ同じ年。

「どこにでもある」若い二人、と書かれていて、ほんとに近所にいても
おかしくない“新婚さん”
人付き合いが苦手で、子供が小さいうちは、情報も入らず、
若い父は「子育ては母親に!」と思っていて、仕事ばっかりしているし、

思うように育たなかった子供に対して母親は、
続いて生まれた赤子を可愛がって、
牛乳とスティックパンだけしか、与えなかったこともあったらしい。

それを、フォローできなかったその親たち=まだまだ若く、孫一辺倒には
成れない彼女たち。

読み上げるのに辛くて時間がかかった。

治ちゃんが「フランダースの犬」とタイトルをつけたのは、
もともと、暗い話だし…(アニメはほのぼのと見せていたけど)
主人公ネロは、誰からも見捨てられて死んでしまうからかしら。

早く結婚し、子供が出来ても母にはなれず、再婚した彼に
気に入られたいから?子供を縛ってベランダの段ボールに放置する。

学校も祖母も、家の中までは入れないから、
何もしらない。

一冊のノンフィクションの圧倒的な迫力とは別の

くっきり線描されて、浮き上がった、
今、起こっていることたちのひとつとしての「ネグレクト」
“だから…すべきだ!”とは一行も書いてないが、

読んだ後のやるせなさは胸に沁みる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「蝶のゆくえ」

橋本治の小説を「買った」のは初めて(笑)
彼の事は「治ちゃん」と呼んでいて、同じ世代だし、ずっと前から知ってるし、
“知り合い”の人みたいな感覚で居る。

評論やエッセイ、美術関係の著作も好きで、そっちは買うのだけど…
「桃尻娘」以来、小説はなあ??と決め込んでいた。

多分、あまりにも曲がりくねった論理についていけなかったからだと思うのだが
わからないなりに、文体は好きで、「治ちゃん節」を読みたくなると、
ちょいと文庫を購入!というパターン(笑)

「蝶のゆくえ」を買い求めたのは、いつもチェックしている書評に載っていたのが
ひとつ、
もうひとつは、題材の紹介が今の自分にぴったりな“何か”が書いてあるかも、と
興味深かったから。

カンは的中!
私たち=団塊の世代と名付けられている、が目前に控えた「老い」の
問題。
仕事場でもよく話題になる「夫の定年退職後」のこと。
もひとつ理解できない、子供世代の生き方等々。

なんとなく暑苦しいイメージのある私たちは、変えようと望むあまり
置いておけばよかったものたちを“捨てた”のではないかと
ぼんやりと恐れてきた。

「白菜」の中には、「老い」から目をそむけ、向き合わなかった女性、
白髪を染めれば若く居られると錯覚しつづけている女性が出てくる。
観念的に私はいろんなことを学んだ。

♪本やテレビで覚えたことも嘘ではないけど…♪(?)
    by中島みゆき(サッポロsnowy)

そして、今は学んだことを体で覚えなおしている。

短編を6つ収録
「ふらんだーすの犬」「白菜」「ごはん」「金魚」「ほおずき」「浅茅が宿」

タイトルが話しを始めているのもあれば、
なんとぶっきらぼうな!というのもある。
捻らずにまっすぐに通った硬質な糸のきらめき、とおもった。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

「くらやみの速さはどれくらい」

今週は、図書館で借りた本がみんなヒット!という嬉しいことになった。
一番“好き”なのがこれ
エリザベス・ムーン著:小尾芙沙訳・早川書房
(海外SFノヴェルズ)

むちゃくちゃかいつまんで言うと、「自閉症」として知られている病気が、近未来では
手術によって「回復」する!というお話。
主人公の“ルウ・アレインデイル”が、手術する決心をして、
知能としては、以前の驚異的な才能を保ち、

自分のしたかったこと「宇宙船に乗る」夢を叶える。

しかし、回復した彼は以前にかかわっていたフェンシンググループからも離れ
想い人マージョリーに会っても「何も」感じなくなり…

と、「人格の変化」を起こした-----と見える。

さまざまな人々の暮らしのありようを緻密に描きながら、
「障害」と持った、と言われるものの視点。

差別する者の見方。

彼らを雇っている会社側の人間の悩みやずるさ。
恋敵の「ノーマル」な男の卑劣さ。

いくら、並べた所で、うわっつらを紹介する事にしかならないな(汗)

「自閉症」と言われる人の目から見た世界が、とても魅力的だ。
ほんの少し生真面目で、人の言葉の裏側を考えずに、気持は矢のようにまっすぐ。

誤解するのはいつの場合も「優れている」と思い込んでいるフツーのひとたち。
一緒に生きることはそんなに難しいの?
でも、彼が「自閉症」だから、友達になったり、好意をもったりすることもあるのか!!
(多分、あるのだろう…とわたしは思う)

そこで、この標題が問うもの
「くらやみの速さはどれくらい」?

最初に神は「光あれ!」と言われた。そうすると光があった。
ならば、
その前にあったのはくらやみであるはず、だからいつもいつも
光はくらやみには追いつけないのだ。

終章ではルウは元ルウと一体化し(つまり手術後しばらく忘れていた、元の自分の感情を
思い出し)光とともに、はしるのだ。宇宙船に乗って。

どこか、“ゲド戦記”第1巻「影との戦い」を思わせる一体化だった。
それは終わりではなく、始まりだという意味でも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お気に入りの彼女

ドラマ「ごくせん」!!

シリーズ第2弾好調などたばたぶり。
我が家は、娘と私が“仲間由紀恵”のファン(笑)

いわゆる美形な女優さん。
この整いすぎた顔がキライと言う人も居る。

「トリック」やこの「ごくせん」でコミカルな役もし、
大河にも脇キャラで出演。

しかも、来年の大河では主役!!だそうな。
ひそかに応援したきた身には嬉しい。

かなり前
kinki・kidsの堂本剛クン主演のドラマ。
タイム・トラベル、不条理もので
主人公を慕う副ヒロイン役の彼女をみて、

なんと美しい女の子だろう!と思った。

成長してしまったので、あの硬質な美貌は
柔らかくなったけど、
「ひたむき」が似合うヒトだ。

(自分とはあまりに違うがら惹かれるのだろうか(笑))

秋に映画「SHINOBI」で主演。
オダギリジョーが相手役。

原作山田風太郎。(かなりご贔屓の作家也)

ありえない秘術の数々と哀しく切ない恋物語。
これもやっぱり漫画だね。
観に行きまーーす(^o^)//"""

| | コメント (0) | トラックバック (0)