2006.12.31

「室温」…月の裏側を読むような

戯曲を読むのは久しぶり。
第三舞台の鴻上さん以来だ。
「謡」も“戯曲”と言えなくもないが
劇のシナリオとはちょっと違う。


芝居を見に行って彼の作品を“読みたい”と思った。
「噂の男」を演出した、
ケラリーノ・サンドロヴィッチがその人である。

「室温」(夜の音楽)を図書館で借りる。

主人と客のごく普通の会話から話は始まる。
五人の主要人物たちは身もともはっきりしていて
なんの不審な点もみつからない。

とぼけたやりとりの間に来客がある。
この家族の秘密が少しづつ明らかになっていく。

【登場人物】
海老沢十三(作家・心霊相談もしている)
間宮(その娘サオリの恋人)
キオリ(サオリの姉)
下平(警官)
赤井(海老沢のファン)
木村(タクシーの運転手)

少年、老人、ヴァーニャ。

少年たちに監禁されて殺された娘を持つ父親、と聞けば
「被害者」だと思うのが普通だが、
海老沢は怪しげな心霊相談所を開いて高い金をぼったくっている。
ガンで余命がいくばくもないことが途中でわかる。
そして 亡くなった娘のサオリを犯しつづけていたことも。

娘のキオリは父にひそかに薬を飲ませている。
彼女は父を恨んでいるのだ。
男達とつきあって金を巻き上げ、
心を病んだ母の治療のために使っている。

間宮は、サオリの恋人でありながら、同時に彼女を
虐待、監禁、焼き殺した犯人グループのひとりだ。

警官の下平はキオリが目当てでこの家に
入り浸っている。
へらへらしているが実は
目下捜査中の「連続少年殺人事件」の犯人である。

まともそうな木村、偶然に飛び込んできた彼は
窃盗犯である。
ちゃちだがトリックスター役だ。

このお話にはサブストーリーがある。
死んでしまった少年は、
はるかな空からドラマを見下ろしている。
あとふたりの死者、老人とヴァーニャさん、
彼らの話はみんな哀しい。
ただ見ることしかできない彼らにひきかえ
主人公「たち」の自我の強烈さがあぶりだされる。


そしてこのドラマは
キオリに憑依したサオリと間宮が
愛を確かめ合った瞬間に、
炎に巻かれるシーンで幕を閉じる。

すべてが 焼き尽くされる。
跡形もなく、浄化もされず。
救いのないように見えるのだけれど
私はこの劇が大好きだ。
「噂の男」と同じように。

字だけだから動きは見えない。
しかしセリフのひとつづつに
後になってわかる意味が含まれていて
ジグソーパズルのピースのように、ぴたりぴたりと
はまって絵ができあがっていく。
その過程が何とも言えず心地よい。

題材や人物描写は残酷で冷たいし、
ひとりを追いかけてゆく展開でもない。
笑っているうちにふと背筋が凍るようなセリフもある。
赤井(実はサオリを殺した少年達の主犯の姉)が
「どんなにあなたが間違っていても
わたしはあなたの味方だから」というとき。

間違っていて自分勝手なこの言葉に胸を突かれる。
同じような愛が「噂の男」にもあったから。


その「噂の男」のDVDが来た。
表情がはっきり見えて、劇場でみたときより
樂に見られる。
一度みたからでもあり、
テレビだと、距離が遠いからでもある。
この劇も主に絡まる人物は五人だ。
それに絡まるふたり、「骨なしポテト」の
二人組の存在感を大きく感じた。

収録が東京での公演のせいか
関西弁が微妙に共通語っぽい。
アップになると
じゅんさんが遠目より若く見える。

小さな悪さしかできないアキラのしょうもなさや、
ボンちゃんが一番善人らしいとか、
支配人のじっとりした目つきがよくわかるなど、
舞台のときは見逃していた部分が
はっきりと像を結ぶ。

だからといって受けた印象が変わることはない。
よくこなれた五人のせりふの受け渡しは
息つく暇もないし、
「室温」と同じように後半、一気に話が走り出すと
それにつれて痛いような気分になるのもまったく同じだ。

見終えて浮かぶ疑問も。
なぜアキラの霊ははモッシャンの味方をするんだろ、
とか。
私の答えもかわりなく
アキラはモッシャンが自分を思っているのを
よくわかっていたから、
自分が手を下さずに
(つまり彼との関係を壊さずに)
コンビを解消しようと思ったんだろう。

支配人の思慕をはねのけるのも、
かれが「正直」なためである。
でもそういう正直って何になるのだろう。

もうひとりまっ正直なひとがいる。
モッシャンこそは、どこをとっても気持はひたすら
アキラと居ることにかかっている。
だから人を殺しもした。
アキラに死なれた後の彼はまったくのうつろ、
奈落の底の暮らしがぴったりだ。

アキラのためだけを思って行われる殺人の数々、
純粋な輝くようなその心は反面とてもおそろしい。
劇の終わりに舞台に残っているのは、
正気ではないモッシャンだけだ。
彼の心はアキラでいっぱいだから、

輝いていた時を「止めよう」と
してはいけなかったのだ。無理なことをすると
そこから悪いものがうまれるから。
この舞台での関係は網の目よりもっと細かく、
そこから逃れることのできるものはいない。。
原因と結果が、めぐりめぐって、
感情が蒸気みたいに噴き出して、
そして結末へなだれ込む。

DVDには特典がついていて、
役者さん全員のインタビューがある。
どの人も楽しそうに話すのだが、
涙ぐんでいたのがふたりの橋本さんたちだ。
さとしさんは、先輩のじゅんさんと芝居ができるのが
とっても楽しそうだ。
じゅんさんも嬉しくてたまらないようだ。

