2008.07.26

続けて春團治師匠を聴く

池田のまちは、むかしから落語の舞台になっているそうな。
その縁と、桂春團治師匠の出身地という両方で
市を挙げて、「春團治まつり」を開催している。

風の強いゴールデンウィーク、
京都の駅や梅田あたりは人でいっぱいだったが
ここまでくるとさすがに観光客の姿はなく
地元のひとないしは近くのひとばかりのようである。

石橋の駅前にはずらりと屋台の列。
商店街が協賛していて
アイスクリームや焼きそば、定番プラス大売り出しの幟、
賑々しく面白い。

駅から10分とチラシにはあったけど
住宅地の中を歩いているともっと時間がかかった気がする。
こんもりとした緑を見つけて近寄ると
そこがアゼリアホールのある公園だった。

設営された簡単な舞台に、
いましも落語家さんたちが
「始まるまでこちらでお楽しみ~」と
トークを繰り広げている。
物産の店もちらほら、
アイスは売り切れ直前で、思わずひとつ買って
日陰でもりもり食べる。
ますます日差しは強くなり、
風がやたらに吹く。

自由席のため、開演時間30分前には長~い行列。
明るくて広いロビーをもつこのホール
市役所のひとたちのてきぱきとした
整理が好もしい。
ここはチケット取るために電話しても
たいそう応対がよかった。

次々と噺が続き…
念願の春團治師匠の登場は大トリ
疲れた
なぜか、椅子がよくない
客席はとってもフレンドリーな感じの笑いが盛り上がって
こういう穏やかな雰囲気がいいなあ

春團治さんは真っ白のキモノ姿
思っていたより年より
肩の線がなだらかで、
声はとても小さくて上品
その前のヒトが大声だったので
耳を澄まさないと聞こえないくらい(笑)

演目は「祝のし」
他のひとでも聞いていたけど
ゆっくりした話っぷりである。
おかみさんと喜いさんのやりとりが
のんどりしていて微笑ましく、
艶やかな感じだ。

客席からかけ声がかかるのは
すごく面白
ファンなんだろうな。

羽織の脱ぎ方がまた品よく
肩からするっとすべりおちる
そのほのかな色気が
舞台にいるのはひとりなのに
そこにむかしの大阪が
そっくり出てきた気がして
なんともいえないよい気分
たとえて言えば
ほんのちょっぴり
よいお酒を飲んだようなほろほろ酔いの気分である。

噺の中味は
貧乏な喜ぃさんが
大家に向かって悪態をつくところがあるが
「…さらしてけつかんねん」と
息巻くくだりでさえも
春團治師匠にかかると
春霞がかかったように鷹揚に聞こえてくる。
それでも4時間は長く、
話途中でお辞儀をされて
やれやれ、とほっとした気分は否めない

でもトリなんだからもっと聞きたかった、のも事実。


それが一度目
さてついこの間
こちらは地元の市民寄席
回を重ねて○○回記念とかで
大きめのホールでの公演だった。
これも春團治師匠の出演と知って、即申込み
なんとか真ん中あたりの指定席が取れた。

どのひとにもたっぷりの時間が与えられていて
じっくりと噺を聞けた

師匠な中トリ
例によって白の羽織、白の着物(やっぱり綺麗だ)でご登場、
深々としたお辞儀、
座布団に上がるときのちょっとしたみのこなし
その前の噺家さんの
やや荒っぽい雰囲気はすっとぬぐわれ

はじまる噺は「祝のし」
まったく池田のときとおんなじだ。
緩急もほとんど変わらない。
二度目だと
面白いと感じる部分が違う。
というか、ふえる。

池田のときより噺はすこうし先まで進み、
“オチはどうなるんだろ”と
ふっと思いがよぎったとたん、
すっと両手が膝から下りて
「祝のしというおはなしでございました」と
お辞儀されてしまった。

そこで帰ればよかったのだが、
すっかり気分がよくなって、
中入りの後のマジックも、目新しいし楽しいし。
しっかりと拍手喝采。

大トリは笑福亭鶴瓶師匠。
とたんに客席は賑わい、拍手は倍くらいに音量がたかまる。
舞台で鶴瓶師匠をみるのは初めてだから
鮮やかな青みがかった色合いの着物の
きこなしもなかなかよい。

はなしかたもテレビの
「家族に乾杯」とまったく同じで、
活きの良い前ふりネタは面白かった。
噺のなかみも、鶴瓶ふうアレンジらしく
色もようもあるし、ドタバタもある。
(女の役がなかなかうまい)
客席はしょっちゅう沸きっぱなし。

「死神」というこの噺、
さきごろ狂言で観たことがあった。
筋立てはほとんどいっしょ。
ただ最後の部分が、鶴瓶ふうらしく、すこし違っていた。
落語というより漫談に近いのかな。
客をつかむ話術はたいしたものだったが
狂言でみたときのようなぴりっとした感じは受けない。

狂言の幕切れは、
茂山家の当主、千五郎師の「男」の必死さが
おのが命を繋ぐことに成功した、と思った瞬間ばたりと倒れる。
みているこちらははっと息を呑み、
そのままはなしは終わる。

落語のほうが粋なオチではあるのだがなあ。


※もっと早く投稿しておけばよかったのに…
引越その他でパソコンが使えず、こんなに遅くなってしまった。

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2008.05.16

花の鏡となる水は…「桜川」

花見時に花が見られず
残念な思いをした

とくにわが町は観光地であるので
春に出歩くのはとても体力がいる
それならいっそよそへ行こう、と
この間は山あいのさくらを訪ねた

そして今度は舞台の上のさくらを見ようと
西に向いて汽車に乗った。
意外に、神戸より西に行くことは少ない。
(わたしはほとんど旅をしないので)
新幹線ひかりも大阪からはひかりレールスターとなる

海沿いを行くといいのに
効率のせいかトンネルばかり
時々左手に光るものが見えるけれど

一度来たことがあるので
おおまかに駅からの道はわかるが
念のためタクシーに乗る。

開場してかなりたつのに
門前も受付も人が多かった。
まず座席確保に二階へ上る。
脇正面に座ってみたが
まわりに人が座ると動きにくいかな、と
中正面に移動する。
席の数が少ないのでどこからでも
間近に見られるのがありがたい。

きょうの目当ては「桜川」
シテは大島衣恵さん
輝久さんのシテか衣恵さんのシテを見たかったのだ。
外からの明かりが柔らかく入ってくるこの能楽堂、
舞台の床は磨き抜かれて
ひとの姿が映る
舞台の高さが低めなのも見やすい仕掛けのひとつだ

解説が珍しいことに笛方の帆足さんだった。
お話を聞くのははじめてである。

笛を奏でながら見る舞台は、
わたしたちとはまったく違うことがわかる。
なにせ、舞の背中を見ているのだから。


前場がたいそう短い。
橋がかりに出たシテは、
我が子の手紙を読むとすぐ
悲嘆にくれつつ
後を追って旅に出る。
鬱金と緑の装束で
若さが匂い立つような母である。
低めな声が聞きやすい。

次に見るのは広々とした境内で
可愛い子供を連れた僧がゆっくりと歩いてくる。
咲き誇る桜を愛でながら、
ゆったりと花の下に座をしめる。
子供はつっととその傍に座る。
お人形のように愛らしい。

里人にいざなわれて登場する後シテ
網を持ち、小走りに舞台に走り込み
ワキの僧と問答をする。
きりっとして洗練された受け答え。

クセの舞はひたすらに美しい。
川に散りこむ花びらを掬うすがた、
ひたむきなその横顔は
やつれてはいてもやっぱり若さがにじむ。
一面の花に囲まれて舞っていても、
我が子恋しや、とふと覚める
しんみりとかき口説くさまに風情がある。


大島能楽堂は響きがとてもよい。
笛は散り舞う花のように鳴り、
やわらかな小鼓の音色、すっきりと通る大鼓、
お囃子がひとつになって
目からも耳からもたっぷりお能に浸る。