みんながよいチームだったと口々に語る。
それを見ているだけで、
そんな舞台の時間を共有できて
ほんとうによかったと思う。

いつか、
KERAさんが演出する他の劇も見てみたい。

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2006.12.07

図書館と本屋さん

本を置くスペースが無いので
最近はたいてい図書館を利用している。
インターネット予約の制度ができ、
新しい本が回ってくるのはたいそうありがたいが、
図書館に行っても
新刊が棚にあることは非常に少ない。

「読みたい」本を読むには、この予約システムは
有り難いのだが、
ずらりと並んだ本を端から手に取り、
装幀や活字の大きさを確かめる喜びは、ない。

ちょうど、電子辞書と書籍の辞書の違いと同じだ。


小説に気持ちが動かない時期があって、
しばらくやさしい「経済」本を読んでいた。
書いてあるこれからの日本経済の予想は、
明るいものではなかったけれど、
お金の流れや、景気の変動についての
“現実的”な話を読んでいると、
同じことがらに対してまったく違った見方が
あるのだな、と妙に安心した。


この二、三回は、若い作家の本を集中的に借りた。

山崎ナオコーラ「浮世でランチ」
荻原浩 「押入のちよ」
朱川湊人「水銀虫」

そして戯曲だが、ケラリーノ・サンドロヴィッチ
    「カフカズ・ディック」「室温」
これについては、芝居「噂の男」との関連で
感想はまた今度。

ナオコーラさんは、うちで取っている新聞にコラムを
連載している。
毎週一回のそれで、少しづつ文体に慣れ、
彼女のものの見方の優しさを楽しめるようになった。

ここに書かれている、リアルタイムの「いま」の
感覚は、もう私にはわからないものだが、
活字になればかろうじて、
頭のどこかの受容体は活きているらしくて、
さらっと楽しく読めた。

荻原さんの短編集は、書評が好評だったので
かなりの予約待ち。
時期を置いて借りた。
確かに、面白いし
内容も年齢を問わない。
できのばらつきも少ない。

しかし、よく出来すぎていてそこが
私には物足りない。
きちっとツボに嵌ってはくるが、
以前に読んだあれこれを乗り越えて、
記憶がとどまることがすくない。

「あの日にドライブ」もそうだったし、
「明日の記憶」も同じだった。

その中で、リストラに遭った青年と、
ぶさいくな少女の幽霊、「ちよ」との
ほっこりした付き合いぶりを描いた「押入のちよ」は
ひとあじ違って面白かった。
少し過去の歴史の味付けがふりかけてあるのも
よく効いている。

朱川湊人の本は、棚にあったもう一冊も借りた。
題名は「わくらば日記」。
特殊な能力を持った病気の少女の物語。
彼女がその超能力(千里)で、
次々と謎を解いていくものである。
登場人物が、そのままドラマにできそうな
しあがりで、まだシリーズとして続くようだ。

「水銀虫」はかなりSFっぽく、
人の悪意をじわっと描き出す趣向になっている。
そのにじみ出しかたと表現のテンポが
わたしの好みと微妙に合わない。


最後は「買った」本。
「グレート・ギャツビー」村上春樹訳。

むかし、映画「華麗なるギャツビー」というのがあって、
主演がロバート・レッドフォードだった。(1974年)
映画は見そびれてしまったが、原作を読もうと
したが、数ページで断念した因縁の作品である。
何回か挑戦してみたが、読み終えることができなかった。

それが、春樹さんの訳だと、
すらすらとつっかえずに読めた。
語り手ニックと同化した訳者の視点は
何十年も待って熟成したもので
かすかな苦みが混じっている。
若いときにであい、
読みこんで自分の中にとりこんだ本。
春樹さん固有の文体を薄めて
作り上げた、愛情深い本である。

フィッツジェラルドは若くしてこの本を書いたが
若い時に春樹さんがこれを訳したなら、
きっとこの、やわらかでかなしげで
すみずみまで精緻な光景や人物を
表現することはできなかったのでは、と思う。

「六十歳」
それは、過去を余裕を持って
振り返ることができる年齢であり、
起こったものごとをかみしめることも出来る年齢である。
若さの意味がはっきり分かり、
「愛情」について
めちゃくちゃな思いこみもしないし
自分で自分の位置を修正することもなんとか可能。

そうなってはじめて、1920年代の話を
いまの言葉になおして
訳することができるのだろう。


好きな本としてあとふたつ、
春樹さんはあげている。
「カラマーゾフの兄弟」と「長いお別れ」
ドフトエフスキーはともかく、チャンドラーの
翻訳はとても読みたい。

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2006.11.20

「黒木和雄とその世界」

黒木監督の映画は、たった一本
遺作の「紙屋悦子の青春」しかみたことがない。

しかし、この本の著者の佐藤忠男さんは
映画評論家としてしょっちゅうお目にかかる名前だった。
おふたりが同い年だとは知らなかったし
生年月日にちゅういしたことも無かったが、
1930年生まれということは
戦争が終わった年に15歳、
はっきりと記憶の残る年代なのだ。

私は戦争を知らない。

母からも祖母からも、
戦争の話を聞いたことがない。
亡くなった父は、戦死ではなく病死だった。
親戚の伯父さんも、「内地勤務」だったそうだし。

戦争の「記憶」はまだ明らかだった時代だから
ラジオで聞いた「尋ね人」、
漫画雑誌や映画やテレビにまだまだ残っていた
底流のような何かを呼吸して育った。

新聞やテレビ、ラジオの戦争記事や
ドラマもいまとは違っていた。
体験した人が描く戦だから、
曖昧なところが少なかった。
描かれないものもあっただろうが、
歴史としてではなく近い過去の事実として、
戦は美化されていなかった。