舞台では、母と子が出会い、抱き合い
喜びのうちに故郷に帰る。
うれしいハッピーエンドだ。

観ているこちらもほっと息を吐く。
世知辛くて悲惨なことのほうが多い昨今、
せめて舞台のうえでは
不思議な時空のなかで、夢をみたいから。

ここの雰囲気は暖かくて行き届いていて大好きだ。
休憩時間はギャラリーへ。
後でゆっくり見たかったが、終演時刻が延びて
あわただしく駅まで小走り。


いつか「鞆の浦」にも行けますように。

※狂言は「清水」
茂山千五郎家の兄弟が出演
能楽堂の外まで聞こえそうな声、
呼吸はぴったり合っていてさすがなものだった。
つい、ひいきの茂さんのほうを多めにみてしまう。

平成20年 第二回大島能楽堂定期公演
      4月20日(日)12:30始

能「桜川」

シテ(桜子の母)   大島 衣恵
ワキ(磯辺寺の住職) 森本 幸治
ワキツレ(里人)     広谷 和夫
ワキツレ(人商人)   江崎 敬三

笛            帆足 正規
小鼓           竹村 英雄
大鼓           守家 由訓

狂言「清水」
太郎冠者        茂山 正邦
主人           茂山 茂

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2008.05.14

「どん底」…罪なのは、うそ?まこと?

出演者だけではなく
演出がケラさんだから、見たかったこの芝居。
ゴーリキーの「どん底」、文学史で名前だけは知っているが。
なんとなく暗そうだけど
脚本もケラさんだから大丈夫だろう、と。

真ん中よりやや後ろより、
でも全体を見渡せる利点がある。
通路にも近くてありがたい。

ケラさんの舞台のしつらえはいつもそうだが
かなり複雑なつくりになっている。
とある安宿。
中央のドアは外への通路、
その横の小部屋は泥棒ペーペルの部屋。
さらにその下手の寝台に男爵、帽子屋や靴屋は床に毛布を引いている。
のちに登場する巡礼の老人、ルカもその辺りに寝ていたっけ。
上手を見ると、すぐのベッドに若い娼婦
その横は瀕死の病人アンナの寝台。
いちばん端っこ、
押し入れのような二つに分かれた部屋の上段には
アル中の役者が住んでいる。
その前に錠前屋(アンナの亭主である)が座り、
ひがな一日鍵を磨いでいる。
その耳障りなきしみ音が一種のBGMだ。

まん中には大きなテープルがどかんとあって
そこに住人たちが集まって酒を飲んだり話をしたり。

はじめのうちは
誰が誰やらわからず、
小一時間は「この人誰だっけ?」の状態が続く。

脚本は原作とは随分変わっているそうだ。
それぞれのひとの物語とお互いの関係が
薄紙を剥ぐようにあきらかにされていく。
その絡みあいが「ケラワールド」だとわたしは思う。


ルカ老人が宿屋に入ってくるまでには
みんなの名前や日常はあきらかになっている。
いかさまばくちで稼いでいる男、サーチン、
酒飲みの男爵、その子分格でつきまとう役者、
娼婦のナスチャ(男爵の酒のでどころは彼女だ)

「こんなところに堕ちてきて」と繰り言ばかりの錠前屋は
無愛想でいつも怒っている。
妻のアンナはひどく咳き込み続け、死を目の前にして
生きることを呪っている。

彼らに比べると、
揚げ足とりの帽子屋や、すっとぼけた靴屋は
すかんぴんでも楽しそうにふらふら生きている。
また饅頭売りの女は、この中ではいちばん明るくてしたたか。

彼女の「饅頭を食って腹を壊した」と言いつのる兄弟が
「賠償しろ」と脅しに来るところが幕開けである。
ほかには、若くて生きのいいぺーペル(泥棒だけど)、
不気味な大家、
毒々しいその妻と、清楚な妻の妹。
なんとまあ、たくさん人が居ることだろう。

プログラムより
“とある木賃宿、
ここには人生への諦めしか持ち合わせていない住人たちが
巣くっている………。
誰もが訳ありげでアヤシい。
彼らは強欲な宿の大家夫妻に悪態をつきながら
互いにいがみ合い、それでもそれなりの平穏を
保ちながら生活している。

だが…不穏な空気が漂いだす。
周知の事実だった泥棒と大家の妻との不倫が、破綻しそうだと。
泥棒は…妻の妹に惹かれはじめたのだ。
さらに「謎の老人」が宿に現れる。
老人は…おしゃべりの中で
「希望」や「未来」の話をはじめる。
「何もかも失ったってねえおまえさん、未来だけは、
まだ残っているのさ」と。
老人の言葉は住人たちの心に波紋を起こし
宿の日常はバランスを崩しはじめ…。

(※…は略した部分)

筋書きを追っての感想は書けないから
思いついた順に記してみる。

まずは役者
極めつけのアル中で、むかしの舞台の自慢をするが
記憶はもうぐずぐずに崩れている。
シェークスピアの名も忘れ果てているくらいに。
ただのらくらと誰彼となく酒をたかるだけの毎日だ。

ところがそこへルカ老人がやって来て
彼の傷んだ“五臓六腑”を“無料”で治してくれる病院が
遠いどこかの街にある、と言う。
その言葉が酒にふやけた頭に衝撃を与えた。
酒を控え小遣い稼ぎをし、その小銭を持って
旅に出ようとするのだ。
まわりのみなはそんな役者を嗤う。

ある夜彼は絶頂のころに演じた芝居を思い出す。
見る人は誰もいない夜の宿屋の汚いテーブルに上って、
朗々と主役の台詞を語る彼。
過去を、引きずり出してしまったけれど
真実と向き合うのは辛い。
ルカの話も嘘だと悟って絶望した彼は
末期の酒を一気のみして、広場で首を括る。

役者の末路は、ルカがみなに語った小話と対応している。
「心高潔なひとが住む“真実の国”を求めて
貧しい暮らしに耐えていた男が、
その国の有る土地を知りたいと望み、
そんなところは無い、のだと悟った夜に首を吊る」
哀しいが残酷な挿話である。

彼の最後を目撃していたのは若い娼婦だ。
安物の恋愛小説をネタに悲恋の主人公になることで
日ごろの憂さを耐えていた彼女。
しかし彼女は「本の世界」はフィクションである事を知っていた。
だからこそ荒れ狂い、
持っていた本を踏みにじり外に飛び出した。
彼女が死ななかったのは
「嘘」をつっかえ棒にしていると知っていたからである。

インパクトが強いのは
極貧の人びとから金を巻き上げる大家、
死人のように青白い顔つき、。
もったいをつけた言い方もいやらしく、
あこぎな取り立てで住人たちに忌み嫌われている。
最後にははずみで死んでしまうのだが
だれ一人惜しむものはいない。

巡礼のルカ老人を演じるのは段田良則、
「薮原検校」でその芸達者ぶりは知ってはいたが
声やしぐさのすばらしさ。

物わかりのよいこの老人、ある時は神父のように
住人の愚痴を聞くやさしい無害な男にみえる。
しかし、こんな侘びしい木賃宿に来る流れ者であるから
ひょっとすると犯罪者かもしれない。
それを匂わせる会話が、家主とのあいだにかわされる。

でも肝腎なのは
彼が来たために、人びとの運命が変わってしまったことだ。

たとえば、泥棒のぺーペル。
若い彼にルカが「こんなところから出てどこかで
人生をやりなおしたらどうだね」とさえ言わなければ、
彼はナターシャにプロポーズしなかったろう。
彼女を得るためにぺーペルは律儀に
不倫相手のナターシャの姉、ワシリーサに別れ話を持ち出すのだ。

清純なナターシャも同じようにルカの言葉を聞く。
ぺーペルを愛しているのに
どうしても信じられなかったナターシャ。
彼女はぺーペルが姉と共謀して義兄を殺した、と思いこみ、
警察にぺーペルの罪を告発する。

確かに突き飛ばしたのはぺーペルだが、
なぐりかかったのは大家のほうだったのだ。
嫉妬したばかりにナターシャは
恋人も姉も自分も失う。
町外れの沼のほとりで、奇妙な笑いを浮かべていたのを
目撃されたのが最後の姿だった。

いっぽうしょっ引かれたぺーペルは
“うなだれたまま一言も口を聞かず
背中はむち打たれて傷だらけになっていた”と字幕が語る。
江口洋介が颯爽として演じただけに
見えないその姿が哀れである。

サーチン、このイカサマ師は
ある夜ルカに自分の過去を語る。
大学生のとき、飲みすぎて調子に乗り
組合事務所にカンテラを投げ込んだと。
そこに居た人びとは焼け死に、彼だけなぜか捕まって
23年という長い月日を監獄の中で過ごした。
死者の中にはサーチンの父が含まれており、
刑は勤めあげたものの
彼は父に対する罪の意識を持ち続けていた。

口に出したことで幾分気が晴れたのか、
以後の彼の話し方は
どこかルカを思わせるようになった。
穏やかなやさしげなところが。

そしてアンナ
日がな愚痴を言い続け激しく咳き込み
それでも夫の言うことには逆らわないあわれな女。
このみじめな木賃宿に来るまでは
どんな夫婦だったのだろう。
今は、何を愚痴ってもみな右から左で
死ぬことへの恐れを必死に訴えても
だれも耳を貸さない。
ルカだけが、繰り返し繰り返し
天国の安らかさを、説き聞かせる。
憐れみに満ちたその言葉のおかげで、
だんだん彼女は落ち着いてくる。

なのに、吐息をついたその後に彼女は言うのだ。
「(天国が)そんなにいいとこだはよくと分かったけど
もう少しだけ生きていたいねぇ」と。
なぐさめのない人生でも、もう少しの時間が欲しいと
ひとは思いながら終焉を迎えるのだろうか。
またその声は愛らしく美しく、
嘆きの時さえ音楽のような抑揚をもっている。


一方に元気いっぱいな万頭屋が居る。
ここの暮らしにへこたれず、あり得ぬ夢もみず、
過去に苦労をしたけれど、忘れて見ないふりもせず、
ただ、市場で饅頭を売って生活の糧とする。
現実と確かに折り合いがついているのだ。
彼女が登場すると、漂っていた悲哀が薄れ、
喜劇的なやりとりに、住人たちですらやんやと喝采する。
最後の場面では大家の親戚である元警官と結婚し、
「大家夫人」として姿を見せる。
たった一度、彼女がかなしい声を出したのは
ぺーペルが縄をかけられて連れ去られるときだった。
明るさの底にある翳をかいま見せた瞬間である。


テーマソングが「カチューシャの歌」
歌詞は昔のそれとは微妙に違うが、
哀調のなかにも希望を感じさせる歌である。
四人の楽隊が(トランペット、サックス、太鼓、アコーディオン)
辻音楽師の扮装をして演奏する。

三時間半の芝居の最終場面

嫌な訪問者をみんなで追い出し、
気持が通い合った住人たちが楽しげに歌う。
行進曲のように勇ましい「カチューシャの歌」を。
リフレインが続いて盛り上がったところにドアが開き
暖かい空気を裂いて娼婦の絶叫が響きわたる。

「役者が首を括っちゃった」


夢みるだけではひとは傷つかない
嘘はしばしばひとを傷つけるが
真実はもっとひどくひとを傷つける

人と人の関係が奏でる響きを彩るのは
風や雨や雪だ。
痛い音をたてて吹き
激しく戸を叩いてひとを気落ちさせる。

ただ雪は、雪だけは
惜しみなくきらきらといつまでも降る。
凍えないためには、もう一度歌わなければ。

2008年4月15日(火)13:30
シアターコクーン
「どん底」 脚本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ

CAST
ルカー(巡礼)       段田 安則
ぺーペル(泥棒)     江口 洋介
ワシリーサ         荻野目慶子
ナターシャ(その妹)   緒川 たまき
大家             若松 武史
サーチン          大森 博史
錠前屋           大鷹 明良
アンナ(錠前屋の妻)   池谷 のぶえ
帽子屋           マギー
男爵             三上 市朗
娼婦(ナースチャ)     松永 玲子
万頭(クワシニャー)    犬山 イヌコ
メドヴェージェフ       皆川 猿時
役者             山崎 一

兄と呼ばれる男      あさひ7オユキ
弟と呼ばれる男      黒田 大輔
靴屋             富川 一人
衛生局の男        大河内 浩

浮浪者(ミュージシャン)
   トランペット      鈴木光介
   サックス        日高和子
   アコーディオン    高橋牧
   パーカッション    関根真理、石川浩司 
  
   他

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2008.04.14

花の道をとおって…「ミー&マイガール」

宝塚は遠かった。
乗り換えや乗り継ぎは、隣県のこととて
何の不安もないが、
梅田から三十分、のうたい文句
その梅田に着くまでの時間が必要だからだ。

中山寺、売布(めふ)神社、清荒神
こんどは社寺めぐりに来なあかんわ、と言うほど
神社やお寺が駅名である。
小豆色の阪急電車は始発では快速急行だったが
ここまで来ると各駅停車。
いちいち律儀に止まる。

桜はそこそこに咲き始め、
風は強いが散る気配はない。

終点の宝塚駅で降りても、迷わずに済んだ。
それらしい人たちの後をついていくとモールに。
出たところが「花のみち」の入り口、
あとはまっすぐ歩くと大劇場だった。

入ってからもかなり歩く。
客席の入り口前のロビーのあちこちに
お弁当引換所がある。
わたしも予約券と交換する。
(「生協の方はこちら」と立て札が)


さて…どこで食べよう。


中庭には椅子とテーブル
お天気ならよかったのだが
この日は時雨がちで寒い。
でも、まだこの劇場に慣れていないので
結局そこで松花堂風弁当を食べる。(お茶つき)

次は途中でサンドイッチかおにぎりを買おう。
レストランの予約も受け付けていて
休憩時間に食事することも可能らしい。
※ また休憩時間なら客席で食べてもかまわないのだった。
  かなりの人がそうしていた。 気楽でよいなあ。
 


「大」劇場というが意外にこじんまりしている。
取れた席は真ん中よりやや後ろで、上手の壁際だった。
インターネットで調べたときは
見にくいだろうな、とがっかりした。
ところが傾斜の具合が絶妙で
オペラグラスを使うとくっきりと舞台が見える。

オーケストラピットより客席側に
半円形に一本の道がとおっていて
これを「銀橋」というそうだ。
フィナーレではそこにスターが並ぶのだそうだ。
幕が上がってオーケストラが演奏をはじめ
やっぱり生の音はすてきだった。

今月の舞台は
「ミー&マイガール」
軽やかな恋愛もの。
職場の同僚の熱心な宝塚ファンに
むかしの公演ビデオを貸してもらって
予習済みなのである。
(天海祐希主演のものを)

ほとんど全部と言っていいくらい女性客。
年齢層もめちゃくちゃ幅広い
母娘連れが目立った。


やや小柄に見えるが親しみやすい感じの
男役トップは瀬奈じゅん。
この公演で退団の彩野かなみ(娘役トップ)の
すらりとした足がきれい。

“イギリスのある伯爵家、家を守る伯爵夫人
やっと跡継ぎの青年がみつかるという知らせに
家中がうきうき。
ところが現れた彼は、ロンドンの下町育ちで
行儀は悪いは、同じ階層の婚約者はいるはで
貴族連中大あわて。

何とか伯爵らしくさせようと、夫人は二人の仲を裂く。
自分が居ると彼の迷惑になる、と悩む娘は身を引く。
でも青年は彼女を忘れられず…

いっぽう伯爵夫人は彼に「すてきなレディを紹介する」と言う。
現れたのは、すっかり上流階級の作法を身につけた彼女。
夫人の粋なはからいで、ハッピーエンド。

この恋にからむのが、夫人の甥と姪の恋模様や
夫人を想い続ける旧友や弁護士。
召使いの群舞、クリケットをする貴族たち、など
解りやすい歌と踊り、群舞で綴る二時間半”