まりつき歌に軍歌が残り、
「傷痍軍人」の格好をしたひとが
アコーディオンを弾いていたころだ。

少し大きくなってから、
あたりまえの与えられた平和の中で
「おとなたちは、
なんで戦争に反対しなかったんだろう」と
思ったこともあった。

そうして今、
戦争に対する見方が
子供の頃とは違ってしまった景色の中で、
この本に出会った。

黒木監督の作品は、どの映画も
わたしの若いときとぴったり重なっているので、
作品の名は記憶のなかにはっきりある。

難しそうだし芸術的すぎてと思い
一度も観なかったそれらが、
いまは懐かしくて涙が出そうになるなんて
ほんとうに不思議だ。

特に「TOMORROW明日」や「父とくらせば」
は、なぜ観に行かなかったのだろう、と悔やまれてならない。

佐藤さんの文章には
同じ年に生まれて同じ時代を生きたひとへの
エールがある。
むかし書かれた評論より、いまに近いものには
さらに色濃く。

ひとつづつの作品につけられた
丁寧な文章は、
先に逝ったひとへ贈る念入りな別れの言葉のようだ。
彼らの年代のひとたちが次々に、
時代の記憶を持ってあちらに行ってしまったら
世の中が
ぐるりと回転するような気がして
めがくらみそうになる。

何か覚えておかなければ、
せっかく残った映像だけでも、
自分の中に残しておかなくては。
そんな気がしてならない。

ひとの一生を季節にたとえれば、とは
とてもよくある陳腐な例だが、

秋が深まって寒さが身に、
じわっと沁みてくる夕暮れの
それでもまだ薄明るい山ぎわに
仄かな明るみがみえているような、

寂しいけどくっきり澄んだ風景が
とても親しく思える。
その中に、知らなかった戦争を知っておきたいと
思う気持ちがたしかに 、ある。

「黒木和雄とその世界」
  佐藤忠男著 現代書館発行

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2006.06.08

楽しいミステリ

ひらがなで「しゃばけ」、これは
いったいどんな意味、と不思議だったが
世にも珍しい、妖怪までも活躍するお江戸ミステリーである。
漢字で書くと「娑婆気」。
014himekingyohunsui


この本は娘が見つけてきて
あっというまに私もはまった。
作者は畠中恵さん、わかいひとだ。
図書館で既刊分をみつけて、
いまんとこ四冊読みあげた。
新聞広告に新刊の案内があった。
「うそうそ」
全巻ひらかなの題である。
「ぬしさまへ」「ねこのばば」「おまけのこ」
ここまでくると、立派だね。

筋がまたすっきりと読みやすい。
短編の連作だから、一区切りついたら、
「残念だけどきょうは寝よう」と思えるのがよろしい。

ここしばらく、宮部さんの江戸ものの短編の新作がなくて、
さびしかったところだから、
気分にぴったり合ったのだ。
解説を読んでみると、
なんと都筑道夫さんの“お弟子”さんだと。
「砂絵師」シリーズその他で、
若い頃せっせと読んだっけ。
軽やかで明るいところが似ているかも。
017derumizuiro

設定がいい。
主人公は病弱な若だんな、彼は一応人間だが、
脇役のふたり、人間のふりをしているが
実は「妖怪」なんである。

ひとり(一匹かな)は凄いような色男で
ふむふむ、絵面がうつくしいなと思う。
私の気に入りは犬神であるもうひとり(一匹)
「いかつくて力もち」の番頭、佐助さんだ。

畠中さんのこのシリーズ、明るいけれどそのなかに
ぽっちりと泣かせるセリフがそこここに見え隠れ、
その配分がほどほどで快いのである。
“名前は呼べば呼ぶほど、そのものにしっくりぴったり
してくる”というフレーズなど、ファンタジーっぷりが
生きている。

いかつい顔つきの癖に涙もろい、
犬神くんの居場所があって、
読んでるこちらもほっとする。
何せ、弘法さんのころから、自分の落ち着き先を
探していたという妖怪だもの。
いいひとに巡り会えてよかったね、と
読んでいるこっちも安心してお茶を啜れる、ってもん。

後は妖怪のオンパレードで、「明るい」怪奇ものが
好きな人にはぴかぴかのお薦め本だ。

人間のキャラでは、
岡っ引きの「日限りの親分」さんがいいな。
若だんなに外の風を持ってやってくるこのひと、
実は大店が振る舞ってくれる菓子も目当てだが
やっぱり自分の手柄や困りごとも言いたくて、
067gazania

病弱ゆえに時間があって
気持ちのやさしい若だんなのとこで
楽しい居場所をみつけているみたい。

それぞれの妖怪たちも、この長崎屋の若だんなが
けほけほ咳している離れが
一番おちつくみたいである。
ぎしぎしと古家をきしませて人を驚かす鳴家(やなり)も、
猫又も屏風覗きもあれもこれも。
居つけなかったのは、貧乏神くらいのものだよ。
 ※画像は無関係です※

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2006.05.06

本ときどき

本を読むにも波がある。
今回、ゴールデンウィーク用に借りた本たちは
どれもなかなかだった。
季節の変わり目は、体調が定まらないし
それでなくとも、最近、目が不調で、
長時間活字を追うのは、つらい。
活字「中毒」になってからずいぶん長い長い。
たばこはやめられたが、字を読むのはやめられそうにない。

☆ハヤカワミステリ「あなたに不利な証拠として」
    ローリー・リン・ドラモンド
アメリカの女性警官を描いた短編集

映画と同様、外国文学も、読み込むのに苦労するが
この本は短編だから、
わりとはやく読み終わることができた。
どのお話も少しづつ関連しており、
鮮やかすぎる結末ではないのが好感が持てる。

映画や本でしかわたしはアメリカを知らない。

そのアメリカと日本の関係を軽やかに書いた

☆街場のアメリカ論
  内田 樹

内田さんは最近になって出会ったひとで、
難しいことばを使わずに、
いまあることがらたちがさらっと解読されている。
押しつけてくる熱っぽさがないのが
おしゃれ。
ブログで書かれたことや、講義などが
本にまとめられているが
横書きのブログより、縦書きの書籍のほうが
頭に入りやすいので、図書館で予約した。
人気が高いこの本、三ヶ月待ちだった。

第二章 ジャンクで何か問題でも?…ファーストフード
第八章 アメリカン・ボディ…
      アメリカ人の身体と性

が特に印象的だった。
視点がちょっと斜めなのも、世代的なものか。
(彼は1950年生まれ)

ブログはその時々のニュースへのコメントや
趣味についての言及がまたたいそう面白い。

☆終末のフール、 魔王
  伊坂 幸太郎

「死神の精度」に続けて2冊読んだ。
どれもすらすら読めて「面白」かった。
共通テーマは“終末”のようだ。

ジャンルとしてはSFに入るのだろうか。
どこかひやりとした読後感である。
三十代だから若い。
歴史の話をしたらとても合わないだろうな。
(私が出会ったことがらは彼にとってはすでに歴史だから)

終末のフール、はあと三年で「小惑星が落ちてくる」
という設定。
限られた時間の中で人はどうふるまうか。
あるマンションの住人“たち”を取り上げた連作短編。
最後にほのぼのとした景色ができあがる。

いっぽう
「魔王」は憲法改正、アメリカ離れ、ファシズム、といった
“硬い”題材を使っての近未来もの。
かなり怖い書き方である。
とても興味深く読んだが、
ひとりのカリスマが権力を握る未来が
この国ではあり、だろうかな、とちょっと疑問。

退屈な小さな事実の積み重ねの結果、
現れてくる現実および近未来のほうが、怖いと思う。
(ただ、過程は生々しくリアルに描かれている)

第二次大戦の後、
世界は資本主義国と共産主義国に分かれた。
もう今となっては遠い過去の話と思われているが

☆文盲
  アゴタ・クリストフ

歴史に必ず出てくるはず、ソビエト連邦の指導者
スターリン圧制下に起こったハンガリー動乱。
(わたしでさえ、その時は子供だったから、
ただ「言葉」として知っていただけの)

その混乱の中、「国」を捨て、言葉も通じない異国で暮らし
新たに「言語」を手に入れて
書き続けた作家の自伝物語だ。

ページ数も少ないし、一時間あれば充分読める。

難しくも気取ってもいない。

だからといって軽くはない。

際だって「面白」いわけではないが
この小説は、重い。
淡々として重いこの本を解題する鍵は
“年表を頭の中でめくること”
内田さんの本にもあった。
このとき、他の場所で何が起こっていたか、を
知っているのと知らないのでは、受けとめ方が違う
という内容のことが。

何もかも、「済んだこと」にしてしまわない
安易に流れないつよさがこの本にはある。

番外
☆平安京散策
  角田 文衛
昔(主に平安時代)の建物は、どのあたりに在ったか、を
詳細に解き明かした「京都」本。

歴史と地理、両方の好奇心が満足させられる。
いまは、むかしをしのぶよすがは、ほとんど残っては
いないけれど、
京都の町なかの表示(○○通り○入下がる、または上がる)
といにしえの邸宅の場所を重ね合わせるだけでも
時間のたつのを忘れて楽しめた。

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2006.04.13

たっぷり(橋本「平家」を読む)

十三巻目でやっと追いついた、
橋本治の「双調平家物語」に。

最初に一巻を図書館で発見したのはいつだったろう。
ずっとその巻だけしか棚にないの
連載が中断になっていると思っていた。

全市の図書館がオンライン化され、
ネット検索と予約が出来るようになった。
うまくできるかは別として、
新しいやりかたに興味があったので
ネット会員になってみた。
どこの館の本でも検索できるということは
一大図書館が出現したことと同じ。
取り寄せシステムもメールで通知なので、
朝のメールチェックを面倒がらなければすべてオーケー、
なんとすばらしい。

結果、新刊や、書評本はたやすく検索できて便利になった。
ただ、棚を眺める楽しみはない。
ネットで本を選ぶということは、あるかないかは即わかるのだが、
その周りの棚の未知の本には出会えない。

調べてみると、何年分だろうか、
「平家物語」は二巻から十三巻まで揃っていた。
次々読んでいく間中、予約は一件も入らないので、
ネット予約した2日後に確実に届く。
どの巻もで、しかも新品同様、ってことは人気がないのかなあ。


読み始めて、あらためて参った。
「平家」物語の話が始まるのが
十巻目くらいからで、
二巻は蘇我馬子から始まる。えらい古い。
古代から飛鳥時代、奈良時代へと続く歴史が
えんえんこまごまと描かれる。

おまけに系図が各巻に三枚から四枚付いていて、
私はこういうの好きだからいいけど、
でも誰が誰の子孫、いりくんでいてややこしい。
そのほかにしっかり人物紹介もついている。

はらはらでもわくわく、でもないし漢字も多い。
でもここらへんの歴史はわりととっつきやすい。
文体はいつもどおり、ねじれたり付け足したりだが、
その呼吸はだいたいわかっていたから
するすると十三巻読了する。
ほとんど斜め読みだけど。
以仁王の挙兵、源三位頼政の敗死までたどりついた。
最新巻の発売は今年の一月。
平家が滅亡し、源氏の巻を経て灌頂の巻に至るには
まだ二、三年かかるかもしれない。