年配の役を演じるのは「専科」のスターで
貫禄が一回り違う感じを受けた。

化粧は濃くて、どのひともお人形のように見える。
見ている間にだんだん慣れて、
顔立ちの見分けがつくようになってきた。
あとは声で聞き分けたりする。
(トップを間違える事なないけど)

その他おおぜい、の中に
お気に入りのひとを見つけて応援するのが、
「ヅカのファン」のならいだそうだ。
なのでわたしもオペラグラスを手から離さず、
右から左へまた右へ、と
舞台に立っているひとたちを熱心に眺めた。


この春はじめての舞台にたつ
新人たちの口上があった。
男役はショートカット、娘役は長い髪、
全員のラインダンスは、白と赤の羽根つけて登場。
一斉に足があがり「YA!」とかけ声がかかる。
まぶたがふと熱くなる。
いいなあ、若いって、と。
応援したくなるのがよくわかる。
これと似た気持ち、夏の甲子園をみている時だ。
その懸命さに、やっぱり切なくなる。


たっぷりした幕間のあとの、二幕目は早々と終わる。
いよいよのフィナーレ、電飾の輝く大階段を
次々と出演者が降りてくる。
トップは階段の途中でダンスまで披露する。
さすが。

三番手、二番手、トップ、と順番に登場する。
ライトは常にトップの男女に当たっている。
これって、洋風に見えるけど、伝統芸能なんじゃない。


しかし家からはあまりに遠い。
往復に六時間弱かかった。
これなら東京まで行って帰って来れる。
チケット代とパンフレットはとても安いのがいいけど。

もう少し楽な方法を尋ねた。
ずっとJRで行けば、よかったのだ。
阪急の駅の後ろ側にJRの駅があるらしい。
せめて、あと三十分短縮できれば、
気軽に楽しめるもの。

2008年4月15日 午前11時開演
宝塚大劇場  月組公演
   「ミー&マイガール」

キャスト

ウィリアム・スナイブスン  瀬奈 じゅん
サリー・スミス        彩乃 かなみ
ジョン・トレメイン卿      霧矢 大夢   
パーチェスター(弁護士)  未沙 のえる   
マリア公爵夫人       出雲 綾      
ジェラルド(夫人の甥)    遼河 はるひ
ヘザーセット(執事)     越乃 リュウ
果物売りの男        青樹 泉         
ランベス・キング       桐生 園加
ジャクリーン(夫人の姪)  明日美りお   

  月組80名 初舞台生 44名 専科1名

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2008.03.31

「リア王」…運命にあらがう老人

今回の舞台背景は松羽目
裾に秋草の模様が描かれている
丈がとても高くて開閉が自由
両側に扉がついていて、そこから出入りができる。

舞台の前面には砂盛りがしてありでこぼこである。
そのせいで
登場人物の歩き方はなめらかでなく、
それがかえって
自然のなかを歩いているような効果をあげる。

シェークスピア悲劇「リア王」
主人公を演じるのはは平幹二郎、
怪演としか言いようがない不気味さ。
善悪を越えた巨大な老人を、アク強く演じている。


こどものころ少年少女向け物語を読んだわたしは
優しい年老いた王は凶悪な姉妹にひどいしうちを受け、
末娘のコーディリアだけが
父を慕って迎えに来るのだ、と思っていたが。

蜷川演出のこの芝居はそれとは大違いで
この日わたしの前に現れた姉妹たちは
まったく違ってみえた。
上のふたり、ゴネリルもリーガンも
父リアの、権力欲、傲慢さ、頑固、偏屈、
カリスマ性を受け継いでいる。

ゴネリルの、
夫をないがしろにして、
何でも自分できめようとする男勝りな性格は
あきらかに父の一面だし、
リーガンは夫とかたらって
残酷な性格をあらわにする。
その夫はリアには及びもつかないが
我が儘で支配的なところは、妻と好一対である。

そして可憐なコーディリア。
彼女は自分の心に従って、
リアにおもねることを拒否するが
そのかたくなさと頑固さは
まさに父の縮小版である。
また彼女は、夫に「頼って」
父を救おうとするのだ。
愛らしく純粋ではあるが、夫に対する態度も
姉たちとはおおいに違う。

もし、もう少しもの柔らかに父の気持を
なだめられたなら、
その後の悲劇は食い止められたかもしれない。
自分のしたことは正しい、と思っている、
その部分ではやっぱり彼女も、
リアの娘であることにまちがいない。

こんな人たちに囲まれていたなら
並の男はどうしようもなく萎縮してしまうだろう。
オルバニー公爵はその典型だ。
頭はよいがぐずぐず屋。
とにかく波風をたてないのが彼の生き方のようだ。
自分への暗殺計画を知ってやっと腰をあげる。
その後はなかなかの粘り腰を見せる。
(もっと決断が早ければねえ)

重要な脇役、
エドガーとエドマンドの兄弟。
池内博之は、坊主頭が濃い顔立ちと相まってぴったり。
異常なまでの出世欲も、
姉妹の両方にいい顔をするのも、
それまでの育ち方からして、とても自然。
正当な嫡子である兄への対抗意識でいっぱいである。

「世間知らずのぼっちゃん」と弟に揶揄される
兄のエドガーには高橋洋。
蜷川演出の舞台にはほとんど登場する若手の芸達者である。
この人の演技がすごかった。

弟の罠に嵌められて、追われる身になった後の
彼が選んだのは
“『乞食』になってこの国にひそむ”ことだった。
それも気がふれた乞食に。
あわれなトムに変装して登場したとき、
彼は爪先だってすべての動作を行った。
かん高く調子外れな声、
ほとんど半裸のみすぼらしい衣装。
誰が彼をグロスター伯爵の御曹子と思うだろうか。

運命はエドガーに、父を先導する役目をあたえる。
よい人だが優しすぎて、
コーンウォール侯爵とリーガン夫妻に
目玉をえぐり取られて放逐された父。
その心は弱すぎて、生きていく望みを失っていた。

エドガーは辛い気持を抑えて、
父を励まし、リアの元に連れて行くことを約束する。
全編リアの狂気が支配するこの劇のなか
リアの登場しないこの場面が
わたしにとっては忘れられないものとなった。


ふたりの旅は、青色のスクリーンを背景に
まるで歌舞伎の道行きのようだった。
奏でられる楽は笛と鼓
ピアノの音がそれらを縫い合わせる。
杖を頼りの父と支える息子、
高橋洋と吉田鋼太郎の息がぴたりと合い
たたまれた背景に僅かに除く秋の草が
この情感に彩りを添えていた。


見ず知らずの相手と信じ
神の思し召しだと思い、
心を預けて「よきサマリア人」と旅した父は、
相手が息子だと知ったときに
安堵ではなく辛さを感じて息が絶えた。
そのできごとは幕の後ろのことだから
ただエドガーの語りでしか知ることはできないが、
老いた父の心根が哀れでならない。

試練を乗り越えたエドガーは
新しい世代を象徴している。
引き裂かれたものをもういちどつなぎ合わせる事で
善良だが弱かった父の過ちを、
繰り返さずに前に進めるはずである。


もうひとりのリアの「味方」ケント伯爵。
彼は強い意志を持った善人であり
間違ったことは何ひとつしていない。
しかし彼の不在が
間接的にリアを追い詰めたことは間違いない。
正しいことを主張して、皆の目を覚まさせたくとも
(皆の中にはもちろんリアも含まれる)
宮中から追放されれば
悪い方に転がっていく力関係に
なんの影響も与えられないではないか。

荒野をさまようリアは
ケントが付き添っていたからこそ
生きのびることができたと言える。
彼の行いは、立派としか表現できないが、
コーディリアの場合と同様
もう少し他に道はなかったのかしらと思ってしまう。