あんまり「小説」的ではないような。
語り部のように橋本さんはものがたる。
ひとりひとりの心理すら目にみえるように。
だけど「心理」小説とは思えない。
この時代はいろんな小説で読んだけれど
私が読んだ限りにおいて、
物語の中のひとつの位置にカメラを置いて、そこから
ずーっと人々を映してゆくものが多かった。
(上からみおろして書く作者の眼)
ないしは、一人を中心に置いて、そのまわりの心理や
行動をクローズアップしていく方法もある。
(主人公の視点)

橋本さんのこれは「絵巻」なのだ、と思った。
彼は「ひらかな日本美術」も書いてるし。
ことのはじめから説き起こし、流れ流れて
くるくる過ぎてゆく歴史の場面を「観て」いる気がする。
十分な時代の説明と細やかな風景描写がある。
たくさんの人物が、淡々と登場し消えていく。

絵巻では、誰を好きになってもいいのだ。
小説には人物の遠近軽重があるが、
絵巻のどの場面にもいるからと言って、
それが主人公とは限らない、一時のあいだに主客は変わる。

いまのところふたりの挿話が印象的だ。

ひとりは藤原頼長
保元の乱の当事者である。

私が彼と出会ったのは、歴史を素材にした子供向けの本
「むかしむかし」シリーズでだった。
題はたぶん「菊酒を飲まず」だったと思う。
王朝人のならいとして彼も重陽の節句の菊酒を、
渋々飲む、という記述、これは日記にあるらしい。
「菊酒を飲む、ただ唇を潤すのみ」
かなりのひねくれものが、この時は
まわりに合わそうと無理していたありさまである。

簡略にそれから後の王朝の推移、摂関家の争いが
書かれ、
彼が孤立していった、何年かさきの同じ節句、
「菊酒を飲まず。長生きしようとはおもわないからである」
と終わっていた。

とてもかわいそうな人だ、と当時の私は思った。
物語の主人公として。
歴史上の人物だと思わなかった。

学校の歴史でも、彼は系図に名前が載る程度の扱いだったし、
ずっと忘れていたようなものだ。
この本で出会ったとき、
橋本さんはこの人をどんな風に書くのだろう、と
寝るのを遅らせて読んだ。

その時代の信じられないくらいややこしい親子関係に驚く。
養子や猶子が当たりまえで、系図は点線や波線で
指でたどらないと、訳わからなくなりそうに複雑怪奇。

身分の低い母から生まれて、父の忠実に溺愛された彼、
子供のいない兄の養子となって身分を受け継ぐが、
頭でっかちで現実がみえてないから、
自分の希望がすべて叶うと錯覚して、
ずるずると乱に巻き込まれてしまう。

男寵が盛んな時代(と橋本さんは言う)
位のある男たちと情を交わし、捨てられ
敗けた後、彼につき従うのは、数人の身内のみ。
会いたいと願った父にも拒否されて、
苫小屋で生涯を終える。

うまく世渡りできなかった彼を、
そのとき私はかわいそうに思った。
人の気持ちを察することができない、
へそまがりで不器用でひとりよがりな彼を。

王朝とは雅びな世界と思っていたが、なんのなんの
「世間」はいつも渡りにくいものだ。
橋板を踏み外したものは真逆に落下し、
以後誰もその人を覚えていない。
先例を尊ぶとは平安の昔からあったと見え、
よりどころとしてこじつける故事来歴にはことかかぬ。
しかしそれをうまく利用するためには、
釣り合いを取り、根回しもしなければならない。
さらには損得勘定も必要だ。
ただめったやたらに「我が正しい」と主張するだけでは
誰もついてはこないのだった。

「菊酒」は縁起ものであるのに、
あえてそれに背を向けて、結果として彼は若死にした。
もし生き延びていても、穏やかな余生はなかったろう。
父忠実は、兄忠通に幽閉されたまま、なお十年以上生きる。
都の北の外れの紫野にて。


原文では読み難いものを色鮮やかに仕立て直す、
職人芸とも言える橋本さんの技。
ゆとりのあるときに原典を借りてきて読んでみよう。
さて、もとの文章に歯が立つかどうかは大いに疑問だけど。

もうひとりは「有名な」俊寛僧都の話。
能にも文楽にも歌舞伎にもある。
鬼界ヶ島に流された僧の話。
なぜ涙が出るのか、少し考えてみる。
橋本さんの書き方は決して「泣かせる」ものではない。
にもかかわらず、泣いてしまった。

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2006.03.20

古代の輝き「白鳥異伝」

荻原規子の「勾玉三部作」
日本のファンタジーとしては出色との評価を得ている。
この「白鳥異伝」はその第二部。

千ページの大長編だ。
読み始めてすぐ、どこかで出会った気がした。
第一部の「空色勾玉」という題名を見たような。
本がまとめて置いてある棚をひっくり返してみると
文庫版が、あった。

そういえば、何か読むものを探して、
買い物のついでにスーパーの本屋に寄って、
表紙絵が綺麗だなあ、と気に入って買ったのだった。
一巻めは、神と人との話だったが、
この二巻目は、大王の時代である。

モチーフは“ヤマトタケル”
主人公の少年は「小倶那」と呼ばれ、
実は捨てられた大王の皇子小碓命(オウスのミコト)であることがわかる。
彼が振るうのは魔力を秘めた太刀。
実母は巫女である百襲姫。