狂ったリアは、それゆえに
王座についていたときよりはるかに
優れた直感をしめす。
グロスターは神に頼るが
リアはそのようなものは不要として退け
天地に向かって反逆し、呪い、喚く。
そのものすごい形相、声音。
とつぜん雷鳴とともに
小型の爆弾のようなものが、
舞台の上にぼたぼたと落ちてくる。
あれは何だろう。
あきらかに不吉なそのものが立てる音のせいで
人びとは大声で叫ばないと聞こえない。
ここがわたしにとって二つめの
心揺れた場面だった。


リアは自分の不幸な運命を
はじめは怒り、ついで否認し、最後には受け入れる。
狂っている時間はどんどん長くなるが
その中で語ることばはより本質に近づく。
口調がだんだん道化めいてゆき
付き添いの道化は姿を消す。
王であったこの老人の変化の不思議さ、
その生命力の強さ。

運命に抗うばかりで
決して「神」にはすがらないのである。
そして最終最後に
「受け入れた」彼がしたことは
コーディリアを殺した衛士を殺すことだった。

「昔ならもっと簡単に…」
血まみれで登場する彼のセリフである。
年老いたいまは力も衰えてしまっているが
リアは自分手で、自分の肉体で決着をつけた。
もしもう少しの間命を長らえたなら、
娘の稚いかたくなさが愛情であることを
知ることができたろうに。
また娘ももっと素直に、父への愛を語れただろうに。


しかしながら、ひとときだけでも
コーディリアと再会したことで
リアは暴虐で尊大な王から
自分のたいせつなもの(ひと)を
かけがえがないと感じることができるようになった。


ただもう、彼の時間は終わったのである。


舞台には、ゴネリルとリーガンの棺が並び
リアは死んだコーディリの胸に凭れて息絶える。


あまりにも重く暗い話だ。
「老い」のもたらすさだめに押しつぶされそうになる。
生きることのはかなさ、つらさに涙がにじむ。

気づくとまわりは若いひとばかり、
彼女や彼には、これは架空のはなしにみえるだろうか。

いまのわたしには身につまされる。
認知症になった母がこのリア王のように
頑固さや、厚かましさや、おもねりなどを
知らず知らずに剥きだしにして暮らすようになっているので。

母は、受け入れるより、忘れるほうがずっと簡単だから
記憶をぼかすことを選んだのかも知れないと
幕が下りからそう思った。


緊密で素晴らしい舞台だった。
中でもひとり、とあげるなら
はじめてであったゴネリル役の銀粉蝶。

強くたくましく、他方はかわいくひたむきに
小柄な彼女は最後まで
自分の運命を自分の意志で選んだのである。
友だちにはなりたくないが、
その徹底的な悪の大きさと強さが印象的だった。
華やかささえその身に添うて…。

平成20年2月22日(金)
於:シアタードラマシティ 

「リア王」
リア王:   平  幹二郎
コーディリア:内山 理名
リーガン:  とよた真帆
ゴネリル:  銀粉蝶

エドマンド: 池内 博之
エドガー:  高橋 洋
道化:    山崎 一

グロスター伯:吉田 鋼太郎
ケント伯爵: 嵯川 哲朗

翻訳:    松岡 和子
美術:    中越 司
音楽:    阿部 海太郎

演出:    蜷川 幸雄

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2008.03.25

二週続けて落語漬け

落語のレポは書きにくい。
個人芸だからだろうな。
好きなひとの噺は何度聞いても面白かろう。
ただいまは、
「誰が好き」なのか手探りのさいちゅうである。

天満天神繁昌亭は二度目。
開演前にお参りに行く。
天満宮には梅の香が、
香りを吸い込んで手を合わせ、
それからおもむろに寄席の戸をくぐる。

チケットを取るのが一苦労だった催し。
「桂吉弥のお仕事です」…
名付けて“ちりとてちん寄席”
あっと言う間に完売したそうな。

ここ最近しばしば落語会に行っているが
一番客層が若くて女性が多い。
N○Kの朝ドラ効果はいよいよ増してるようだ。

二番手が万葉亭柳眉(字が違うかも)役の
桂よね吉、わたしはこの人、“かなり”お気に入りである。
じみな顔立ちにじみな銀ねずの着物がよく似合う。
芝居噺が得意で、本日の演し物は「七段目」。
上方演芸大賞新人賞を取ったときもこの噺だった気がする。
斜に構えたマクラが、ぴりっと効いている。

プログラムによると、次は染丸師匠のはずなのだが
めくりが消えている。
客席がざわめく中に登場したのは
徒然亭四草こと加藤虎ノ介

みんな大喜びである。
(もちろん私も拍手喝采)
テレビより洒脱な感じの関西風巻き舌で
“そつなく”と言って良いだろう、
短い噺だがじゅうぶんに聴き応えがあった。


中入り前の染丸師匠
テレビと同じ声、同じ顔。
華やかで楽しく親しみやすい声。
笑わせところはたいそう上手く、
引き付けてぱっと離すと、どどっと笑いがあがる。
私たちはすっかり「鵜」と化して
染丸師匠の手の上で笑い転げた。

確かにどこかで聞いた噺だが題名がわからない。
拗ねる旦那がおかしく、
迷惑ながらも浄瑠璃を聞きに来る
長屋の連中の右往左往も目に見えるようだ。
同じ噺でも演じるひとによって
たいそう受ける感じが違うのは、お能とおなじ。


短い休憩の後にもめくりが出ていなかった。
もう観る方も解っていて
今度は誰が、と見守るうちに
しずしずと徒然亭草々=青木崇彦の登場

「おおっ、今度は草々兄さんや」
「背(せい)が高いなぁ」
「今日来てよかった~」
周りの中年以上の女性客(わたしも含め)は
しゃべりながらしっかり手を叩く。

スタイルがいいなあとしみじみ。
顔がずいぶん上にある。
しかしこれでは落語会というよりも
まるで「スタジオ・パーク」のちりとてちん特集だ。


トリは吉弥さん
役者の顔と落語家の顔
どちらも明るく真面目でとっても陽気。
わたしが気に入っているのが彼の手。
ふっくらして感じよく表情豊か…手も顔と同じだ。

「ちりとてちん」でしょっちゅう出てくる
(草若師匠の十八番)「愛宕山」である。
賑々しく、ほんとに楽しそう。
最後には徒然亭一門のあとふたり、
小草若=茂山宗彦と、小草々=辻本くんも登場し、
大拍手の中での幕切れで、
落語じゃなくってお芝居みたいだった。

ハネて出るとひとだかり。
吉弥さんがお見送りしてくださる。
サインを貰う人、一緒に写真を撮る人など、
たくさんのひとたちが居残っていた。

この催し、たいそう話題になったようで
少したってから新聞に好意溢れた評が載った。

2008年3月6日(木)天満天神繁昌亭
       午後6時半始め
○ 桂  二乗   「牛ほめ」
○ 桂  よね吉  「七段目」

   徒然亭四草  「つる」
○ 林家 染丸   「寝床」

     中入り
   徒然亭草々  「道具屋」
○ 桂  吉弥   「愛宕山」

次の週、今度は地元の「市民寄席」へ
こちらは長年続いているが、でかけたのは、
今回がはじめてである。
兄弟分に当たる「市民狂言」には度々足を運んだけれど。


古い小学校を改装して作られた芸術センター
会場は「大広間」であると聞き
ひょっとして畳敷きかいなと心配したが
椅子だったのでやれうれし。

あいにくの雨、チケットは完売だが
座席はところどころ空席がある。

ここはいつもの落語会の風景。
年齢層がたかく男性客が目立つ。
男女比は半々くらいだろう。


年に数回づつの催しだが
こういうものは続けてほしい。
もちろん「市民狂言」もね。
予算削減の話がニュースになるたびに心配になるのだ。
隣の県では「お笑い」の展示施設が
補助を打ち切られるかも、と盛んに報道されているし。