いづも…伊津母 ひむか…日牟加  かげひめ…加解姫
すがる…崇流 まとの…真刀野 などと書かれた
文字から遠い昔が立ち上がってくる。

「空色…」でも主人公は、少年と少女だった。
この巻でも、小倶那と共に育った遠子という名の少女が居る。
ふたりの運命が、「まほろばの国」(ヤマト)が諸国を従えてゆく
戦いの中で激しく変転する。

剣の魔法に対抗するのは勾玉の力である。
登場人物の数は多い。
人物紹介があればもうすこしわかりやすいのだが…。
  

「孤笛のかなた」の上橋さんの作品が“童話”なら
これは少女ファンタジーだ。
人と人との関係がまるで織物のように詳しく描かれている。
そう、王子さまとお姫さまの物語だ。
これでもか、というほど二人をわかつ溝は深まる。
それでもなお、小倶那を慕う、遠子の情熱は引かない。
イヅモからヒタカミまで、勾玉を探して
遠子は旅をする。
剣の魔力に捕らえられた小倶那を救うために。

大王の皇子の身分は腹違いの兄に渡し、
剣を操る魔力(神の部分)は母の亡霊にくれてやり、
本来の小倶那だけが、蘇って遠子と結ばれる。
成長したふたりは新らしい出発をする。

これはファンタジーの王道ともいうべき結末だ。
読み終わったときの感じは悪くない。
美しい少年少女、優しい姉、きっぷのいい青年、
なぞめいたおばば、等々魅力的な人物がいっぱいだ。

ただ、風景が足りないのが(国ごとの違いが見えてこないのが)
わたしには少し物足りない。
ストーリーのスピードが速すぎて
国々のなりたち、祭る神々の違いもわかりにくい。

物語としては面白いが、と「が」がついてしまうのは
背景の「古事記」のイメージがわたしの中で
あまりにもはっきりしすぎているせいだろう。

古事記から取られているエピグラフを読むだけで
勝手に自分のタケルが立ち上がってしまって、
それが、このお話とうまくかみ合わなくて
きしんでしまうのだ。

もう一巻「薄紅天女」が残っている。
すぐに借りてこよう。
このひたむきなドラマを最後まで
読みきってみよう。
ほんとうに、気に入るかどうかは、
それからゆっくり決める。

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2006.03.03

読書の春

インターネット予約のちょっと困ったところは
まとめてどっと配本になることだ。
図書館に行って借りるときは
重い本と軽い本を混ぜて借りる。(中身も、装丁も)

「来ましたよ」とメールがあって取りに行くと、
これはまたお気に入りの作家のそろい踏みだった。

「関与と観察」中井久夫著
わたしより一世代以上上のこのかたは
精神科医であると同時に、“詩”の翻訳家でもある。
その訳詩を読んだことはない。
わたしが読んだのは彼のエッセイを集めた本だけである。

何番目かのエッセイ集だが、
新聞に連載されたもの以外にも、
今の世界情勢について思うことや、はるかむかし、
もう三十年以上前に書かれたものも収められている。

ひとは成熟しるものだなあ、という思いと同じくらい
変わらないものでもあるらしい。

彼の本を読んで感じるのは、
「このように良心的なひとを失ったら、この国は
どうなってしまうだろう」という危惧である。
戦争を体験した世代の中で、倫理的にもゆるがず反対の論を
語れる数すくないひとだと思う。
静かな声で静かな話を。
それが、心に泌みる。

翻訳ということは橋を架けることだと中井さんは言う。
須賀敦子の訳詩に触れて、
彼女はイタリアと日本の間をつないでいる、と言う。
「彼女は小説を書かずにエッセイを書いた。
自分を強く押し出さず、
さりげなく奥にいて、人と人、国と国との架け橋になっている」と。
須賀さんのエッセイは、読んだ瞬間にわたしを惹きつけた。
その端正な古風さで。

言及される本は他にもある。
「日本書史」石川九楊作
書からひもとく日本の歴史。
思わず読んでみたくなる。
読めなくとも、「絵」として理解すれば、良いのでは、と書かれている。
それなら、歴史上の著名人の、
服装のセンスを楽しむようにに読んでみたいものだ。

中井さんの本の中で
優れた訳詩者と紹介された
池澤夏樹著 「異国の客」

この間まで彼はオキナワに住んでいた。
写真入りのエッセイ集も読んだ。
このたびはフランスに移住して、その記録をリアルタイムで綴っている。
「旅人として生きてきて、はじめてヨーロッパに住む」のだと。

中心が好きじゃないと池澤さんは言う。
フランスなら「パリ」と誰でも考えるところだが
彼が選んだのはフォンテーヌブローという、パリ郊外の小さな町だ。
歩いて生活できる場所で、
そこから見える「客」としての発信。
はるか離れた日本に対して思うことを。

メルマガで読んだときよりずっと落ち着いて読めるのは
縦書きだからと、「本」だからだ。
パソコンの画面で横書きの文章を読むのは
昔人間には疲れる。
またなぜかこの本の中にも「須賀敦子さん」が登場する。
風景の描写と詩の言葉。
池澤さんの文はいつもくっきりとしていながら音楽的だ。
実はまだ、半分しか読めていないのである。

そのわけは橋本治の本が二種類やってきたからである。
「ひらがな日本美術史」と「双調平家物語」
「双調平家…」は、前に第一巻だけ読んだ。
そのときは中国の話から始まったので、
「これはちょっとした導入部だろう」と思っていた。
ところがそれは大違いで、
蘇我氏のころから延々と物語が続く。
もちろん歴史の教科書よりはずっとずっと面白いのだけれど。
時々、橋本さん特有の、ちょっと捻った辛口の人物描写もあるし。
四巻でやっと聖武天皇にたどり着いた。
全十五巻の予定のうち、「平家物語」の部分は、三巻分くらいのよう。

「平家…」と一緒に、「ひらかな日本美術史」も届いた。
こちらもしっかり橋本節で、さまざまな美術の解説および紹介。
写真が大きくて綺麗で、
絵や庭や、の説明ばかりでなく、歴史にまつわる記述もたくさんで、
とにかく「よみごたえがある」本だ。
彼の本は好きな人と嫌いな人がはっきり分かれるタイプだが、
長年の間に文章の調子を体が覚えているので
わたしには苦にならない。
それでもこれだけ冊数があると、その濃厚さを緩和するために
軽い読み物も必要だ。
おりよく伊坂孝太郎の「死神の精度」も届く。

おいしい饅頭ににお茶は必需品である。

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2006.02.03

男と女…「憑神」と「ハルカ・エイティ」

最初に読んだ短編が面白かったので、
書評で◎印のこの作品「ハルカ・エイティ」を読んでみた。
図書館のインターネットサービスを利用すると、
目当ての本が、あちこちの図書館から運ばれてくる。
まるで“ア○ゾン”で本を買うときのようだ。
現場に行かずに本を探す、その欠点を補おうと
新刊案内を見たり、人気ランキングを見たり、
いろんな検索方法を試している。

作者は、姫野カオルコさん。

お話は、
「ハルカ」という八十歳、大正生まれの女性の半生の記だ。
肩の凝らない読みやすい文体、(作品ごとに文体と傾向を
変えている、と評にある。)
姫野さんは滋賀県の出身で、作品には故郷とおぼしい
「鶉市」や「鳰の海鉄道」などが登場、ことばも関西ことばで
そういうところも読みやすい一因だ。

滋賀県で育ったハルカの少女時代は面白い。
テンポ良く戦前の女学校を描写し、お見合い、結婚、
「へえ、昔はこんな感じでお見合いしたのか」
「女学校って、高校って、いまとは違うのね」
などなど。
グループを組むのに、貴族のお嬢さん、素封家の娘、大学教授の令嬢、と
ジャンルの違う階層からピックアップされた人たちも
バラエティに富んでいてどんどん読める。

生活のあれこれ、身近な友人との交際などがすらすらと語られていて、
この時代を描いた作品によくある、
“戦争の影”という部分が少ない。
すべてがハルカを基準とした「フツウ」の中に圧縮されているようだ。

違和感を感じるのは後半の部分だ。
ハルカは幼稚園の教諭になって、夫の事業を助ける。
子供は娘がひとり。
夫はちょいちょい浮気をし、
ハルカも、同僚たちと、「家庭を壊さない程度のほどよい」
恋愛をする。
夫に先立たれてからも、若い男に“なんぱ”されてお茶を飲むし。

とてもエネルギッシュでべっぴんなハルカさんは、
「淡々とした普通の女性の戦前から現代を描いて秀逸」という
評者の言葉とはちょっと違っているような気がする。
八十歳でハイヒールが似合って、肌には艶があり、
口紅は珊瑚色。
自分の半分の年の男性と話が合う気の若さ。

少し点が辛くなってしまうのは、私個人の事情がある。
貧乏から脱出できなかった同年代の母を思うと、
「ハルカのどこがフツウやねん」とつい口に出る。

まあ、それはさておいて、痛快な物語であることは確かだ。
これは他の本で感じたのだが、姫野さんが
ふるさと滋賀を描くとき、微妙に屈折した感がある。
遠メガネをさかさにしたような、
はっきりしているのに、奇妙に遠近感が狂っているような、
そんな感じを受けたのだ。

その奇妙さが前面に出た作品を読むときのほうが、
読んだ快感がする、のは困ったことだ。
「いろんな顔を持つ人」らしく、読んだ小説、みな
題材や描き方が違う。
でも共通しているのは、すっぱりしているところ。
男女のことを描くときの、即物的で変に湿らないアカルサが
持ち味のようだ。
私としては、性や恋愛より、彼女のファンタジーが読んでみたい。


もう一冊は、泣かせの「次郎さん」こと浅田次郎さんの新作「憑神」
めちゃめちゃ不運な男の話。
時は幕末、ところは江戸、
貧乏御家人のさらに次男坊、
悪い運をまとまって背負った男。
名を彦四郎という。

年代を持ち出すならばまるきり同年代の次郎さん。
団塊の男の理屈っぽさに、人情の衣をかぶせて
存分に泣かせる術は天下一品だ、と思っている。
でもだんだん泣かなくなってきているけどね。

そもそもは、彼が冗談で拝んだ社が、悪神たちのもので
三人の恐ろしい神にとり憑かれてしまう。
その名は、貧乏神、厄病神、死神。
三という数字はおとぎ話によくでてくる。
みっつの試練を乗り越えると主人公は力を得たり、
困難を切り抜けたり、幸せになったりする。

では彦四郎は幸せになったのか。

たぶん彼個人としては、「自分の運命を自分で決めた」
その時点で充分に満足だったと思う。
神にさえ哀れまれる、何の希望もない次男坊の生活。
いくら能力があっても一生日陰の部屋住みで、
多くの才能が腐ってしまっただろう。
抜け出す道は、「婿養子」か町人身分になることか、
さもなくば出家か。

三つの試練に彼はよく耐えた。
と言っても自分が真正面から受け止めたのではなく、
一度目は自分を離縁した、養家の義父に不幸を「宿替え」(振り替え)し、
二度目はお役目もだらだらしか務めないダルな兄に、
病気を振り替えたのだ。