落語家のメンバー、年配者が多い。
よね吉さんが一番手で最年少。
繁昌亭ではじみにみえたのに
ここでは声も大きくよく張っていて
若さ溢れるトップバッター振りだ。

演じる「米揚げ笊」ははじめて聞く。
久しぶりに演じる噺のせいかやや硬さがある。


どの噺家もそれなりに
面白おかしい話ぶり。
無理に笑わせようというところが見えないので
かえって気楽に笑える。

順が進む毎に
噺家が年よりになっていく。
自分との年の差が狭まってくるにつれて
噺が面白くなってゆく。


トリの松枝は「三十石」を語った。
いま住んでいる地の近くの噺なので
つい身が入り楽しさ数倍。


淀川をゆく船はもうとっくに無い。
港の後はすでに「史蹟」だが
せめて噺の中だけでも
のんびりと川を下ってみたいものだ。

適度な脱線とくすぐりがあり、
米朝一門とやや違ってそれも新鮮だった。


『市民寄席』第289回
  3月14日(金)午後7時開演
  会場:京都芸術センター

○桂   よね吉  「米揚げ笊(いかき)」
○林家  染二   「八五郎坊主」
○笑福亭 小つる  「へっつい盗人」
○笑福亭 松枝   「三十石」

※ 一気に四席、できれば休憩が欲しい

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2008.03.22

花の雪散る…「小塩」

お能をみていると
色々な業平に会える。
妻の嘆きを通して面影をみる「井筒」
すらりとした姿と色合いに
偲ばれるひととしての「杜若」
そしてこの「小塩」

前の二つは直接に業平本人は登場しない。
だからこそこのお能が楽しみだった。
国立能楽堂の催しは
パンフレットは別売りだが、詞章と解説
番組まで載っているのがありがたい。

ところは西山大原野、
花見にきた町の男たち、
群衆の中にみっしりと重たげに花をつけた
桜の枝をかざした老翁と出会う。
やわらかな黄味がかった上の衣(水衣?)
下の小袖は濃い茶色で、
しぼがある生地が深い色合いである。

始めから、お囃子が凛々と耳をうつ。
大小の鼓
大倉源次郎も亀井広忠もちから強い響きだ。
配する笛は、一噌仙幸
駘蕩としたやわらかな音色である。

群衆のなかできわだって品のよい老人だから、
都の男が「風流なかただ」と驚くのも無理はない。
ワキは宝生閑、
いつもの旅僧の姿でないのが新鮮、
かぶりものがないとごく普通の市井のひと。
さりげなさがふんわりといい感じだ。

なだらかな西山の山裾をのぼっていくと
その途中でふと出会うお社がある。
仰々しくないそれが、大原野神社である。
たぶんむかしはもっと社領も広かっただろうが
岡の高さはそれほど変わってはいないはずだ。

参道に入る手前で鳥居を左手に、東をながめると
遠くひろびろと都の景色がひろがる。
ここ西山はうらうらと明るく
足弱なものでも遊山に出かけやすい。
西行法師の庵もこのあたりにあったと聞く。
暖かいひかりが満ちているからだろう。


穏やかに緩やかに会話が弾み、
足取りも軽くそこここの景色を愛でる。
消え失せる前のなんでもないやりとりにも
春の心はずみが思われる。

不思議でならない都の男たちが
子細を尋ねる里人は
かっちりと長袴を着こなしている。
このあたりの郷士でもあろうか、
篤実で力のこもった語りである。
アイが登場すると常は、
ふっと見所の空気が緩むものだが
このたびはみごとに引き締まった彼の語りに
思わず引き込まれて姿勢をただす。

後シテの面は、澄み切って美しい。
業平だから「中将」の面が使われるとおもっていた。
しかしわたしの目でみても
なめらかな眉のあたりなどそれには見えない。
(後に知人から。あれは「十六」という名の
面である旨、教えていただく)

纏う狩衣は
ほんのりとあたたかみのある薄紫。
冠は武官のそれ
若々しい面は、微笑んでいたり、
神々しかったり、
また二条の后のように艶めかしくみえたりする。

そのどれもが一体となっているようにみえる後シテである。
序の舞はゆるくゆるやかに続き
足拍子さえもやわらかに踏まれる。
ふと脇を向くその面に花吹雪が散りかかる。

闇を裂くのはきりっと際だつ鼓の音色。
そのたびに細かな花びらが舞う。
胸紐は美々しい紫
玉留めの色合いはそれよりやや赤みを帯びている。

業平の歌尽くしにのって舞い続けるのは
桜の精と化した神である。
高きにいますそれではなく、
もっと人懐かしい神である。
うす紫の装束は「業平」の、杜若にちなんだものと
そのときは思っていた。

ところが翌々日の宵、春のはじめの淡雪が
街灯に照らされるのをみたときに
はじめて腑に落ちたのである。
細かな雪はあかりの中で薄く色づいてみえた。
春のあけぼのの
薄紫の雲と散る花を
ひと色であらわせばこの色に違いない、と。

その色こそは業平の色
あたたかな中にもかすかな苦味を含んでいる。
激しいこころは表にあらわさぬまま、
人が桜か、桜が神か、
ゆらゆらと絡まった糸がほどけるが如くに舞は終わる。

国立能楽堂定例公演
平成2年2月15日(金)午後6時30分開演

能「小塩」

前シテ・老人
後シテ・在原業平   友枝 昭世
ワキ・花見の客    宝生 閑
ワキツレ・同行の者  則久 英志
ワキツレ・同上    御厨 誠吾
アイ・里人      山本 東次郎

笛: 一噌 仙幸 小鼓:大倉 源次郎
大鼓:亀井 広忠 太鼓:前川 光長

後見:中村 邦夫・友枝 雄人
地頭:香川 靖嗣

※狂言「痩松」
シテ・山賊 山本 東次郎
アド・女  山本 則重        

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2008.02.28

明るく楽しく“乞食”が踊る「ベガーズ・オペラ」

入ってすぐにしつらえに目がゆく。
階段が縦に高く繋がりあちこちに網目のように
張り巡らされている。
舞台上に客席があってびっくり。
上手と下手に4列づつ(のようにみえた)
なのに少しも狭苦しく感じなかった。

ところは梅田芸術劇場のメインホール
さらに舞台の両袖に、
オペラのボックス席のようなスペースが。
ここも使うのかな、
雰囲気が出そう…と期待する。

席はほぼ中央でちょうど真ん中。
とても見やすいよい席だが
舞台上の席がちょっと羨ましい。

老いた役者が登場する。
白い鬘が音楽室でお目にかかる
古典派の作曲家みたいで、笑ってしまった。
「ベガーズたちにひと晩劇場を貸してやる」のだそうだ。
彼といっしょに待つうちに
客席後方から奇声をあげながら
ベガーズ(乞食たち)が登場する。
乞食らしく衣装はぼろぼろ。

先導しているのは詩人乞食のトム。
今夜の「オペラ」は
彼の脚本兼演出なのだ(そうだ)。

役者が乞食の役をやって
その乞食がオペラを演じる。
乞食役の設定とオペラでの役まわりはまた別なのだ。

これはパンフを読んで初めてわかったこと。
見ている間は
三々五々うち連れて袖へ退いたり、
脇のボックスに入るベガーたちの関係はわからない。
後で設定を読んで納得する。
やはり親しいもの同士が
劇を離れると一緒に語らったりしていたのだ。

一言でいうとたいへん華やかな劇である。
たくさんの人物の出し入れが無理なく
短い時間で行われる。
(これは「レ・ミゼラブル」のときと同じ)
歌は聞きやすくまた覚えやすく盛り上がりもある。
オケは舞台右奥に陣取り、
鬘をかぶった指揮者が
バロック風の音楽の棒をふる。
音響もひなびていて可愛らしい。

幕開け、ピーチャム夫妻(内縁関係)が
娘のポリーの事を心配している。
あの悪党のマクヒーにポリーは首ったけなのだ。
何とか二人を別れさせようと説得するが聞かない。
マクヒースはポリーに甘い言葉を投げ、
追いはぎの仕事に出かけてゆく。
この男、女にはめっぽう弱い。
そこでピーチャムは、彼の昔の女をスパイに仕立て
マクヒースを捕えさせる。
牢番のロキットとは昔から持ちつ持たれつ。
ところが彼の娘のルーシーも
マクヒースに籠絡され、彼の子を妊っている。
尋ねてくるポリー、迎えるルーシー、
二人の女はお互いを嫉妬して男を責める。

結局ルーシーは父の鍵を盗んでマクヒースを逃がす。
せっかく自由になったのに、
隠れ家に女を呼んでのどんちゃん騒ぎ、
またしてもお縄になるマクヒース。
今度ばかりは逃げられずに「死刑」に、
とその時、見ていた老役者から声がかかる。
「オペラに残酷さは似合わない」、として
作者の意図とはうらはらに
一転賑やかなダンスで幕が下りる。


出演者が粒ぞろい。
高嶋政宏…大柄で強そうで柄が悪い。
この劇は悪人ばかり登場する。
ケチなのから大悪人まで、
中でも高嶋は親分格でえらそうである。

主役の内野聖陽はとても可愛いい。
声は先ごろまで風林火山で聞き慣れていたし、
「メタル・マクベス」でもいい声だった。
ものごしが気障で柔らかく、なおその上に凄みもある。
心憎いばかりの女たらしぶりだ。

衣装は赤いフロックコート、ぴったり。
こんなに目立つ彼が、客席を駆け抜けて
舞台へあがる出のおりには
体を丸めていて目だたなかった。
「ベガー」としての彼は、気弱な男、と
設定されているからだろうが
気配の消し方はみごとだった。

相手役のふたりの女優がすばらしい。
笹本さんの甘く清純な歌声に対し
ドラマチックな島田さん
聞いているだけで引き込まれてしまう歌の魅力。
ダンスも含めて
ミュージカルって楽しい。

出演者の年代が若手から年配まで揃っていて
むかし知っていた役者に気がついたりする。
老いた役者を演じる近藤洋介、
見覚えがある気がして調べてみたら
なんと、白黒テレビ時代の人気番組
「事件記者」に出てたひとだった。
そのときは若手で颯爽とした「ブンヤ」さんだったな、
などと次々に思い出すのも楽しいことだ。
村井国夫とふたりで踊るみじかいダンス
拍手を受けて照れてるのが、なんとも微笑ましい。

劇の素材は暗いのに、
それを感じさせない明るい展開が気楽だ。
乞食詩人のトムと
劇中の小悪党など演じる役とを
いったりきたりする橋本さとし。
声もよくコミカルな演技ですてきだった。
歌はもう少し上手になってほしいな。
ラストシーンを悲劇にしてダメを出され
拗ねに拗ねまくる場面など面白くってたまらない。

「ベガーズ・オペラ」が書かれた時代は
オペラはハッピー・エンドでなければならない、という
「決まり事」があったそうで、
ここでのどたばたは、
お話の流れを無視したその当時のオペラへの
痛烈な皮肉になっているのだという。
(パンフレットから)

楽しく笑って見聞きしていても
台詞や歌に、みごとに現代に通じるものがあって
ドキっとすることが何度もある。
特にお金の扱いかた、
“金さえあれば…”何でもできる世の中、
泥棒たちの理屈は決して間違っていないと
思わせるものがある。
無理に現代風にアレンジしてないので
さらっと流して僅かに渋みを添える、という
演出が冴えている。


三時間が早かった。
トイレ休憩時にも出演者が客に話しかけたりして
サービス満点である。
その時の役者たちは「ベガーズ」なのだ。
それだから、客席もとてもとても盛り上がり
劇が始まるとすっと集中し
笑うところでは大笑い。
大会場がひとつになり、一体感につつまれて
気分はこのうえなくよかった。

2008年2月13日(昼)
於:梅田芸術劇場メインホール

ミュージカル「ベガーズ・オペラ」
キャスト
老役者       近藤 洋介
ピーチャム     高嶋 政宏
ミセス・ピーチャム 森 公美子
ポリー・ピーチャム 笹本 玲奈

マクヒース     内野 聖陽

ロキット      村井 国夫
ルーシー・ロキット 島田 歌穂

トム/フィルチ    橋本 さとし

 ※役名はオペラの役です

幸村吉也、小西のりゆき、村上勧次朗
高谷あゆみ、三谷六九、照井裕隆、宮菜穂子
高野絹也 Kuma、水野栄治、原田優一、
小此木麻里、山崎ちか、泉里沙、入絵加奈子ほか

演出・脚色  ジョン・ケアード

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2008.02.20

ホールと神社…名人会と勉強会

寄席を体験してみてすっかり落語のファンになった。
「繁昌亭」はいつも満員で
チケットも取りにくい。
そこで今回は「東西名人会」なるものに行ってみた。

場所は、演劇でなじんでいるシアタードラマシティ。
さあて舞台のしつらえはどんな風だろう、と見ると
白地の屏風に見台が置いてあるだけ。
座布団は華やかな青だったが、
とてもあっさりしている。

寄席の華やかさとは対照的だ。

広い空間の真ん中に
「たったひとりきり」というのは
どんな気分のものなんだろう。
この日も開演よりよほど前から満員御礼。
やっぱり年齢の高い男が目立つ。
落語って男のひとが好む芸なのだろうか。

関東から柳家喬太郎、
後は全員関西勢、大阪の雰囲気いっぱいだった。
意外にも、その喬太郎の噺が一番面白かった。
笑わせ方もおおげさではなく、
小気味いいテンポで話が進み、
サゲまでテンションが落ちなかった。

もちろん地元勢もそれぞれ熱演だったが
寄席ではぴったりくるくすぐりや
ややきわどいネタが
このホールの広さでは
なんとなく拡散する感じがする。

どのひとも座布団から伸び上がったりして
おおきな所作だったのは、
客席の後ろまで、笑いが届くように、だったのだな。
後ろの席から、交代の合間に
「ちりとてちん」についてのうんちくが洩れ聞こえる。
この満席、やっぱりドラマの影響もあるようだ。

休憩十五分をはさんで二時間半、
たっぷりきけたなと感じたし、
ベテラン揃いだったけど
寄席で聞く落語のほうが面白い。

第八回 朝日東西名人会
2008年 1月24日(木) 午後6時半開演
桂 春菜   「昭和任侠伝」
柳家 喬太郎 「粗忽長屋」
笑福亭 鶴光 「木津の勘助」
    中入り
笑福亭 仁智 「トクさんトメさん」
桂 南光   「素人浄瑠璃」


また別の日に、地元でやっている
米朝一門の「勉強会」を見に行く。
東山安井の安井金毘羅会館といえば
大きな通りの面して鳥居のあるところだ。
お参りしたことはないけど知っている。
交通の便もよかったので出かける。
夕方から強い寒さ、
遠かったら遠慮していたと思う。

開演一時間前に、すでに三十人ばかりの列ができている。
常連らしい人たちが
「今日はすごいね」「よね吉さん出はるしかいなぁ」
などと話している。
ここでも“ちりとてちん”ブームか。
テレビとはすごいものだ。

大広間の床の間の前に高座。
ちょっと狭くて上り下りが大変そうだ。
三味線の音が気分を出している。
桂米朝一門の若手は
ここで初高座を飾るお弟子さんが多いそうな。
後で調べて気がついた。

中庭に面したガラス戸の近くに
座布団席を確保したのが三十分前。
ところが、どんどん人が詰めかけてくるので、
廊下にもびっしり座布団が並び、
手洗いに行きくても通りにくい状態である。
前座さんから「もうちょっとお詰め願います」と
二度、三度と声がかかり、
ほんとに膝が触れあうほど、満員電車の中みたいになった。

正座で八席聞くのは、じつはかなりつらい。
ただ、どの人の噺も力がこもっていて、
知ってる噺も初めての噺も
それぞれに面白いから何とか我慢できた。
この狭さとマイク無しの地声なのが
かえって味わいが出てよい。
よね吉さんが登場したときの拍手はひときわ大きかった。
じつはわたしも彼が出ると知ってやってきたのだ。