貧乏神も厄病神も、それをもっともと思うほど、彼個人は
まっすぐで能力のある青年だった。
なにしろ、座右の銘が「かえりみてなおくんば一千万人といえども
われ往かん」なのだがら。(論語の中にあるそうな)
この律儀というか頑固な男のあたまを柔らかくするためには
勝海舟であろうと榎本武揚であろうと、無理な相談なのだ。

しかし最後の「死神」
愛くるしい小娘の姿をとった神には、
彦四郎は心から頼む。いや拝むと言っていい。
自分の納得できる死に方がみつかるまで待って欲しい、と。

彼が見つけたのは、
現代からみると馬鹿馬鹿しい限りの解決だ。
官軍に恭順して逼塞してしまった
徳川慶喜(最後の将軍)の影武者として、
彰義隊のたてこもる、上野の山に死にに行くなんて。

命を捨てることは問題ではない。
捨て方が問題だ、というのは、
ちょっと疑問だけれど、一生懸命考えたあげくに、
己の利を一番にしなかったのはすごい。
つまり彼は、呪われた祠を拝んだことを
最後にみごとに自分の運命を自分できめることによって
ひっくり返したのだ。

彦四郎の便宜を図ったために
閻魔さまに怒られた疫病神と貧乏神は
彼の門出に立ち合う。

お能で言えば「ワキ」として、彼を見つづけてきた
そば屋の主人に、あっさりと軍費の小判を与え、
社会生活では無能だが、
「修験道」(役にたたない分野)では並み以上の
能力を持ったいじめられっこ小文吾をサンチョパンサとして、
キホーテ彦四郎は去っていった。

読後の気分はとてもいい。
「自分」探しの好きな世代としては、
彼の潔さが魅力的だ。
「ぱっと散る」のを変に美化さえされなければ、
死神を胸の内に抱いた馬上姿は、
人の生そのものだもの。

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2006.01.31

「容疑者Xの献身」

このごろ流行らないのがブンガクらしいが、
芥川賞と直木賞はいつもテレビで結果が放映される。
次の日の新聞に、作者についての記事が出る。
すると大きな本屋の平積み台にPOPが立ち、
あっというまにベストセラーに、なる。

かなり以前からこういう状況で、
マスコミがとりあげる本は(本だけ)よく売れる。
私が本を探すときは、
「書評」を参考にするし、ベストセラーは
図書館で予約する。

若かったときは、なんでも読めたものだ。
理解できるかどうかは二の次で。
しかし最近は慣れない文体や題材には手がでない。
勢い、少し年齢が高い作家の本が中心になる。
そういう本は、現代とじかにリンクしていないぶんだけ、
しみじみと回想を誘い、読んでいて気持が落ち着く。


今回の直木賞、受賞作は「容疑者Xの献身」
作者は東野圭吾。
なぜか彼が乱歩賞を取ったときから知っている。
年代的には一世代下のひとだ。
本が出るたびに買って読んだ記憶はないが、
ふと気がつくと文庫本が増えていたり、
図書館に行くと新刊がでてないかな、と
棚を覗きに行く作者だった。

写真はずいぶん老けて写っていた。
可愛らしい青年の東野さんはどこかに行って
渋いおっさんが囲み記事で笑っていた。

いまテレビドラマ化されている「白夜行」も
その迫力に唸った小説だったが、
「容疑者…」は最初から高いテンションで始まる。
その緊張感は最後まで続き、
ミステリーだからトリックも素晴らしいのだけれど、
書いてある文章のどこにも、“嘘”がないことが、凄い。

その行間に降りていくと
ひとつの大きな問題が浮かんでくる。
人と人の係わり合い方、という問題。

謎解きをするのは、短編で探偵役をしたガリレオこと
湯川助教授、ワトスン役は草薙刑事、
おなじみのこのふたりが出てくると、いつもは
軽妙なやりとりが始まるのだが、
この本ではそうではない。

ガリレオはいつもの皮肉さを失っており、
刑事は必死で職務と友情を両立させようとする。

最初から、犯人は読者には知らされている。
それなのに置くことなしに読み進んでしまうのは、
細やかな気配りがすみずみにまで行き届いているからだ。
たとえば、冒頭の川べりの光景。
いまにも今風にホームレスの小屋とその住人の描写から
始まるが、そこに詳細に描かれるのは、いまの社会が
抱える矛盾の一面である。
声高には語られないが、小説を流れる低い音は
「ひとの生きる意味」ではないかと思う。

「人間が書けていない」という審査員の評が新聞に載っていた。
主人公は「X」だと思われているのかな。
それとも湯川助教授?
あるいは、「靖子」?
娘の美里だろうか。

確かにひとりひとりの心理を“細かく”書く、というふうには
なっていない。
そのかわりに、人間「関係」の外側がきっちりと
これ以上ないほど詳しく説明されている。
情緒に流れない東野さんの筆だと
人物の輪郭ははっきりするが、
彼らの内面を「見てきたように」語るシーンが少ないので
肩透かしをくったような気になるかもしれない。

ミステリーと銘打たれているからには、
この小説の主人公は意外な「トリック」なのでは。
登場人物はそれを成立させるために作者が作り出した
架空の人々である。

彼らの生活は、わたしたと大差ない。
ドラマティックな日々も送らず、
ささやかに暮らしているわたしたち。
自分は正しい常識人、と疑わない私たち。
(たち、ではなく「私」と言ったほうがよいだろう)
その常識をひっくり返す“問い”があったって
いいじゃないか、と思う。
ネタをばらす訳にはいかないせいが、
日常と非日常はそんなに遠く離れている訳でもない。


Xが為したことについて、
こういう「献身」は“あり”か、と
必ず問う人がいるだろう。
答える言葉を私は持たない。
ただ、ひとも風景も関係も、すべてがかなしい。

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