老練な雀三郎さんの新作落語
同年代としては懐かしさこのうえなし。
よね吉さんの「ちはやふる」
上り坂のひとらしく華やかな気が立ちのぼる。
しん吉さんの「深山隠れ」
これが落語、講談ではないの、という意外な噺だ。
みな同門だから、なんとなく語りくちが共通

羽織を着ているひとと着てない人、
「真打ち」になると羽織姿なのかしら。
脱ぎかたにそれぞれ特徴がある。
噺家さんの和服姿、なかなかすてきである。
そのうち、出ばやしも聞き覚えられるだろう。

“たっぷり”聞き終えた後はふっくりと温まった。
速歩でバス停に急ぎ、小一時間で帰宅。
近くの催しは楽だ。

2008年2月6日(水)18:00開演
桂 さん都  「ろくろ首」
   雀五郎  「宿屋町」
   吉之丞  「肝つぶし」
   出丸    「向う付け」
   よね吉  「千早ふる」
   雀三郎  「神頼み青春篇」
   宗助    「蔵丁稚」
   しん吉  「深山隠れ」

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2008.01.26

生きることのせつなさは…「わが闇」

その土地に生まれたものは
そこで見るのが一番いいのかしら
下北沢の駅におりると
いままで知っていた東京と
まったく違う街があった。

ごく普通の商店街
ちょっとしたスーパーに
喫茶店に居酒屋、
道行く人はたいてい若い。

でもこの風景は
学生が多いわたしの街と
さほど違ってはいない。

道は狭くて曲がっている。

こんな風景を数十年前に
古い映画館の近くで確かに見た。
任侠映画が流行していたころだ。

前日に睨んだ地図では
ずいぶん離れていると思った店が、
右向いたらあったりして
ここでは緊張しなくてすんだ。

本多劇場は駅から徒歩5分ほど。
当日券を求める人が
階段の下まで並んでいる。

忙しいはずの師走に
なんでこんな場所にいるかというと
ナイロン100℃の公演を観に来たからだ。
大阪公演はあるけれど
土日しかステージが無いので
仕事を休むのはとても難しい。

2007年はケラさんの芝居に凝っていた。
これまで見たのはプロデュース公演と
脚本潤色のものだったので
いちど「オリジナル」を見たかった。
一年の終わりに願いが叶ったことはさいわいだった。

客層は圧倒的に若く
なんとなく居場所にこまって苦笑する。
また男性が多い。
トイレはこの規模の劇場のわりには
数が多く、きれいなので安心した。

ナビゲーターの役回りは岡田義徳、
口もとに皺が見られ、もう決して若くはない。
「イグアナの娘」をテレビで見たのは
何年前のことだったろう。
しかし彼の声も話し方も感じがよく
すなおに話に入っていける。

三十年ばかり前
とある田舎に引っ越してきた
作家柏木伸彦と妻と三人の姉妹

舞台は次のようにしつらえられている。
中央はいろりのある部屋で、
下手には応接セット
その裏には台所(があるらしい)
部屋の奥、階段の前には飾り棚がある。
上手の後がわに部屋(箒や掃除道具)
右手は上がりがまち、一番下手には物置。

「場」に奥行きと高さがあるのが
KERAの舞台の特徴のように思う。
表で演じられることがらと
裏(みえない場所)で起こっているできごとが
おたがいに繋がっていくのである。

舞台中央、階段の前に
降りてくるスクリーン
そこに映し出される作家の父(伸彦)
立子が求める…父
彼女は父に愛して欲しかったのだ。
だから作家になったのに、
父は娘の才能に嫉妬して、愛情を艶子に向けた。
向けられた艶子は自分を抑えて
父の思いにこたえたが、
無理は続くものではない。
彼女の反乱は、つまらない男と結婚することで終わり
彼と共に実家に帰ってくる。
(この夫の嫌味と屈折はすごい、としか
言いようがない)

艶子の仕草はうつくしい。
太り気味の鈍重にさえみえる姿なのに、だ。
おだやかでゆっくりしたしゃべりかたが
静かに諦めた生き方をあらわしているようだ。
こがらでおしゃまな三女類子は女優になった。
すっきりきれいな足を持ち
スカートを翻して元気に歩く。
家を出て飛び込んだ芸能界で
妻子持ちの男とのスキャンダルが発覚して失踪、
やっぱり行き場をなくして実家に帰ってきたのだ。

三人の母、基子は
きれいなひとだが心を病み、
覆い被さるように夫と娘たちに対する。
その激しさとしつようさに
うんざりした夫は彼女を捨て、
妻とは正反対の能天気な女と恋をする。
作家という職業をまったく尊敬していない女と。

離婚に抗って、包丁で自死する基子は無惨だ。
血まみれで妻を抱き起こす伸彦。
だが、弔いが終わってすぐに
彼は再婚し、
三人の娘は継母に育てられる。

ここまでがお話の導入部で
簡潔に、登場人物ひとりひとりの紹介が
やりとりの間になされる。

それからの家族の物語は、
春の部と
夏の部、
おのおの一時間づつで語られる。

その物語のあらすじを、わたしは書けない。
せりふにも登場の仕方にも
あらゆる細部に意味があるようなこの劇の
ストーリーを追っても
身にしみた数々の場面を語り尽くせはしないからだ。

そして三時間半の後

カーテンコールが終わる。
劇のの流れに任せて
積み上がっていく
姉妹やまたそれをとりまく人々の
日々の生活を眺め、感じ、
茫然としているうちに終わってしまった。
さやさやとふるえるこころが、
しっとりと潤ったのを
帰りの電車の中でたしかめている。

どの人物も
存分に自分の生を生きている。
ふとした仕草や視線に
こちらの気持が寄りそって
話の中へわたしも参加し、傍でじっと見つめている。

長い長い導入部
すこしづつ解かれる謎
登場したひとたちの心のありようが
一瞬に結晶するクライマックス
その時間は、短い。

思い返していてふと気づく。
この舞台はお能に似ていると。
お能ではシテはひとりだが
「まことのすがた」に至るまでの
長い問答と静かな序の舞
キリの高揚と
はたと止まる時間
それらをあてはめても少しもおかしくない。

お能の物語は、キリでとめ拍子が踏まれた後も
わたしたちの心の中で続くのだ、と思う。

「わが闇」のひとたちの話も
ある年の夏の午後の一瞬、
笑いさざめいて昔の写真を眺めているラストで
終わりではない。

ひとまず、ささやかに「生きていること」を
確かめ合ったその後で

立子はたぶん盲いるのだろうし
艶子と夫は別れるだろう
未完はここに居つづけるはずだが
若くない彼が倒れてもおかしくない
類子は、彼女はどうするのだろう
芸能活動はやめるかもしれない


義徳は売れない映像作家で居つづけるだろう
なべちゃんの突拍子もなさは治らないだろう


こんなにも「アカルイミライ」は思い描けないのに
観た後の幸福感は限りない。

小さな劇場の小さな舞台で演じられた小さな話
それがわたしに
小さくても、確かに信じられるものがあるのだと
感じさせてくれる。
日々を穏やかに、暮らしていけばいいのだ、と。

※ わたしが一番好きな登場人物は
  一家のすべてを共に「居た」
  三好みかん君かもしれない。
  四月に発売されるDVDがたのしみである。

2007年 12月26日
下北沢 本多劇場 PM2:00開場

脚本・演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ

キャスト
柏木立子(たつこ) 犬山イヌコ
守口艶子(つやこ) 峯村リエ
柏木類子(るいこ) 坂井真紀

滝本 悟      岡田義徳
大鍋あたる     大倉孝二

皆藤竜一郎     長谷川朝晴

三好未完(みかん) 三宅弘城
守口寅夫      みのすけ
柏木伸彦      廣川三憲
柏木基子・飛石花  松永玲子

志田潤       長田奈麻
潤のの再婚相手
・カメラマン    吉増裕士
田村・編集ライター 喜安浩平
皆藤の妹
・雑誌編集者    皆戸麻衣

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